9話 チャンス
2日後―――。
オレとサジが鉱山の作業を終えて戻ってくると、家の入り口で誰かが待っていた。
――ナリアだ。
柔らかい黒髪を陽に透かし、立ち姿はどこか張りつめていた。ナリアは真っ直ぐオレに歩み寄ると、やや緊張した声で言った。
「カズー。男爵様が会ってくださるわ。今すぐ行きましょう」
(……来た!ついに、この時が!)
どうやらナリアが頼んだ執事長がオレの話を取り次いでくれて、男爵が「直ちに面会する」と言ったらしい。
オレは、抑えきれぬ高揚を抱えながらも、ひとまず汚れた身体を洗い清めることにした。
やがて、身支度を整えたオレとナリアは、鉱山で最も大きな建物――領主の館へと足を運んだ。
その建物は、もはや“屋敷”とは呼べない代物だった。
厚く積まれた石壁、鉄で補強された扉、四階建ての構造は、小さな城そのものだ。
ナリアに案内され、館の裏口から中へ入ると、そこには一人の老人が立っていた。
白髪であるにもかかわらず、背筋はピンと伸びており、目には油断の色ひとつない。間違いなく、彼が“執事長”だ。
「遅いぞ、ナリア」
その声は鋭く、叱責というより“断罪”に近い。
ナリアは即座に頭を垂れ、深く謝罪した。
「申し訳ございません。こちらが……カズー子爵様です」
その一言に、執事長の眉がピクリと動いた。
「……それはまだわからん。軽々しく爵位を口にするな」
低く厳しい声でナリアを諌めた後、執事長はオレを見据える。
「ついて来い」
短い言葉に、有無を言わせぬ力が宿っている。
オレは何も言わず、黙ってその背についていく。ナリアとはここで別れた。
重厚な階段を昇り、四階へと向かう。
その先にあったのは、館の中心――大広間の両開きの扉だった。
扉が開くと、奥には荘厳な空間が広がっていた。
磨かれた石の床、黄金に縁取られたカーテン、大理石の柱が威厳を放つ。
広間の中央には巨大な長テーブル。その上座に、ふくよかな中年の男がどっしりと腰を下ろしていた。
その傍らには、二十代前半ほどの細身の青年が立っている。どちらもいかにも貴族然とした華美な服を纏っている。
執事長は、オレに静かに言う。
「ここで待て」
そう言うと、上座の男に近づき、何かを耳打ちする。
(……何を話してる?)
内容までは聞き取れなかったが、二人が慎重に言葉を選んでいることだけは伝わってきた。
やがて、執事長が戻ってきて一言だけオレに告げる。
「粗相の無いように」
そして、執事長は静かに一礼すると、重厚な扉を音もなく閉めて部屋を出て行った。
残されたのは、オレと──部屋の奥に座る二人の男だけ。
重々しい沈黙が部屋を支配する中、中央に座る中年の男が口を開いた。
「……私は、この地を治めるバルグラ男爵である。そして、隣にいるのは息子のイザリオだ。執事長の話では……お前は子爵だというが、証明できるのか?」
その問いに、オレは静かに頷いた。
(来るだろうと思っていた……)
すでにアイテムボックスから取り出して、ポケットに忍ばせておいた身分証を指先で探りながら、オレは口を開く。
「子爵の身分証があります」
そう言って、銀色の板の子爵の身分証をポケットから取り出し、二人に向けて掲げた。
バルグラ男爵は無言のまま、顎をしゃくる。隣のイザリオがそれに応じ、無造作にオレの前へと歩み寄ってくる。
「身分証を貸せ」
その目には明らかな侮蔑と疑念が宿っていたが、オレは無言で子爵の身分証を手渡した。
イザリオはそれを手に取ると、部屋の隅に設置された魔法のオーブへと歩いていく。身分証をかざすと、オーブが淡く光り始めた。
──有効な身分証である証だろう。
それを確認したイザリオは、身分証を持ったままバルグラ男爵の元に戻り、耳元で何かを囁く。
(身分証が本物だということは確認できたようだな……)
オレは、最初に執事長から立つよう指示された扉の前でじっと立ち尽くしている。距離のせいで、会話の内容は聞き取れない。
やがて、男爵が再びこちらに視線を向けてきた。
「お前、面白い顔をしているな。この国の者には見えん。どうしてそんなお前が子爵なのだ? その身分証、どこで手に入れた?」
(……疑念は拭えていない、か)
オレは淡々と答える。
「この身分証は、公爵様より授爵の際に頂いたものです。公爵様の姫君アマンダ様を魔物から救出した功績により、子爵に取り立てていただきました。しかし、冒険者に化けた盗賊と共にダンジョンへ行った際、騙されて殺されかけたのです。そこに通りかかった奴隷の護送馬車に捕まり、そのまま鉱山へ──」
話の途中で、イザリオがオレに向かって身を乗り出す。
「本当か? アマンダ姫には、城塞都市で最強の騎士が必ず護衛についているはずだ。お前が助ける状況になるなど、あり得んだろう!」
(……やはり、こいつは)
オレの中に、過去の記憶が鮮やかに蘇る。
かつてアマンダ姫が政略結婚を断った男。爵位も無いくせに、大勢の妾を侍らせて気取っていた愚か者──それが、イザリオだった。
「その時、騎士のレオックは不在でした。ただ、彼もすぐに駆けつけ、魔物を討伐してくれました」
それを聞いたイザリオは、唇を噛み、あからさまに不快そうな表情を浮かべる。
「……ふん。だいたい、子爵の身でなぜ冒険者とダンジョン探索などしていた? 逆に問うが、お前こそ、その盗賊の一味ではないのか!?」
その言葉に、オレの中で何かが弾けた。
怒りが、理性の堤防を破壊する。
「……貴族とは、王国を守る者だ。王国の脅威となるダンジョンを探索するのは、その責務ではないのか? お前のように妾をはべらせ遊んで暮らすことが、貴族の務めだとでも思っているのか!!」
イザリオの顔がみるみる真っ赤に染まる。
「な、何をっ……! 奴隷のくせに偉そうに言うな!!」
「オレは奴隷じゃない! 子爵だ! お前には爵位すらないだろうが!!」
その瞬間、イザリオの目がぎらついた怒気を放ち、低く唸るように言った。
「……私の女中を使って近づいて来るような奴が子爵であるものか! お前があの女中と逢引していることなど、とっくに知っているんだ! ……いっそ、あの女中も私の妾にしてやろうか? すぐに捨ててやるがな!!」
──その言葉に、オレの思考が一瞬で燃え上がった。
ナリアに向けられたその汚らしい言葉が、心を、魂を貫いた。
許せない。
許すわけにはいかない。
その瞬間、オレの中にはひとつの思いしかなかった。
(イザリオを倒す!!!!)
オレは無言のまま、一歩、また一歩と彼に向かって歩き出す。
扉の前から、ゆっくりと。確実に。
イザリオが一歩後ずさる。
「な、なんだ……お前、私に歯向かうつもりか!?」
その声にも、オレは応えない。ただ、ひたすら歩き続ける。
「な、何なんだ……お前はっ!!」
部屋の中央に差し掛かったところで、イザリオがオレの首を指さし、叫んだ。
「奴隷! お前には【奴隷の首輪】がついていることを忘れるな! 私は……その首輪を爆発させることができるんだぞ!!」
──そうだった。
我に返る。
(……しまった)
首輪が爆発すれば、オレはただの犬死。何も得られず、誰も守れず、ただ死ぬ。
オレの足が止まった。
(……くそ。何もできずに死ぬわけにはいかない⋯⋯。ナリアの為にも―――)
MPが0の今、《エマージェンシー・リカバー》も使えない。MPを代償に発動するこのスキルは、今のオレには機能しない。
その時、静かに響く男の声が場を制した。
「……今日はここまでだ。下がれ」
バルグラ男爵の命に応じ、扉の向こうから執事長が現れる。オレを促すように一歩、前に出た。
オレは、ゆっくりと一礼し、その場を後にする。
(失敗した……)
◆ ◆ ◆
大広間の扉がゆっくりと閉まる。
鈍く軋むその音が、まるで終わりを告げる鐘のように、広間の空気を締めつけた。
沈黙の中、バルグラ男爵は背後を一瞥もせずに、静かにイザリオに向かって口を開く。
「奴には、当面──手を出すな」
低く、冷ややかな声だった。
その言葉に、イザリオは顔をしかめ、即座に声を荒げる。
「どうしてですか!?」
怒りを抑えきれず、足元を踏み鳴らす。金具のついたブーツが石床を打ち、硬質な音が響いた。
バルグラ男爵はゆっくりと振り返り、目を細める。
「奴の言動と風体……公爵が探している“新しい子爵”に、似すぎている」
その言葉に、イザリオは忌々しげに舌打ちする。
「チッ……!」
彼の指が剣の柄へと無意識に伸びる。が、それ以上の動きはない。
代わりに、憤りに歪んだ眉が深く影を落とす。
◆ ◆ ◆
激情は理を曇らせ、真実から目を逸らさせる。
それがこの場で、もっとも鮮明に浮かび上がった教訓だった。
そしてオレは学ぶ。
〈強い感情は思考を止める〉
と言うことを。




