【赤き剣の従者 外伝】敵国の戦士と恋に落ちた私は、戦場で彼の腕の中で眠りについた
※この物語は悲恋ものです。ハッピーエンドではありませんのでご注意ください。
敵国同士の戦士が恋に落ちる——Loss系ファンタジーロマンスです。
【こんな方におすすめ】
・切ない恋愛ものが好きな方
・敵同士の禁断の恋が好きな方
・余韻の残る物語を求めている方
【ご注意】
・戦闘描写があります
・主要キャラクターの死亡描写があります
読み切り短編です。最後までお付き合いいただければ幸いです。
最初の春、二人は刃で出会った。
戦場は赤かった。血ではなく、夕陽がそう染めていた。カレントとテオランの国境、境外地に接した丘の上で、両軍が互いを引き裂いている。もともと誰も望まない土地だった。境外地の瘴気が染み込み、農業もできず、時折魔獣が越えてくる呪われた国境。だが百年戦争がすべてを変えた。一寸の土地も譲れない。戦争が始まってすでに二十年。何のために戦っているのか、誰も覚えていない。それでも刃だけは、今も鋭かった。
カイルは剣を取った。
二十三歳の境界人。カレント帝国が誇る「意志の剣」。敵将を三人斬り、境外地からも一人で生還した男。仲間たちは彼を化け物と呼んだ。敬意ではなく、恐れを込めて。カイルは気にしなかった。剣を取る理由は生きるため。それ以上でも、それ以下でもない。
だがその日、彼の剣は空中で止まった。
テオランの槍が阻んだ——いや、違う。光が剣を呑み込んだのだ。槍先から溢れ出た神聖な輝きが鋼鉄を包み、押し退け、砕こうとする。カイルは後ろに下がった。息が荒くなる。こんな力は初めてだった。深層の魔獣と戦った時でさえ、これほどではなかった。
そして——彼女を見た。
金色の髪が夕陽の中で燃えている。槍を持つ女の目は冷たく、美しかった。セラフィン。テオラン神国の「光の槍」。神血の中でも最も純粋な光の力を受け継いだ者。彼女はカイルを見下ろしていた。
言葉はなかった。
剣と槍が再びぶつかる。一度。二度。十度。火花が散った。カイルの剣から見えない何かが揺らめき、セラフィンの槍から光が爆発する。二人は互いを殺そうとしていた。本気で。
二十三度目の衝突で、カイルの剣がセラフィンの頬をかすめた。血が流れる。赤い血。神の血ではなく、人間の血。
三十一度目の衝突で、セラフィンの槍がカイルの肩を突いた。深くはないが、痛い。古い傷の上に新しい傷が重なる。
だが、殺せなかった。
陽が完全に傾いた時、二人は同時に退いた。カイルの剣には亀裂が入っていた。セラフィンの槍は震えていた。互いを見つめる。
戦場で敵を見る目ではなかった。
カイルには分かった。あの女も自分と同じだ。殺したくて殺すのではなく、生きるために殺す者。戦場で鈍りながらも、どこかでまだ人間であろうともがいている。三十一度の衝突の間に感じ取った。あの槍には憎しみがない。ただ生き延びようとする意志だけ。自分の剣と同じだ。
セラフィンも分かった。あの男の剣から狂気を感じない。カレントの化け物と呼ばれる者の剣が、なぜこれほど淡々としているのか。まるで自分を見ているようだ。戦うこと以外は何も知らない、だが戦いながらもどこか虚しい。
初めて、二人は相手が「生きている」と知った。殺すべき敵ではなく、血を流し息をする一人の人間だと。不思議と、それが心に残った。
―――
二度目の春が来た。
休戦が宣言された。一年間、戦争を止める。両国とも疲弊していた。国境の村に中立地帯ができ、カイルとセラフィンはそれぞれの部隊で監視任務についた。
二人は偶然を装った。
中立地帯の森。カイルが偵察に出た時、セラフィンも同じ森にいた。木漏れ日が差し込む。鳥の声が聞こえる。戦場では聞いたことのない音だった。
「……なんで殺さなかった」
カイルが先に口を開いた。ぶっきらぼうな声。だが敵意はない。
セラフィンは槍を下ろした。
「……分からないわ」
それが最初の会話だった。
その後、二人は同じ森で何度も出くわした。最初は無言で互いを見つめるだけ。やがて一言ずつ交わすようになった。
三度目の出会いで、カイルが聞いた。
「あの時。なんであんな風に戦ってた」
「……どういう意味?」
セラフィンの口調は明瞭だった。神殿で育った証。一文字も曇らない、洗練された発音。
「憎しみがなかった。お前の槍に。敵を殺しながら、憎んでなかっただろ」
カイルの口調は対照的だった。短く、荒い。必要な言葉だけ吐く男の話し方。
セラフィンは長い間、彼を見つめた。
「……気づいたのね」
「俺もそうだからな」
「だから聞くの? 同類だから?」
「さあな。ただ気になった」
セラフィンが初めて笑った。苦笑い。
「神殿ではね、感情を教えないの。ただ戦う術だけ。『光は裁かない。光はただ照らすのみ』——最初に学ぶ言葉よ」
「どういう意味だ」
「敵を憎むなってこと。憎しみは光を曇らせるから。だから何も感じない術を学んだわ。斬って、防いで、また斬る。機械みたいに」
カイルは頷いた。
「……似てるな」
「あなたは?」
「俺は逆だ。最初は憎しみしかなかった。世界中が憎かった。でもな、それも擦り減る。憎しみも鈍りゃ何も残らねえ」
「じゃあ今は? 何を感じながら戦ってるの」
カイルは少し考えた。
「何も。ただの習慣だ」
セラフィンは彼を見つめた。不思議とその答えが気にかかる。
「寂しくなかった? 何も感じずに戦うのは」
「寂しいってのが何なのか、知らなかった」
カイルは彼女を見つめた。この女は自分と同じだ。戦場で鈍っていった者。感情を失った者。だが完全には失っていない。そうでなければ、こんな会話はしていない。
「私もそうだった。でも……不思議ね」
「何がだ」
「あなたと話してると……何か感じる。長い間忘れてたようなもの」
セラフィンは答えなかった。だが目が揺れている。同じものを感じているのだ。
四度目の出会いで、セラフィンは彼の肩を見た。前の戦いで自分が突いた傷。まだ包帯が巻かれている。
「その肩……まだ治ってないの?」
「ああ。大したことねえよ」
「私がやったのに」
声が少し沈んだ。カイルは軽く笑った。
「戦場だろ。お前が突かなきゃ、俺がお前を斬ってた」
「でも……」
「でも、なんだ。互いに殺そうとしてたんだ」
「それは、そうだけど」
セラフィンが一歩近づいた。カイルは退かない。
「……見せて。一度だけ」
「は?」
「癒せると思うから」
カイルは少し迷ってから、肩の包帯を解いた。傷が現れる。治りかけているが、まだ赤い。
セラフィンの手が彼の肩に触れた。光が流れる。淡い金色の輝きが傷を包んだ。温かい。戦場で彼女の槍が放ったものと同じ光なのに、感じ方がまるで違う。
「……何してる」
「治癒よ。神血の光は破壊だけじゃないの。生かすこともできる。ただ……」
「ただ?」
「戦場では使う機会がなかったわ。敵を生かす理由なんてないもの」
カイルは彼女を見つめた。集中する顔。額に汗がにじんでいる。力を使っているようだ。光が消えた時、傷は癒えていた。傷跡もほとんど残っていない。
「……悪いな」
「私がやったことだから」
「でもよ。なんでだ」
「……何が?」
「なんでこんなことする。俺は敵だろ」
セラフィンは答えなかった。自分でも分からないという顔。沈黙が流れる。
「……私にも分からない。ただ、あなたの傷を見たら落ち着かなかった。変よね?」
「変だな」
カイルは短く答えた。だが口元がわずかに上がっている。
「でも俺も変だ。お前に癒されて……嫌じゃなかった。敵なのにな」
セラフィンが笑った。初めて苦笑いではない笑み。カイルには分かった——この女が、心を開き始めている。
五度目の出会いで、二人は並んで座った。木の下、木漏れ日が差し込む場所で。カイルが聞いた。
「もし戦争がなかったら、お前は何してた?」
「分からない。考えたこともないわ」
「一度も?」
「神血者は選べないの。戦争があってもなくても、私は槍を持ってた。生まれた時からそう決まってたから」
声は淡々としていた。諦めではなく、受け入れに近い。
「悔しくねえのか」
「悔しさを感じるには、別の人生を知らないと。私はこれしか知らないもの」
カイルは頷いた。
「……俺は農夫だっただろうな」
「農夫?」
セラフィンは目を見開いた。
「元々そうだった。戦争の前は。小さな村で麦を育ててた」
「……本当に?」
「なんだよ、似合わねえか?」
「正直に言えば? 全然似合わない」
セラフィンは彼を見つめた。新しい目で。剣を持つ手がかつて鋤を握っていた。人を斬る腕がかつて麦を刈っていた。想像できない。
「どんな村だったの?」
「小さかった。家が二十軒くらい。丘の上にあって、風がよく吹いた。麦がよく育った」
「家族は?」
「……いた」
カイルの声が低くなった。
「親父とお袋と、妹。妹は俺より五つ下でな。いっつも付いてきてた。うるせえなって思ってたけど」
「……今は?」
「いねえ」
短い答え。だがその重みを、セラフィンは感じ取った。
「ごめんなさい。聞いちゃって」
「いい。昔のことだ」
カイルは空を見上げた。雲がゆっくり流れていく。
「麦の収穫の時に襲われた。村全部が燃えた。俺は畑にいたから助かった。戻った時には、家は灰になってた」
「……」
「親父の死体は見つかった。お袋と妹は見つからなかった。たぶん、焼けちまったんだろ」
セラフィンは何も言えなかった。カイルは淡々と語った。だがその淡々さがかえって痛い。
「だから剣を取ったの?」
「ああ。殺してえと思った。村を襲った奴らを。でも、そいつらがどこにいるか分からなかった。だから手当たり次第に斬った。テオランの軍服着てりゃ」
「……復讐はできたの?」
「知らねえ。奴らが誰だか分からねえからな。俺が斬った中にいたかもしれねえし、いなかったかもしれねえ」
カイルは苦笑いした。
「でもな、ある時気づいた。復讐しても何も戻らねえって。親父も、お袋も、妹も。誰も」
「それで……どうしたの?」
「ただ斬り続けた。それしかできなかったからな」
セラフィンがカイルの手を握った。荒れた手。剣を握った手。だがかつて麦を植えた手でもある。
「想像できないわ。あなたが畑を耕す姿」
「俺だって想像できねえよ。お前が槍以外のもん持ってる姿」
二人は笑った。初めて一緒に笑った。悲しみの上に咲いた笑い。
「いつか見せてやる」
カイルが言った。
「……何を?」
「麦を植えるとこ。戦争が終わったらな」
セラフィンは答えなかった。戦争が終わるという言葉を信じられない。だがその言葉が嬉しかった。
「……待ってる」
その瞬間、カイルは気づいた。この女といると笑える。失ったはずの感情が、戻ってくる。
雨が降るある日のことだった。廃墟の猟師小屋で雨宿りしながら、セラフィンが先に口を開いた。
「私ね、神殿で育ったの」
窓の外を見ながら。
「両親の顔は覚えてない。生まれてすぐに神殿に捧げられたから」
「捧げられた?」
「神血者は家門のものじゃないの。神国のもの。生まれたらすぐに神殿に送られる。両親が望もうが望むまいが」
カイルは何も言わなかった。ただ聞いている。
「神殿での最初の記憶は、黒い服を着た女たちなの。みんな同じ顔に見えた。後で分かったわ。神官たちは感情を出しちゃいけないから、だからみんな同じ表情だったのね」
「ガキにそんな環境は……」
「慣れれば平気よ。私は他を知らなかったから」
セラフィンが苦笑いした。
「初めて槍を握ったのは五歳。初めて光を放ったのは六歳。初めて魔獣を殺したのは九歳よ」
「九歳でか」
「下級の魔獣だったわ。訓練の一部。殺さなきゃ私が死ぬから」
カイルは頷いた。似ている。殺さなければ死ぬ世界。
「初めて人を殺したのは……十二歳の時だった」
セラフィンの声が低くなった。
「境外地で魔獣を狩ってて、盗賊団に出くわしたの。七人いた。みんな飢えた顔してた。たぶん難民だったんだと思う。戦争で家を失った」
「……」
「彼らが先に襲いかかってきた。刃を持って。私はただ……光を放った。反射的に」
セラフィンの手が震えている。
「七人が一瞬で死んだ。悲鳴も上げられずに。光が通り過ぎた所に、ただ……倒れてた。目を開けたまま」
「セラフィン……」
「私は呆然と立ってたわ。魔獣を殺す時とは違った。魔獣は死ぬと灰になる。でも人は……そのまま人として残ってる。血を流しながら。目を開けたまま」
カイルが彼女の手を握った。冷たい。
「血の匂いが……今でも覚えてる。魔獣の血とは違う。もっと生臭くて。もっと温かかった」
「お前は生きるためにやっただけだ」
「分かってる。神官たちもそう言ったわ。『よくやった。お前の光は純粋だった』って。それが褒め言葉だったの」
セラフィンが笑った。泣き笑い。
「その後は殺すのが簡単になった。あまりにも。戦場で敵を斬る時、何も感じないの。最初に殺した時に感じたあの恐怖が……いつの間にか消えてた」
「……」
「それが怖いの。何も感じないってことが。自分が人間なのかどうか、分からなくなる」
カイルは彼女を抱きしめた。セラフィンは抵抗しない。彼の胸に顔を埋める。肩が震えている。泣いているようだ。
「俺もだ」
カイルが囁いた。
「殺すのが簡単になった。それが怖えよ。最初は憎しみだけはあったのに、今はそれすらねえ」
「……」
「お前の言う通りだ。自分が人間なのか、分からなくなる」
セラフィンが顔を上げた。カイルの目が濡れている。初めて見る姿。戦場で化け物と呼ばれていた男が、泣いている。
「……私たち、似てるのね」
「ああ。似てる」
「だから……楽なのかな」
カイルは答える代わりに彼女をもっと強く抱きしめた。沈黙が流れる。雨が窓を叩いている。
「……俺には言えねえことがある」
カイルが言った。
「何?」
「境界ってやつだ。世界の法則に自分だけのルールを刻む。でも代償がある。そのルールは誰にも言えねえ。言ったら死ぬ」
セラフィンの目が大きくなった。
「そんな制約が……」
「だから境界人は孤独だ。一番近え奴にも秘密を言えねえ。一生な」
「寂しかったでしょう」
「寂しいって何なのかも知らなかった」
カイルが苦笑いした。
「でもな、お前には言いたかった。俺が何か隠してるってこと。言えねえってことだけでも」
「……」
「おかしいだろ? 敵にそんなこと」
セラフィンが彼の頬を手で包んだ。
「おかしくないわ。私もそうだもの。あなたには全部言いたい。神殿でもできなかった話を」
「でもよ」
カイルが彼女の顔を両手で包んだ。涙が付いている。彼女のものか、自分のものか分からない。
「お前に会ってから、初めて何かを感じた。生きてるってのが何なのか」
セラフィンの目から涙が流れた。
「私も……私もよ。あなたの前では感じる。痛みも、恐れも、それから……」
言葉が途切れた。だがカイルには分かった。彼女が何を言おうとしていたのか。
雨が窓を叩いている。世界に二人だけがいるようだった。カイルが先に身を屈めた。セラフィンが目を閉じた。
唇が触れた。
優しく。慎重に。まるで壊れるのを恐れるように。光と剣が一つになる瞬間。
「好きだ」
カイルが囁いた。
セラフィンは目を閉じたまま答えた。
「私も」
―――
三度目の春は来なかった。
休戦が終わった。戦争が再開される。セラフィンが先にその知らせを持ってきた。森で。二人だけの場所で。顔は蒼白だった。
「一ヶ月後に……また戦争が始まるわ。うちの部隊が先鋒よ」
「ああ。噂で聞いた」
カイルの声は短かった。だがその中の重みを、セラフィンは感じ取った。
「うちもだ。国境の前線に配置された」
二人は言葉を失った。分かっている。一ヶ月後、二人はまた敵になる。剣と槍を持って互いを殺そうとするのだ。
「じゃあ……戦場で会うのね。敵として」
セラフィンの声が震えている。
「そうだろうな」
「……嫌よ」
セラフィンがカイルの服を掴んだ。
「あなたを敵として会いたくない。あなたを……殺したくない」
「俺もだ」
「じゃあどうするの? 逃げる? 二人でどこかへ」
切実な声。だがそれが不可能だと、二人とも知っている。
カイルは答えられなかった。逃げる? どこへ? カレントでもテオランでもない場所? 境外地? 魔獣がうごめく地で二人で生きていけるだろうか?
「……できない」
セラフィンが自ら答えた。
「分かってる。私たちには……何もできないのね」
二人は黙って互いを抱きしめた。
「一つだけ約束して」
セラフィンが言った。
「何だ」
「生き延びて。何があっても」
カイルは答えなかった。敵を殺して生き延びろと? 愛する女を殺せと?
「……約束できねえ」
「お願い」
セラフィンの声が震えた。
「私……あなたを殺せない。もし戦場で会っても、たぶんできない。だから、あなたが生き延びて。たとえ私を殺しても」
「何言ってんだ!」
カイルが声を荒らげた。
「お前を殺すくらいなら、俺が死ぬ」
「そんなこと言わないで」
セラフィンの目から涙が流れた。
「お願いだから。二人とも死ぬかもしれないなら……せめて一人は生き延びて。私たちが愛し合ったこと、覚えていて」
カイルは何も言えなかった。ただ彼女を抱きしめた。夕陽が森を染めている。初めて出会った日と同じ色。
「……約束する」
カイルが囁いた。
「生き延びる。何があっても」
セラフィンが彼の胸に顔を埋めた。
「ありがとう」
一ヶ月が過ぎた。
戦争が再開した。
―――
戦場は再び赤く染まった。
カレントとテオランの両軍が激突した。国境の丘、あの日と同じ場所で。カイルは剣を振るった。敵を斬った。また斬った。だが心は虚ろ。セラフィンはどこにいるのか。この戦場にいるのか。
そして、空が裂けた。
境外地から。世界の裂け目から。何かが這い出てきた。深層魔獣。それも今まで見たことのない規模。高さは城壁ほど。体は黒い鱗で覆われ、四本の腕には骨でできた刃が生えている。胸には巨大な目が一つ。赤く輝いている。
両軍が止まった。恐怖が戦場を席巻する。さっきまで互いを殺そうとしていた者たちが、今は同じものを恐れている。
カイルは剣を構えた。無謀だと分かっている。だが退けない。後ろには仲間がいる。逃げられない負傷兵がいる。
「狂ってんぞ、隊長!」
部下が叫んだ。
「負傷兵連れて下がれ」
「でも——」
「命令だ」
カイルは振り返らなかった。魔獣に向かって走った。骨刃と剣がぶつかる。火花が散る。何度も斬った。何度も防いだ。だが限界がある。
骨刃が脇腹をかすめた。背を打った。カイルが地面に倒れる。視界がぼやける。
死ぬのか。
セラフィン。
すまねえ。約束、守れそうにねえ。
目を閉じた。
その時。
光が爆発した。
金色の髪が見えた。セラフィンが彼の前に立っている。槍を持って。全身から光が溢れ出ている。
「セラフィン……」
「立って」
振り返りもせずに彼女が言った。
「まだ終わってないわ」
カイルは歯を食いしばった。剣を拾う。立ち上がる。
「一緒に戦うか?」
「当たり前でしょ」
セラフィンが笑った。
「行くわよ」
二人が同時に駆けた。剣が刃を斬る。槍が腕を貫く。だが魔獣は止まらない。刃が再生し続ける。
「あれよ」
セラフィンが言った。
「目の奥に核がある。あれを壊せば終わる」
「どうやって」
「私が道を開く。あなたが突いて」
「馬鹿言うな。お前が先に死ぬ」
「大丈夫よ」
セラフィンが振り返った。笑っている。光より美しい微笑み。
「信じて」
セラフィンが駆けた。槍から光が爆発する。今まで見たことのない規模。全身が光に変わっている。神血の力を全て注ぎ込んでいる。
魔獣の腕が彼女を阻む。セラフィンが槍を振る。光が全てを焼き尽くす。腕が切り落とされる。一本、二本、三本。彼女が通る場所全てで魔獣の体が裂けた。
目の前に到達した。セラフィンが槍を突いた。魔獣の目が弾ける。核が露わになる。
「今よ!」
カイルが駆けた。残った力を全て剣に込める。核を突いた。
核が裂けた。魔獣が悲鳴を上げる。世界が揺れる。
爆発。
世界が白く染まった。
―――
地面に叩きつけられた。
カイルが先に目を開けた。全身が痛む。剣が折れている。だが生きている。周りを見渡した。魔獣がいた場所には灰だけが残っている。空は晴れている。夕陽が沈んでいく。
隣を見た。セラフィンが横たわっている。
「セラフィン……」
カイルが這い寄った。彼女を抱き上げる。セラフィンの目がゆっくり開いた。微かに微笑んでいる。
「勝った……?」
「ああ。勝った」
カイルはセラフィンをもっと強く抱きしめた。体が冷たい。あまりにも。
「なんでこんな冷てえんだ」
セラフィンは答える代わりに彼の頬に触れた。手が震えている。
「カイル」
「ん」
「好きだったわ」
カイルの心臓が止まった。過去形。彼女が過去形を使った。
「……何だと」
「本当に……好きだった」
セラフィンの声が小さくなる。カイルは彼女の体を見下ろした。そして見た。槍が砕け散っている。柄だけが残っている。
神血者の武器が砕けるということは。
「駄目だ」
カイルの声が震えた。
「駄目だ。セラフィン、駄目だ」
「大丈夫よ」
セラフィンが笑った。口元に血が滲んでいる。だが笑っている。
「私たち……勝ったじゃない」
「勝つとか、どうでもいい!」
カイルが叫んだ。涙が流れる。
「お前が生きてなきゃ意味ねえだろ。お前なしで、どうやって……」
「生きられるわ」
セラフィンの声は断固としていた。死にながらも断固としている。
「あなた、農夫だったじゃない。麦を育ててたじゃない。また、そうやって生きて」
「そんなの……」
「いつか見せてくれるって言ったじゃない。麦を植えるところ。戦争が終わったら、って」
「セラフィン……」
「戦争は終わったわ。私たちが終わらせた」
涙が流れた。カイルの目から。カレントの化け物と呼ばれていた男の目から。
セラフィンは彼の頬の涙を拭った。手にほとんど力がない。
「覚えてる? 雨の日のこと。小屋で」
「……」
「あなたが言ったじゃない。私に会って初めて、生きてるってことが分かったって」
「覚えてる」
「私もよ。ずっと機械みたいに生きてきたのに……あなたに会って、初めて人間になれた気がした」
セラフィンが笑った。涙が流れる。笑いながら泣いている。
「ありがとう。人間として死なせてくれて」
「そんなこと言うな。頼むから」
「覚えてる? 森での約束」
「……」
「生きて。私の代わりに」
「嫌だ」
「私たちが愛し合ったこと……覚えていて」
セラフィンの手が落ちそうになった。カイルがその手を握る。離すまいとする。だが手から温もりが抜けていく。
「カイル」
「……」
「初めて……幸せだった」
セラフィンが笑った。
「ありがとう」
彼女の目が閉じた。
カイルは叫んだ。だが声が出ない。ただ彼女を抱きしめている。戦場は静まり返っている。両軍が立ち尽くしている。
陽が沈んだ。
夕陽が赤かった。
―――
三十年が過ぎた。
カイルはもう剣を持たない。戦争は終わった。カレントとテオランは休戦協定を結んだ。二人の物語は伝説になった。
敵国の二人の戦士が恋に落ちた。共に魔獣を倒した。そして一人は死んだ。
カイルは国境の村に住んでいた。かつてセラフィンと出会ったあの森の近く。小さな家を建て、畑を耕した。麦を育てた。再び農夫になったのだ。
人々は彼が誰か知らない。ただの静かな農夫だと思っている。無口で、笑わず、一人で暮らす老人。
陽が沈むと、カイルは森へ行った。
そこに小さな墓がある。誰も知らない場所。カイルだけが知る場所。セラフィンが倒れたまさにその場所。金色の花が咲いている。
カイルは膝をついた。花に触れる。柔らかい。セラフィンの髪のようだ。
「今日も来たぞ」
囁いた。
「三十年経った。長かったな。お前なしで生きるのは……思ったより辛かった。でも約束したからな。生きなきゃいけなかったから」
風が吹いた。金色の花びらが揺れる。
「今日も会いてえよ」
返事はない。
カイルは長い間そうして座っていた。陽が完全に沈んだ。星が出た。空に二つの星が並んで輝いている。剣の星と槍の星。
風が吹いた。金色の花びらが一枚落ちる。カイルの手の上に。まるで彼女が手を握ってくれるように。
カイルはその花びらを長い間見つめた。そして懐に入れる。立ち上がる。家に帰る。
明日は市場の日だった。
―――
翌朝、カイルは荷車に薪と麦を積んだ。村へ向かう。
村に着いた時、市場はすでに賑わっていた。カイルは隅の方に場所を取った。客が来ては去る。商売が終わった。
広場を通り過ぎようとした時。リュートの音が聞こえた。
カイルの足が止まった。
広場の真ん中に人だかりができている。その中心に若い吟遊詩人が座っていた。
国境の丘に二つの星が出会った
一つは剣の光、一つは槍の光
敵として出会えど愛し合い
愛し合えど敵であった
カイルは動かなかった。
春の森で手を取り合った
雨降る夜に互いを知った
されど戦は待ってくれず
二人は戦場へ戻った
天が裂け魔物が降りし時
二人は共に駆けた
剣と槍が一つになり
魔物の心臓を貫いた
されど光は消え
槍は砕け散った
金の髪の彼女は微笑みながら
彼の腕の中で眠りについた
カイルの手が震えた。
「生きて、私の代わりに」
彼女が囁いた時
彼は誓った
永遠に生き続けると
今も国境の森には
金色の花が咲くという
彼女が倒れたその場所に
毎年春になると咲くという
誰かが言う
老いた農夫が毎夕
その花を訪ねるという
今も、毎日
これぞ境界の恋歌
愛と戦の歌
終わらぬ待ち人の
永遠のメロディ
リュートの音が止んだ。拍手が沸く。
カイルは動かなかった。
長い間立っていた。人々が散り始める。
カイルは荷車を引いた。広場を離れる。森が見えた。彼女と出会った森。彼女を愛した森。
風が吹いた。金色の花びらがどこからか飛んできた。カイルの肩に舞い降りる。
カイルは足を止めなかった。
ただ歩いた。森を抜けて。家に向かって。
老いた農夫が一人で歩いていた。
誰も彼が誰か知らなかった。
あとがき
この物語は約三百年前、カレント・テオラン百年戦争の最終年に実際にあった出来事として伝えられています。二人の戦士の名は時と共に様々な形で伝承されてきましたが、二人の愛と犠牲は変わることがありませんでした。
戦争は二人の犠牲の後、正式に終結し、両国は二百年間続く休戦協定を結びました。
国境の森には今も毎年春になると金色の花が咲きます。人々はそれを「セラフィンの涙」と呼んでいます。
そして吟遊詩人たちは今もこの歌を歌い続けています。
境界の恋歌を。




