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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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6話:閉じた水族館

 誰よりも遅く帰る人間が、誰よりも早く疑われることはない。

 森川はそれを知っていた。知っていたから、職員が全員帰った後も事務室に残った。デスクの上に収支表を広げ、電卓を叩く。どう計算しても、赤字が消えない。削れる経費はもうない。削ったら生き物が死ぬ。

 スマートフォンが鳴った。画面の名前を見て、一呼吸置いてから出た。

「——久しぶり」

 元妻の声だった。

「翔太のことなんだけど」

「ああ」

「来月の塾代、振り込みが遅れてるの。先月の分もまだ」

「……すまない。月末には入れる」

「毎月そう言うよね」

 森川は何か言おうとした。言い訳ではない何かを。翔太は元気か、とか。背は伸びたか、とか。でも、養育費を滞納している人間にその資格があるとは思えなかった。

「入れる。必ず」

 それだけ言って、電話が切れるのを待った。切ったのは向こうだった。いつもそうだ。

 デスクの引き出しを開けた。奥にしまってある写真立て。翔太が五歳の時の写真。水族館の前で、売店で買った魚のぬいぐるみを抱えて笑っている。ぬいぐるみの値段は八百円で、翔太は自分の小遣いから半分出した。「半分はお父さんね」と言って、四百円を森川の手に握らせた。

 あの水族館は、もうない。


   *


 十年前。

 森川は千葉県の小さな水族館で副館長をしていた。市の第三セクターが運営する施設で、規模は今の館の半分ほど。イルカもアシカもいない。地味なクラゲと深海魚と、地元の磯の生き物を展示するだけの場所だった。

 それでも、子どもたちは来た。

 遠足の団体が来ると、森川は自分で案内をした。クラゲの水槽の前で足を止めて、説明する。

「このクラゲはね、自分では泳げないんだ。水の流れに乗って漂ってるだけ。でも、光ることができる。暗い海の中で、自分の存在を光で伝えるんだよ」

 子どもたちが水槽に顔を押しつける。「すごい」「きれい」「なんで光るの」。その声が、森川にとっての報酬だった。給与明細の数字よりも、ずっと。

 経営は厳しかった。毎年の赤字を市の補助金で埋めていた。それでも回っている間は、誰も閉館の話をしなかった。

 市長が代わった年に、すべてが変わった。

 新市長は財政再建を掲げていた。第三セクターの見直しが始まり、水族館は真っ先にリストに載った。「年間赤字三千万。費用対効果が見合わない」。議会での答弁は、そのまま地方紙に載った。

 森川は市役所に通った。企画書を書いた。集客プランを作った。SNSの活用、近隣の学校との連携、夜間開館のイベント。今思えば、今と同じことをやろうとしていた。

 結果は同じではなかった。

 閉館が決まった日、森川は展示ホールに立っていた。最後の営業日。来館者が普段の三倍来た。なくなると知ると来る。いつもそうだ。閉館を報じた地方紙を読んで、「あの水族館、まだあったんだ」と思い出す人たち。最後の一ヶ月だけ黒字だった。皮肉だと思った。

 閉館のアナウンスが流れた。「本日をもちまして——」。スピーカーから流れる声を、森川は自分で録音したのだった。他の誰にも読ませたくなかった。

 閉館後、展示ホールの掃除をしていたとき、受付のカウンターの裏側にノートが落ちていた。来館者の子どもが忘れていったらしい。開くと、水槽のスケッチがあった。クラゲの絵。丸い傘と、そこから伸びる触手。絵の横に、丸っこい字で書いてあった。


 「またくるね」


 森川はそのノートを、十年間捨てられずにいる。


   *


 翔太は今、十五歳になっている。

 離婚したのは七年前だ。原因は金だった。水族館の仕事にすべてを注ぎ込む夫に、妻は疲れた。「あなたは家族より水槽のほうが大事なんでしょう」。否定できなかったことが、たぶん決定打だった。

 養育費は月八万円。翔太の塾代を入れると十万を超える月もある。森川の給与からは捻出できる額だが、水族館の経費を個人で立て替えている月は、翔太への振り込みが遅れた。

 立て替え。最初はそう呼んでいた。

 水質検査の試薬、壊れた機材の部品、来館者向けパンフレットの印刷代。予算が足りない分を、森川が自腹で補っていた。領収書は保管してある。いつか精算するつもりだった。

 いつか。その「いつか」は来なかった。立て替えた金は館の予算に溶けて消えた。精算を申請すれば、予算の不足が表に出る。表に出れば、また閉館の話が始まる。

 だから言わなかった。誰にも。

 森川はデスクの収支表に目を戻した。赤字の数字が、何度見ても変わらずそこにある。


   *


 スマートフォンがまた鳴った。今度は登録のない番号だった。

「——森川さんですか。山田です」

 声に聞き覚えがあった。海洋生物の仕入れ業者。以前、展示用のクラゲを納入してもらったことがある。

「山田さん。お久しぶりです。こんな時間にどうしました」

「ちょっとご相談が」

 山田の声は低かった。持ちかけ話をするときの声だと、森川は思った。

「実は、ルートがありましてね。ちょっと特殊な個体なんですが、需要のある相手もいまして。中継する場所と、生体を管理できる人間が要るんですよ」

 森川は黙って聞いていた。山田が言っていることの意味はわかった。正規の流通には乗らない個体を、正規ではない相手に流す。そのための場所として、この水族館のバックヤードを使いたい。

 時計は二十二時を回っていた。展示ホールの水槽では、オワンクラゲがLUNAの残光の中で静かに拍動している。光はとうに消えていた。

 受付のカウンターの裏に落ちていたノートを思い出した。丸っこい字。「またくるね」。

 あの子は、また来れなかった。水族館がなくなったから。

 森川は、返事をしなかった。

 まだ。

 この時は、まだ。

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