33話 イザリオ
イザリオがハーピーに攫われた空に、薄い金色の光が滲みはじめていた。
夜の帳を押しのけるように、東の地平から朝日が顔を出し、黒ずんだ雲の切れ間を淡く照らす。
その静寂を破ったのは、内郭街の監視塔から鳴り響く警鐘だった。
「カーン! カーン! カーン!」
鋼の鐘の音が冷たい空気を裂き、人々の眠気を焼き払うように街中へ響き渡る。
見上げれば、朝焼けの中を滑るようにハーピーの群れが迫っていた。
すでに数十の影が街の上空を舞い、監視塔や城門に降り立っては鋭い爪と翼で衛兵を襲っている。
甲冑が軋む音、怒号、悲鳴、羽ばたき——それらが交じり合い、空も地も混沌と化していた。
そして、遥か上空を旋回していたハーピーが、掴んでいたイザリオの体を無情にも放した。
細い影が空を裂くように落下していく。
衛兵の一人が叫んだが、手を伸ばす間もなく——地面に叩きつけられた。
……助からない。あの高さからでは。
オレは思い出していた。
旧鉱山でハーピーどもと戦った時のことを。あの時、奴らは石を掴み、空から落として攻撃してきた。
だが今は——石の代わりに人間を落としているのだ。
オレの周囲にも数匹のハーピーが急降下してくる。
爪が閃くよりも早く、オレは攻撃魔法を放つ。
「——マルチファイアブレード!」
同時に、複数の攻撃魔法を重ねて放つ。
「ファイアアロー! ファイアボール! ウィンドボール! ウォーターボール!」
炎の刃が空を切り裂き、炎の矢が翼を貫く。爆ぜた火球が羽を焦がし、風弾と水球が体勢を崩したハーピーを地面へ叩き落とした。
墜ちた魔物に兵士たちが駆け寄り、とどめを刺していく。
オレは振り返り、ベランダの扉を閉めた。
背後の部屋では、薄布を巻いた妾の女が怯えたようにこちらを見ている。
昨夜までの甘い空気など、もうどこにもなかった。
「魔物の大群が迫ってきている。——あなたも、すぐに逃げた方がいい」
女は震える声で問う。
「イザリオ様は……どうなったの?」
短く息を吐いて、オレは答えた。
「イザリオは……魔物にやられて死んだ」
それ以上、言葉は要らなかった。
オレは部屋を出て、城の階段を駆け下りる。
一階の広間では、すでに兵士たちが集結していた。
指揮官の怒号、甲冑のぶつかる音、召使いたちの泣き声。
誰もが混乱の中で持ち場を探している。
その喧騒の中、オレは誰にも止められることなく、地下への階段へと身を滑り込ませた。
薄暗い水路を抜け、行きに通った道を戻る。湿った石壁に足音が反響するたび、心臓の鼓動が同じリズムで高鳴る。
やっと地上へ出た時、街はすでに血の色を帯びていた。
空を埋め尽くすようにハーピーの群れが押し寄せ、各地で戦闘が始まっている。
兵士たちが槍を構え、ハーピーの影が次々と地に落ちていく。
だが、数が多すぎた。
再び、数匹がオレに突っ込んでくる。
「マルチファイアブレード!」
「ファイアアロー! ファイアボール! ウィンドボール! ウォーターボール!」
炎の刃が閃き、火矢が咆哮と共に空を裂く。火球が爆ぜ、風と水の衝撃が残党を弾き飛ばす。
焦げた羽が空に舞い、焦臭い煙が立ち上る。
周囲の敵を掃討したオレは、城壁門へと走った。
門は閉ざされたままだった。
すでに開門の刻を過ぎているはずなのに。
息を切らしながら、衛兵に問いかける。
「門は開かないのですか!?」
衛兵は焦燥の色を浮かべ、槍を握りしめたまま叫んだ。
「外から魔物が迫っている! 門は開けられない!」
その声をかき消すように、再び警鐘が鳴り響いた——。
オレは、どうにかしてこの城壁を越える方法を考えていた。
目の前の城壁は、見上げるほど高い。ざっと十メートル――普通の梯子では到底届かない。
風に混じって砂塵が頬を打つ。
鉱山都市を囲うこの城壁は、まるで巨大な灰色の獣が身を丸めて街を守っているようだった。
「……さて、どうするか」
腕を組み、しばし思案する。
魔法の応用、浮力、構造物――頭の中でいくつもの可能性を試算していく。
そして、一つの方法に思い至った。
「よし……試してみるか」
城壁の根元まで歩み寄り、右手を前に出す。
冷たい空気が張り詰める中、オレは防御魔法の詠唱を始めた。
「ウォーターウォール!」
いつもなら自分の前に横たわる防御壁。だが、今回は違う。
イメージを縦に、城壁に沿うように――。
シュウゥゥ……と音を立てて、水の壁が現れる。
高さ五メートル、幅五十センチ、奥行き二メートルの、垂直に立つ透明な柱のような水の壁だ。
夕陽の光が水面に反射して、城壁の灰色を青く染めていく。
「……上手くいった!」
オレは小さく拳を握る。
防御魔法は、向きや重力には縛られない。城壁を“地面”と認識させれば、こうして縦にも生成できる――理屈上は、問題ないはずだ。
次に、アイテムボックスから二つの【エバキュエーションキット】を取り出す。
片方のバックパックには、空のペットボトルをぎっしり詰め込む。
もう一方のバックパックは、残りの道具を収納してアイテムボックスに戻すためのものだ。
「よし……行くぞ」
オレは息を整え、水の壁へと身体を滑り込ませた。
冷たい。
一瞬、肺がきゅっと縮むような冷気に襲われるが、すぐに慣れる。
抱えたバックパックの中の空のペットボトルが浮力を生み出し、オレの身体がふわりと浮き上がった。
「……おお、上がる!」
水の壁の中をゆっくりと上昇していく。
頭上の光が近づき、ついに水面を突き破るように顔を出す。
「はーっ、はーっ、はー……!」
息を荒げながら、城壁の上を見上げる。
まだあと五メートル以上――届かない。
「もう一回だ……!」
オレは再び詠唱する。
「ウォーターウォール、消えろ!」
水の壁が一瞬で消失し、オレの身体が宙に放り出される。
落下――しかし間髪入れずに再び詠唱。
「ウォーターウォール!」
空中で再生成された水の壁が、オレを優しく受け止める。
再び浮力が働き、身体が上昇していく。
「……よし、まだ行ける!」
オレは同じ動作を何度も繰り返した。
魔法を消し、再び発動。
そのたびに身体が水とともに持ち上がっていく。
足元の地面が遠ざかり、ついに――
「着いた……!」
三度目の上昇の末、オレは城壁の頂上に手をかけ、身を乗り出す。
重心を移して登り切ると、冷たい風が全身を包んだ。
城壁の上から見下ろす鉱山都市。
内郭街にはハーピーの群れが旋回し、兵士たちが必死に迎撃している。
翼の羽ばたき、金属の衝突音、怒号――混沌が街を覆っていた。
振り返れば、外郭街でも戦いが広がっていた。
ハーピーに加えて、コボルトたちが住人を襲っている。
冒険者や住人が武器を手に取り、必死に抵抗していた。
「……っ」
そして――西の街外れに視線を向けた瞬間、オレの呼吸が止まった。
黒い波のような影が、地平線からうねりながら迫ってくる。
その正体は、数え切れないほどの魔物たち。
ゴブリン、ホブゴブリン、トロール、スライム、⋯⋯⋯。
それらが群れとなって、まるで大地を飲み込む津波のように進軍してくる。
オレは確信した。
「――これが、“スタンピード”か……!」
城壁の上に立ち、握りしめた拳に力がこもる。
恐怖よりも先に湧き上がるのは、確かな実感だった。
風が吹き抜け、水滴が頬を伝う。
それは汗か、あるいは水の壁の名残か。
けれど確かに、心の奥で何かが熱く燃え始めていた。
どんな壁も、どんな困難も――
工夫次第で、乗り越えられる。
そしてオレは学ぶ。
〈工夫で乗り越える〉
と言うことを。




