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その夜、クラゲが光った ——水族館飼育員の娘が父の冤罪を晴すまで  作者: 一条信輝


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4/9

4話:水族館の裏側

 月末の金曜日は、父の機嫌が悪くなる日だった。

 美月はそれを三年前から知っていた。朝ごはんのトーストを焦がす。洗い物の音が少し荒くなる。「行ってきます」の声が低い。どれも小さな変化だが、毎月繰り返されるとパターンになる。

 理由は聞いたことがない。聞いても「大人の話だ」で終わるからだ。

 その日も、閉館後の展示ホールでノートを広げていた。二十四日目の記録。LUNA点灯を待つ静かな時間。水槽のガラス越しにクラゲの影が揺れている。

 二階から声が落ちてきた。

 会議室の窓が開いている。七月の末、館内のエアコンは半分が壊れたまま修理されていない。仕方なく窓を開けて会議をしているのだろう。

 聞こうとしたわけではない。ただ、閉館後の展示ホールは水の音しかしない場所で、二階から降りてくる声は、嫌でも耳に入った。

「——四月から六月の来館者数、前年比で八十七パーセント——」

 森川の声だった。数字を読み上げている。穏やかな声。いつもと同じトーン。天気予報を読むみたいに、淡々と。

「——このままでは年度末に——二千四百万の赤字——」

 二千四百万。美月は、その数字がどのくらい大きいのかよくわからなかった。ただ、二階の空気が変わったのは感じた。誰も何も言わない時間が長くなった。

「——循環ポンプは耐用年数を二年超過——」

「——濾過フィルターの交換も半年遅れ——」

 壊れかけている、ということだろうか。美月は第三水槽を見た。循環ポンプの低い唸りはいつもと同じに聞こえる。でも、いつもと同じ音が明日も続く保証はない。母の心臓も、最後の朝まで音を立てていたのだ。

 誰かが咳をした。

 森川の声が再開した。今度は提案の口調になっていた。

「——LUNA照明を手動に切り替え——」

「——来館者のピーク時間帯に発光演出を——」

「——SNSでの拡散——クラゲの光のショー——」

 照明を手動にする。来館者を集めるために、クラゲの光を「ショー」にする。

 次に聞こえたのは、父の声だった。

「——紫外線照射量が不安定になります——」

 硬い声。美月は、この声をよく知っていた。正しいと思うことを言うときの声。まっすぐで、曲がらなくて、だから時々折れる声。

「——GFPの励起条件は一定であるべきです。生体にストレスが——」

 森川が返した。穏やかなまま。

「——データはあるのか——」

 父が何か言った。短かった。聞き取れない。

 森川の声が続いた。長い。一つひとつの文が整っている、ということだけが声の調子でわかった。反論を受け止めて、吸収して、自分の結論に戻していく話し方。最後の一文だけが、はっきり聞こえた。

「——水族館が潰れたら、クラゲの世話をする人間もいなくなる」

 父は答えなかった。

 美月はノートの上で手を止めたまま、水槽を見ていた。百五十匹のオワンクラゲが、何も知らずに拍動している。この子たちの家がなくなるかもしれない、という話を、ガラス一枚の向こうで大人たちがしている。

 二階が静かになった。椅子を引く音。足音。会議が終わったらしい。


   *


 二十時三十分。LUNA照明が点いた。

 美月はストップウォッチを押して、水槽を見つめた。紫外線ライトの青紫色が水面を照らしている。

 三分経っても、一匹も光らない。

 五分。まだ光らない。

 通常は三分で最初の一匹が反応する。美月はノートに目を落とし、時計を確認し、また水槽に視線を戻した。

 二十時四十二分。ようやく一匹、傘の縁が淡く緑に光った。十二分。通常の四倍かかっている。

 美月は水槽に顔を近づけた。光り始めた個体の位置を見る。水槽の上部、紫外線ライトに一番近い個体からだ。いつもと同じ順番。でも、光の広がりが遅い。普段なら一匹が光ると周囲に波及するのに、今日は一匹ずつ、ぽつりぽつりと灯っていく。

 二十時五十三分。ようやくピーク。予測より八分遅い。今までで最大のずれだった。

 ——しかも、方向が逆だ。

 これまで記録してきた異常は、すべて「早い」方向のずれだった。ピークが予測より前に来る。それが今日は「遅い」方にずれている。

 備考欄に書く。


 「発光開始20:42(通常20:33)。ピーク20:53。遅延方向のずれは初。LUNA運用変更初日。紫外線の強度が違う?」


   *


 帰り支度をしていると、一階の廊下で父と佐藤が立ち話をしているのが見えた。

 自販機の前。佐藤が缶コーヒーを開けながら、声を落として何か言っている。父は腕を組んで聞いていた。会議のあとの、硬い顔がまだ残っている。

 美月は足を止めた。近づかない。廊下の角から見ているだけ。

 佐藤が片手で廊下の奥——ポンプ室がある方向を示した。父が何か聞き返す。佐藤が首を横に振った。わからない、という動きだった。父が黙って頷く。佐藤が缶コーヒーを一口飲んで、「まあ」と言うように片手を上げた。

 声は聞こえない。ジェスチャーだけの会話。でも、大人が声を落とすのは、聞かれたくない相手がいるときだ。

 美月は展示ホールに戻り、ベンチに座って、今日の備考欄に一行書き足した。


 「21:02 お父さんと佐藤さんが自販機前で密談。ポンプ室の方を指していた」


 書いてから、「密談」を消しゴムで消して「立ち話」に直した。

 事実だけを書く。解釈は書かない。それが、この三週間で自分に課したルールだ。

 でも、消しゴムで消した「密談」の跡は、うっすらとノートに残っていた。


   *


 自転車の帰り道、父が言った。

「来月から、LUNAの運用が少し変わる」

「知ってる」

「……聞こえてたか」

「窓が開いてた」

 父はペダルを漕ぐ足を緩めなかった。夜風が潮の匂いを運んでくる。

「全部聞こえたのか」

「全部じゃない。途切れ途切れ。でも、赤字のことと、照明を手動にすることは聞こえた」

 父がしばらく黙った。

「お前のノート、LUNA照明の記録も入ってるよな」

「うん」

「手動になったら、照明のログと自分の記録を照合できるぞ」

「知ってる。もうノートに書いた」

 父が小さく笑った。その笑い方は、機嫌のいいときの声だった。

「——今日、初めてずれが遅い方に出た」

「遅い方?」

「いつもは早くなるのに、今日は八分遅かった。LUNA手動化の初日に」

 父のペダルが、一瞬だけ止まった。

「……面白いな、それ」

「面白くない。変数が増えた。今までのずれが照明のせいなのか、別の原因なのか、わからなくなった」

「だからノートがあるんだろう」

 美月は答えなかった。

 ただ、一つだけ確かなことがあった。今までの「早いずれ」と今日の「遅いずれ」は、原因が違う。方向が逆なのだから、同じ理由では説明がつかない。

 つまり、水槽の光を変えているものが、少なくとも二つある。

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