6話 ヴィスカとナリア
家の中は、外の冷気とは対照的に、ほんのりとした暖かさに包まれていた。
それに何よりも──テーブルの上に広がる料理の香りが、空腹だったオレの心と腹を直撃する。湯気に混じるスパイスと野菜の香り、焦がしバターのような香ばしさ。自然と歩みが速くなる。
大柄で、どこか頼もしさを感じさせる女性が、にこやかにオレへと声をかける。
「あんた、サジを助けてくれたんだってね。ありがとう」
その声には、感謝と、少しの驚きが混じっていた。
サジがその女性を紹介してくれる。
「カズー、こっちはヴィスカだ。俺の彼女だよ。で、あちらはナリア。同じく女中仲間だ。ヴィスカの料理は最高だからな!遠慮せず、座って食べてくれ」
オレは椅子に腰を下ろし、深く頭を下げる。
「カズーです。美味しそうな料理をありがとうございます」
すると、大柄な女性のヴィスカが豪快に笑って言った。
「美味しそうじゃなくて、美味しい料理だよ!早く食べな!」
その気さくな口調にオレも自然と笑顔になり、シチューのスプーンを手に取る。
「……いただきます」
口に含んだ瞬間、濃厚なミルクのまろやかさと、根菜から染み出た自然な甘みが舌の上に広がる。鶏の出汁も効いている。
これまで食べてきたどんなシチューよりも、深く、優しい味だ。持ったスプーンが止まらない。
傍に添えられたパンもまた、格別だった。ふんわりと柔らかく、口に入れると小麦の香りがふわりと広がる。
どの皿も本当に美味しかった。
オレは夢中で平らげた。
「ヴィスカさん、本当に美味しかったです。ごちそうさまでした。ありがとうございます」
丁寧にお礼を述べると、ヴィスカは笑顔で答える。
「カズー、パンはナリアが作ったんだよ!」
しまった──と、オレは頭を掻きながら振り向く。
「ナリアさん、失礼しました。パン、すごく美味しかったです。ありがとうございます」
ナリアはあくまで飄々と、そして優しく微笑む。
「美味しそうに食べてくれるわね。またどうぞ」
その一言に、心がじんわりと温まった。
その後、サジとヴィスカは小声で何かを話し、サジがオレに目配せする。
「カズー、そろそろ戻るか」
「……あぁ」
寝床へ戻る途中、オレはサジに感謝を伝える。
「サジ、ありがとう。あんな美味しい食事は、久しぶりだったよ」
するとサジは、少し照れくさそうに笑って言う。
「いや、あんたは俺の命の恩人だ。……ただ、このことは内緒にしてくれよ」
「もちろんだ」
そして、オレは静かに眠りについた。
翌朝―――。
オレとサジは、別の鉱山へと向かっていた。昨日行った新しい坑道は、当面閉鎖されたようだ。
辿り着いたその鉱山には、巨大な穴がぽっかりと口を開けていた。
まるで地面に空いた奈落のように、中央へ行くほど深く、階段状になっている。
坑夫の姿だけでなく、監視員の数も多い。どうやら、ここは金鉱のようだ。
班長が鋭い目つきで告げる。
「帰りには全員、監視員による所持品検査がある!絶対にここの鉱石を持ち出すな!」
(金鉱だからな。今までの鉱山とは価値が桁違いってわけだ……)
気を引き締めて、オレはツルハシを手に岩を砕き始めた。
だが──
(昨日の食事……あれは本当に、心に残る味だった。そして、ナリアの“またどうぞ”という言葉……)
ふと、ナリアの姿が脳裏に浮かぶ。
黒髪で蒼い目の、凛とした印象の若い女性。前の世界では珍しくなかった髪色だが、この世界ではむしろ特別に見える。
彼女には芯があって、そして、どこか控えめながらも温かな優しさがある。
そこへ、サジが声をかけてきた。
「カズー、どうした?今日は手が止まってるぞ?」
「ああ、サジか……。昨夜のことが、まだ忘れられなくてな……」
それを聞いたサジは、ニヤニヤと笑いながら言う。
「そっか! じゃあ、今日も行くか?」
「……あぁ、頼むよ。あの美味しい料理が、忘れられないんだ」
サジは笑顔で「任せろ」と言い、オレの肩を軽く叩いた。
日が暮れ始めた頃、オレとサジは街に戻った。
まずは身体の汗と埃を落とそうと、簡易な水場で顔を洗い、首筋に水をかける。
その時、サジがタオルで腕を拭きながら振り返り、やや呆れた顔で言った。
「カズー、これから女性の家に行くんだぞ? 汗ぐらい拭いていけよ!」
「ああ、悪い」
そう返して、オレは丹念に身体を拭きはじめた。念のため、アイテムボックスから【エバキュエーションキット】を取り出し、中の使い捨て体拭きを一枚使う。これには、ほんのりとした香りとメントールの清涼感がある。全身をさっぱり拭き終えた瞬間、サジがオレに顔を近づけて、鼻をひくつかせた。
「おい、カズー。なんか、いい匂いがするな?」
「ああ、これ。体拭きだよ。香料が少し入ってるみたいだな」
オレはもう一枚、サジに手渡した。サジは物珍しげにそれを眺め、そして自分の身体を同じように拭いてみる。
「おおっ! これは凄いな。スッキリするし、匂いもいい……まるで貴族みたいだ」
彼が満足そうに笑ったので、オレも「よし」と小さく頷いた。
その後、サジの案内で女中たちの家に向かう。
サジが扉を軽くノックすると、中からヴィスカが顔を覗かせ、オレたちを見て穏やかに頷いた。
「やっぱり、今日も来たね」
そう言いながらヴィスカは扉を開け、オレたちを中に招き入れる。
部屋の中ではナリアが食卓に皿を並べていた。テーブルの上には湯気の立つ鍋と、まだ温かそうなパンが置かれている。
サジが気まずそうに頭をかきながら言った。
「悪いな、また来ちまって」
オレも軽く頭を下げる。
「すみません」
ヴィスカは手を振りながら、にこやかに答えた。
「何言ってんだ、気にすんじゃないよ。あんたたちが美味しそうに食べてくれるのが嬉しいんだから」
食卓を囲み、今日もあたたかいシチューをいただく。今夜のシチューは鶏肉がふんだんに使われていて、ボリュームたっぷりだった。焼き立てのパンは、おそらくナリアの手作りだろう。
オレはパンを一口食べて、彼女に向かって微笑んだ。
「ナリアさん、このパン……すごく美味しいです」
ナリアは一瞬だけ照れたように頷き、すぐに視線をテーブルに戻した。
食事を終えてまったりしていると、ナリアがふいに立ち上がり、真剣な目でオレを見た。
「カズー、ちょっと外に出ましょ」
「えっ?」
そう言う間もなく、彼女はオレの手を取って外へ連れ出した。夜の風が肌を撫でる。
「カズー、あなたと一緒だと……他の女中の家には行けないわね」
ナリアはぽつりと言い、真っ直ぐオレを見上げる。
「いいわ、あなたの家に案内して」
「え……どういう意味だ?」
オレが戸惑いながら聞き返すと、ナリアは呆れたように目を丸くして言った。
「は!? 恋人同士がすること、分からないの? 二人きりにしてあげるってことよ」
(……な、なるほど)
意味はよく分からないままだが、なんとなく納得して、オレはナリアを連れて自分たちの家に戻ることにした。
部屋に入ったナリアは遠慮する様子もなく中を見回し、ぽつりとつぶやく。
「寒いわね、この部屋」
確かに、火も焚かず、簡素な内装の部屋は冷え込んでいる。
オレはそっとアイテムボックスを開き、【エバキュエーションキット(使いかけ)】から寝袋を取り出す。ファスナーを開けば掛け布団として使える優れものだ。
ナリアの肩にそれをそっとかけながら言った。
「ナリアさん、これをどうぞ」
彼女は驚いたようにオレを見たあと、素直に布団にくるまった。
「……あったかいわね、これ」
そして、オレの手を取り、自分の隣に座らせる。
「カズーも寒いでしょ? 一緒に使いましょ」
彼女はそう言って、オレの肩にも布団をかけてくれた。肩が触れ合い、ナリアの体温が伝わってくる。鼓動が少し早くなるのを感じながら、オレは内心で思った。
(……体拭き、使っておいてよかった)
ナリアは前を見つめながら、やわらかく口を開いた。
「カズー、少しお話しましょ。あと、私のことは“ナリア”って呼んで。あなたの方が年上でしょ?」
「……あぁ、わかった。ナリア」
その後、オレたちはたわいもない話を二時間ほど交わし、心が少しずつ近づいていくのを感じていた。
女中の家に戻ると、ヴィスカがナリアにそっと礼を言った。
「ありがとう」
きっと、気を遣って出ていったお礼だろう。
その夜、オレとサジは再び自分たちの家へと戻った。
部屋に入るなり、サジが寝袋を見て目を丸くする。
「カズー……なんだこの貴族が使ってそうな布団は!? お前、まさか……」
オレは少しだけ焦りながらも、なんとか平然を装って答える。
「ああ、ナリアが寒いって言うからな……出してみたんだ」
サジはオレをじっと見つめたあと、ふっと息を吐いて呟いた。
「そういえば、お前……魔法使いだったな……」
彼はそれで納得したようだ。
そしてオレは学ぶ。
〈女性の暖かさ〉
と言うことを。




