19話 悲しみの翌日
―――翌朝。
空はどんよりとした灰色の雲に覆われ、雨が静かに、絶え間なく降り注いでいる。陽の光は一筋も差し込まず、世界はまるですべてを悼むかのような沈黙に包まれていた。
オレは、ナリアの横で眠ることなく、朝を迎えた。
その小さな寝顔はもう動かず、冷たい手はどこまでも静かだった。どんなに声をかけても、もうナリアが応えることはない。その現実が、オレの胸に重く沈んでいた。
ヴィスカが、かすかな声でオレに告げる。
「カズー……今日、解放軍がここに来る。ナリアを……このままここに置いておくわけにはいかない。安全な場所に移させてくれ」
オレは、小さく頷く。だが、その前にどうしても知っておきたいことがある。
「……あぁ。だが、その前に聞かせてくれ、ヴィスカ。ナリアは……どうして殺されたんだ?」
ヴィスカは目を伏せ、言葉を探すようにゆっくりと語り出す。
「カズー……ナリアは昨日、いつものように領主の部屋を掃除していた。
領主は朝から酔い潰れていて、ベッドで泥のように眠っていたらしい。だが……夕方になって、突然目を覚ました。
そして……ナリアを襲おうとしたの……」
ヴィスカの声が震える。
「ナリアは必死に抵抗して、領主を突き飛ばした。その時、領主は床に転がっていたワインの瓶に足を取られて倒れ……ベッドの角に頭を打ちつけたの。額から血が流れた……。
そして、その血を見た領主は逆上して、叫んだの。
『よくもやってくれたな! この売女が!』
そして……すぐそばにあった剣を手に取り、ナリアの……心臓を……一突きにした……」
ヴィスカの目に涙が滲んでいた。
「ほんの一瞬の出来事だった……近くにいた女中がすぐに私のところへ駆け込んできたけど、もう……もう手遅れだったのよ……。
ナリアは……私たちの腕の中で……もう……」
その言葉を聞いた瞬間、オレの中で何かが、音を立てて崩れた。
怒り。悲しみ。無力感。悔しさ。それらが渦巻き、オレの心を焼き尽くしていく。
なんてことだ。自分の欲望を満たそうとして拒まれ、偶然怪我をしただけで、命を奪うだと?
―――許せるはずがない。
オレの中に、黒い靄が立ちこめていく。感情が制御できない。深く、底知れぬ闇へと沈み込んでいく。
だがその中心には、一つだけ、はっきりと燃え上がるものがあった。
怒りだ。復讐の炎だ。
オレはヴィスカに顔を向ける。目の奥で何かが燃えているのを、彼女も感じ取ったに違いない。
「ヴィスカ……もう、領主の館には、兵士以外いないんだな?」
「あぁ。女中も、それ以外の者も、全員逃がしてある」
オレは立ち上がる。まるで全身に火が灯ったかのように、体の隅々にまで怒りが満ちていた。
「ナリアを……頼む」
そう言うと、ヴィスカがオレに問う。
「……わかった。でも、カズー。あなたはどこに行くつもりなの?」
オレは静かに、だが力強く答える。
「領主を倒しに行く!」
決意は揺るがない。ナリアのために―――いや、ナリアのような犠牲を、もう二度と出さないために。
その時、サジが声をかけてきた。
「解放軍がもうすぐ到着する。それまで待たないか?⋯」
だが、オレは振り返りもせずに答える。
「……サジ、その必要はない」
雨の中、オレは扉を開け、女中の家を出る。
重い空。冷たい雨。
それは、まるでオレの涙の代わりに降っているかのようだった。涙はもう、とうに枯れていた。
家の前には、オレを心配して集まっていた奴隷たちが、雨に濡れながら立っていた。
オレは彼らにだけ、静かに告げる。
「危ないから、オレに近づくな⋯」
だが、その言葉も虚しく、サジをはじめとした奴隷たちが、オレの背中を追ってきた。
彼らの気持ちはありがたい。だが、これはオレ自身の戦いだ。
オレは、アイテムボックスから鉄の盾を取り出し、装着する。そして、もう一方の手には、妖精剣を握りしめた。
その刃には、雨粒が一つ、また一つと落ち、やがて静かに流れていった。
それはまるで、ナリアの魂が宿る涙のようにも思えた。
オレは歩き出す。領主の館へ。怒りの焔を全身に纏いながら―――。
領主の館に到着すると、そこはすでに戦の気配に包まれていた。高くそびえる石壁、鉄で補強された巨大な正門。その前には、完全武装の兵士たちが盾を構えて防御陣形を敷いている。どうやら、解放軍の動きを察知し、万全の態勢で待ち構えているらしい。
それでも、オレは足を止めなかった。
ゆっくりと前進するオレに向かって、兵士の一人が怒声を上げた。
「止まれ!これ以上来たら【奴隷の首輪】を爆破するぞ!」
オレは静かに目を細め、肩越しに振り返る。そこには、サジと、集まり始めた解放の意志を持つ奴隷たちの姿があった。その数は、刻一刻と増えていく。
オレは、すでに解除されている【奴隷の首輪】を外し兵士に向かって投げつける。
「こんなモノで、オレを止められると思うな!」
オレが叫ぶと同時に、空気が張り詰めた。
瞬間、矢が一閃。オレの肩を深く抉るように突き刺さった。
布一枚の奴隷服しか着ていないオレの肩に、矢は無情に突き立つ。しかし、痛みを、感じているはずなのに、怒りがすべてを塗り潰していた。
怒りが熱となり、魔法を呼び起こす。
「ファイアアロー!」
「ファイアボール! ウィンドボール!」
火の矢が唸りを上げて放たれ、爆ぜる火球と風弾が兵士たちの陣形に突き刺さる。彼らは隊列を崩さず盾を構えていたが、中央に浴びせられた魔法攻撃により、悲鳴とともに数人が吹き飛んだ。
——これでは終わらない。
「ファイアレイン! ウィンドレイン!」
空から火の粉と風の粒が降り注ぎ、兵士たちを包み込む。肌が焼け、視界が乱れ、敵陣が混乱し始める。
だが、敵も伊達に訓練された兵ではない。即座に散開し、オレを包囲しようと動き始めた。
「ファイアシェル!」
オレを中心に、赤い炎の壁が展開される。轟音とともに燃え上がるその障壁は、近づこうとする者すべてを拒絶する。
防御を固めたオレは、再び攻撃に転じた。
「ファイアアロー! ファイアボール! ウィンドボール!」
「ファイアアロー! ファイアボール! ウィンドボール!」
「ファイアアロー! ファイアボール! ウィンドボール!」
炎と風の魔法が次々と敵を打ち倒していく。爆風が巻き上がり、地面が抉れ、兵士たちの悲鳴が響き渡る。
だが、館の門が再び開き、新たな兵士たちが次々と姿を現す。彼らは炎の壁に恐れず、盾を構えて突進してきた。
一人の兵士が、炎の壁を突き抜け、剣を振りかざしてオレに迫る。
だが遅い。
オレの身体は、【妖精剣】の加護で俊敏が大幅に強化されていた。兵士の剣筋を見切り、ステップで躱す。
「ファイアボール!」
火球が炸裂し、兵士は爆風とともに吹き飛ぶ。
その瞬間、後方から連続して矢が放たれる。しかし、オレの展開した防御魔法がすべてを弾いた。
——これが、怒りの魔法。
オレは、連続で攻撃魔法を放つ。
「ファイアアロー! ファイアボール! ウィンドボール!」
「ファイアアロー! ファイアボール! ウィンドボール!」
「ファイアアロー! ファイアボール! ウィンドボール!」
倒れていく兵士たち。その数は、確実に減っている。だが、まだ終わりではない。
そのとき、ゲームシステムのメニューがオレの視界に浮かび上がった。
『レベルアップ 火の魔術師レベルが20になりました。新しい全体攻撃魔法を獲得』
オレは躊躇なく、手を掲げる。
「マルチファイアブレード!」
閃光のように、複数の炎の刃が兵士たちに向かって解き放たれる。斬撃の軌跡が空を裂き、兵士たちは絶叫を上げながら地に伏す。
その瞬間、オレの中に新たな力の感覚が芽生えた。
——まだだ。もっと行ける。
オレは、新しいコンボを編み出す。
「マルチファイアブレード!」
「ファイアアロー!」
「ファイアボール! ウィンドボール!」
凄まじい魔力の連携が爆発的な効果を発揮し、前線の兵士たちは次々に崩れ落ちていった。
燃え上がる戦場。倒れ伏す兵士たち。その光景を見ながら、オレは確かに感じた。
かつてないほど、魔力が澄み切っている。
これは、オレの内なる炎。そのすべてを解き放った姿。
まだ終わらない。
そしてオレは学ぶ。
〈怒りを超えた先の焔〉
と言うことを。




