52話 森
◆ ◆ ◆
森には、樹齢千年をゆうに超えているだろう巨木が何本もそびえ立っていた。天を突くように真っ直ぐ伸びた幹は、太さだけで小屋ほどもある。頭上高くで枝葉が複雑に絡まり合い、わずかな木漏れ日が揺めく光の粒となって降り注いでいる。足元は深い緑の苔にびっしりと覆われ、触れれば沈み込みそうなほど柔らかい。まるで森全体が厚い緑の絨毯を敷きつめて迎えているかのようだった。
空気は驚くほど清涼で、暑くも寒くもない。肺に流れ込む度に澄んだ香りが漂い、思わず深呼吸したくなる。
「ここは、原生林だろうか……」
呟く声は、巨大な幹の間で吸い込まれるように消えていく。密林のように鬱蒼としていないため、前に進むこと自体は容易だ。だが、苔と木の根が入り混じった起伏の多い地面は油断ができない。走るのは、慣れた者でも難しいだろう。
そんな環境の中、オレは慎重に森の奥へと進んでいく。
(とても良い場所だ。気持ちが良い)
何処に行くべきなのかわからないができる限り一方向に進む。
だが──。
突然、視界の端でゲームシステムのメニューがピクリと光った。自動表示された敵情報が浮かび上がる。
『敵:トレント』
(どこに敵がいるんだ!?)
オレは即座に身を低くし、周囲を見回した。鳥の羽ばたきさえ聞こえない静寂が広がっていた。
「魔物がいない……」
その瞬間。
「ブーーーン!」
重く唸るような風切り音が背後から迫ってきた。振り返るより早く、巨大な何かがオレを強打した。
「うっ──!」
木の枝――いや、丸太のような太い枝に叩き飛ばされ、オレは地面を転がる。肺から空気が漏れ、視界が一瞬揺らぐ。
(なんだ! 今の攻撃は!?)
立ち上がろうとしたところへ、再び影が覆いかぶさる。
「ブーーーン!」
さっきよりも重く鋭い音。横倒しの体めがけて、巨大な枝が振り下ろされてくる。
「ドーーン!」
反射的に横へ跳ね退けた。地面に叩きつけられた枝は苔を吹き飛ばし、大きく抉れた。だが、その枝は地面に刺さったままでは終わらず、まるで生き物のようにうねりながら動き始めた。
(樹が……動いているのか!? トレントって……まさか、この巨木そのもの!?)
オレは身震いしつつ距離を取った。
間近で見るトレントは、改めて規格外だ。高さは十メートルほど、幹は分厚く、表皮は古代の鎧のように硬そうだ。ゆっくりとだが確実に、オレに向かって巨木全体が軋みを上げながら歩み寄ってくる。
(なんて大きな魔物だ! こんなの、まともに戦ったら死ぬかもしれない⋯)
「だが、やるしかない!」
本質は木だから火属性には弱いはず。そう判断したオレは攻撃魔法を選び放った。
「ファイアアロー! ファイアボール!」
炎の矢が木の表皮に突き刺さり、火球が幹に炸裂する。火花と木屑が舞うが──巨木は揺るがない。まるで何も感じていないように、ゆっくりと前へ進むだけだ。
(効いてるのか……? いや、あまり効いてないかもしれない!)
それでも撃ち続けるしかない。動きが遅い分、魔法は確実に当たる。
「ファイアアロー! ファイアボール!」
着弾の爆光に囲まれながら、オレはさらに距離を取って撃ち続けた。
しかし──。
(駄目だ……倒れない!)
トレントは焦げ跡ひとつ気に留めず、オレを追い詰めるように近づいてくる。
後退しようとしたその時だった。
「シューー!」
鋭い衝撃音。背中に焼けるような痛みが走る。
「っ……!」
(賞金稼ぎ……追いついたのか!)
矢が突き刺さった箇所から血が滲む。前後から挟まれた最悪の状況だ。即座に防御魔法を展開する。
「ファイアシェル!」
炎の障壁が背後を包み、飛来する矢を焼き落とす。しかし、そのわずかな隙を狙うように──。
「ブッーーン!」
トレントの巨大な枝が前方から荒々しく振り下ろされた。炎の障壁を貫通し、オレの身体を薙ぎ払う。
「ぐあっ──!」
苔の絨毯へ叩きつけられ、視界が白く弾ける。全身に鈍い痛みが走り、しばらく呼吸すらできない。立ち上がる間もなく、追撃が迫る。
「ドーーン!」
太い枝の先端がオレの鳩尾を正確に突き刺す。意識が飛びかけ、ゲームシステムのHPがゼロに落ちる表示が見えた。
同時に《エマージェンシー・リカバー》が強制発動。身体が熱に包まれ、HPがわずかに回復する。
(まずいぞ……MPが無くなったら、今度こそ死ぬ)
歯を食いしばり、オレはよろめきながらも立ち上がる。追撃の枝が迫る。ギリギリでかわし、トレントの横をすり抜けた。
(前後から挟まれてるこの状況じゃ勝てない! 逃げるしかない!)
だが、背後から賞金稼ぎが矢を間断なく放ってくる。オレは、それを防ぐために防御魔法を展開し続けなければならない。
この防御魔法が少しずつ、確実にオレのMPを削っていく。残りのMPは半分を切っている。
(このままじゃ……持たない!)
逃げながら、オレは一か八か全体攻撃魔法を背後へ向けて放つ。
「サンドレイン!」
サラサラと乾いた音を立て、砂粒の雨が背後に降り注ぐ。細かな砂が舞い上がり、濃い煙幕のように視界を遮った。
その隙を突き、オレは方向を大きく転換。すぐさま防御魔法を解除する。
「ファイアシェル……消えろ!」
炎の障壁が霧散し、熱気が周囲から消えていく。
あとは全力で逃げるだけだ。
オレは、走り続ける。ただ、逃げる為に走る。
「ハ……ハ……ハ……!」
肺が痛む。血が流れ、足元は覚束ない。だが背後の地響きと矢の気配だけが、容赦なく追ってくる気がした。
オレは振り返ることなく、森の闇へと駆け込んだ──。
―――どれほど走り続けただろうか。肺は焼けるように痛み、喉は砂利を噛むように乾き切っている。
ついに体力の限界が訪れ、オレは前につんのめるようにして地面へ崩れ落ちた。湿った森土の匂いだけが、妙に鮮やかに鼻を刺す。
後方から矢は飛んでこない。
(賞金稼ぎを巻けたのか……? 本当に……?)
荒い呼吸のまま、オレは索敵スキルを発動させる。
「スキャン!」
視界の端から広がるように、薄赤い光点が無数に浮かぶ。
だが、それらが賞金稼ぎなのか、周囲に巣食う魔物なのか……判別がつかない。
(これじゃ、追われているのかどうかすらわからない……)
ただ、幸いなことに、近くに光点はない。こちらに向かってきている反応もない。
(……もしかして、向こうも同じ状態か? 魔物とオレの区別がついてない?)
森に潜む魔物は強く、賞金稼ぎの数も多い。
(このまま遭遇したら勝ち目はない……)
迷いを断ち切り、オレは近くの大樹の幹に空いた大きな窪みに身を滑り込ませた。完全には隠れきれないが、そう簡単には見つからないだろう。
―――時間が過ぎていく。
(このままやり過ごせるだろうか)
「…………」
森の空気が静かに満ち、オレの心臓の音だけが耳の奥で響く。
そのとき――微かな鼻息が聞こえた。
「クンクン クンクン」
音の方を向いた瞬間、二匹の巨大な犬が木陰を割って飛び出してきた。
「クワワァーーーン! クワワァーーーン!」
「クワワァーーーン! クワワァーーーン!」
オレを見るなり連続して吠え立てる。毛は逆立ち、牙が露わになり、明らかに敵意を向けている。
(なんだ!? この犬たちは……いや、賞金稼ぎに狩人がいたのか!)
狩人が訓練した猟犬は、獲物を吠えて追い詰めると、何かで聞いたことがある。
犬たちは吠えるだけで、襲いかかってくる様子はない。だが、この声で居場所がバレるのは時間の問題だ。
躊躇している余裕はなかった。
オレは覚悟を決め、一匹に攻撃魔法を向ける。
「シューー!」
だがその瞬間、矢がオレの顔すれすれを掠め、大樹の幹に深く突き刺さった。
「くっ……見つかったか!」
狩人が射線を通してきた。オレは鉄の盾を構え、飛んでくる矢を受け止めながら身を縮める。
犬たちはその間も、喉が裂けるほどの声で吠え続けた。
「クワワァーーーン! クワワァーーーン!」
「クワワァーーーン! クワワァーーーン!」
―――。
「ドーーン! ドーーン!」
「ドーーン! ドーーン!」
吠え声に混じって、地の底から震えるような地鳴りが響いてくる。
(まさか……トレントが来ているのか!?)
次第に地鳴りは大きくなり、重く湿った風が、巨大な何かの接近を知らせた。
「ブッーーン! ブッーーン!」
太くしなる木の枝が、風を裂く音を伴って飛んできた。オレの目の前を通り過ぎ、二匹の犬をまとめて吹き飛ばす。
(まずい……トレントが二体!)
背中は大樹に塞がれ、逃げ場は前方しかない。だが、その前には巨木の魔物――トレント。
「シューーー!」
狩人の矢が盾を叩く。
「ブッーーン!」
トレントの枝が振り下ろされ、盾ごと押し潰そうとする。
オレは必死に盾で受けたが、衝撃が強すぎ、鉄の盾を吹き飛ばされた。
「……!」
視界が開けた瞬間、さらに絶望が押し寄せた。
大樹の間から、賞金稼ぎが一斉に姿を現す。その数、三十以上。隙間なく包囲している。
(だめだ……逃げられない。ここまでか……)
この異世界での出来事が、走馬灯のように流れて来た。
疲れ果てた心に、いくつもの顔が浮かんだ。
城塞都市で出会った真の友たち。
レオック、ルイアナ。
(真の友になってくれて、ありがとう……本当にありがとう)
鉱山で知った、はじめての愛。
ナリアの笑顔。柔らかな声。
(ナリア……いつまでも、君を愛している)
鉱山都市ではスタンピードを止め、都市を救い、英雄と呼ばれた。
振り返れば、確かにオレは生きていた。
神様の使命は果たせなかったが、それでもオレの心は満たされていた。
上を見上げると、樹間から光が降り注いだ。
まるで別れの光のように、淡く、温かく。
オレは、痛みに耐え続ける覚悟すら失せ、スキル欄に手を伸ばす。
《オート・リカバー》《エマージェンシー・リカバー》――生存を助ける機能を自ら外す。
(これで……急所を撃ち抜かれれば即死する。楽になれる……)
―――。
「ブッーーン! ブッーーン!」
顔を戻すと。
トレントの枝が左右から迫っている。避ける余地もない。
(せめて一思いに……
ナリア、君のもとに今行くよ⋯⋯⋯)
その時――
空から一匹の蒼い蝶が舞い降りた。
(ナリアの墓で見た蒼い蝶……)
その瞬間――トレントの巨体が、横へ弾き飛ばされるように傾いた。
「グルルルァ!」
地響きを伴い、現れたのは五メートルはある大虎。金色の瞳が鋭く輝き、風圧を伴う唸り声が森を震わせた。
(……デカすぎる! 魔物か!?)
だが、大虎はオレではなく、トレントへ一直線に躍りかかった。
巨大な爪が振るわれるたび、木肌が裂け、木片が弾け飛ぶ。
魔物は魔物を襲わない。
(こいつ……野生の獣なのか……? なら、いずれオレも餌に……)
しかし――大虎は一度もオレへ牙を向けない。
その背に、何かの影が見えた。
オレは大虎の援護に回る。
「ファイアアロー! ファイアボール!」
「ファイアアロー! ファイアボール!」
十発の攻撃魔法を連射し、大虎と連携する形で二体のトレントをついに霧散させた。
しかし息つく間もなく、賞金稼ぎが押し寄せる。
大虎はオレの前に立ち、唸り声を上げて敵を威圧する。
その毛皮は矢を弾き返し、まるで盾のようだった。
敵が射程に入る。
「マルチファイアブレード!」
「ファイアアロー!」
「ファイアボール! ウィンドボール! ウォーターボール! サンドボール! アイスボール!」
複数の炎の刃が縦横に奔り、追尾する炎の矢が逃れる敵を正確に撃ち抜く。
火球と風弾が立て続けに炸裂し、水、土、氷の魔法が次々と敵を吹き飛ばす。
大虎も同時に駆け出し、爪が閃き、牙が閃光のように敵を切り裂いていく。
残った敵が逃げ出すと、大虎は風のような速さで追いすがり、次々と地へ沈めた。
(……やった……のか?)
オレは再び索敵スキルを開く。
「スキャン!」
赤い光点は一つもない。
(……助かった……本当に……)
安堵の息を漏らすと、大虎がゆっくりとこちらへ戻ってきた。
(なぜ……なぜオレを救ってくれる?)
その背に、ふわりと揺れる小さな影があった。
耳。しっぽ。見間違えるはずがない。
すべてを悟った瞬間、視界が滲んだ。
喉が熱くなり、涙が溢れる。
「…………」
そして、オレはその小さな仲間の名を呼んだ。
「シャム……ありがとう!」
大虎の背に乗ったシャムは、いつもの無邪気な笑顔で、口に何かを咥えながら言った。
「主、うさぎを取って来たニャ!」
どれだけ追い詰められても。
絶望の先には、思いもよらぬ救いが待っている。
そしてオレは学ぶ。
〈新たな扉は必ず現れる〉
と言うことを。
fin(第三部につづく)




