第六話【幻を抱いて】
これ前の話とくっ付けた方が良かったかなとちょっと後悔しました。
夜の帳が下りた住宅街に、巨大な黒い影がぬらりと立ち上がった。二足歩行の化け猫のような姿を前にして、誠司の心臓は激しく鼓動を打っていた。
「母さんって……」
誠司の声は震えていた。隣に立つ明日香の横顔を見つめながら、信じられない思いで言葉を続ける。
「明日香、お前、母親がロストになるところを見たのか?」
明日香は迫りくるロストから視線を逸らすことなく、冷静に答えた。
「直接見たわけじゃない。けど……母さんを追ってここに来て、そしたらロストが現れて……」
突如、ロストが咆哮を上げながら突進してきた。明日香はふらふらになりながらも身を翻してそれを避け、息を切らせながらも分析を続ける。
「あのロスト、最初から私だけを狙ってきた。それにあの目——」
明日香の瞳に、複雑な感情が宿った。悲しみか、それとも諦めか。
「今までのロストと同じで、元凶になった人を追いかける目をしている。それで私を攻撃してくるってことは、あれは母さん以外ありえない」
その冷静さに、誠司は感心すると同時に底知れぬ不安を覚えた。自分の母親がロストとなって襲いかかってくる——普通なら動揺して当然の状況なのに、明日香からはそれがまったく見えなかった。まるで感情が消えてしまったかのように。
「誠司が来てもターゲットが移らないなら、話が早い」
明日香は弓を構え直しながら、戦術的な判断を下す。
「このまま私が囮になるから、誠司がニードルを破壊して」
「だめだ!」
誠司は明日香の提案を拒否した。
「お前、俺が着くまでだいぶ体力を使っただろう。これ以上はお前の身が持たない」
明日香の身を案じる誠司の言葉だったが、明日香の決意は揺らがなかった。額を流れる汗を手の甲で拭い、前方のロストを見据える。
「ニードルは背中にある。今の私にはニードルを狙えないから、誠司、お願い」
「明日香! 待て、無茶だ!」
誠司の制止の声も空しく、明日香は再び背を向けて走り出した。獲物を見つけた獣のように、ロストが明日香目がけて駆け出す。その足音が石畳に響いた。
振り返りざまに弓を引こうとした明日香の左手に、ロストの牙が深々と食い込んだ。
「明日香っ!」
誠司の叫び声が夜空に響く。ロストの鋭い牙が明日香の腕に突き立ち、鮮血が飛び散った。
激痛に明日香の顔が歪んだが、それでも彼女は諦めなかった。痛みに耐えながら、なおも弓を引こうとする。
「母さん、お願い……目を覚まして……」
意識が痛みに持っていかれそうになる中、明日香が弓を引こうとしたその瞬間、弓から眩い光が放たれた。
光が、すべてを覆い尽くした。
境界も、陰影も、輪郭さえも溶け落ちたその場所は、まるで世界が白紙に戻ったかのようだった。空気は透き通るほどに澄んでいて、風も音も、存在の証すら失われたような静寂が漂っている。
明日香は目を閉じたまま、確かにそこに"光"があることを感じていた。温かく、どこか懐かしい感触を持った白い光が、彼女を包み込んでいた。
ただ白だけが広がっている世界で、すべての痛みも、記憶も、喧騒も、この光に溶けていくようだった。まるで、生まれ直す直前の世界にいるような、あるいは長い旅の終わりに辿り着いた安息の場所なのかもしれない。
ようやく明日香が目をゆっくりと開けると、自分の前に人影があるのを見つけた。その人影は、明日香にとって見覚えのある後ろ姿だった。
その人影が見ている方向に視線を向けると、そこには母の麻美が蹲っていた。まるで迷子の子供のように、小さく震えながら。
「ここは父さんに任せなさい」
低く、優しい男性の声が光の世界に響いた。
人影は麻美のそばにゆっくりと歩み寄っていく。そして麻美の前に膝をつくと、その影は麻美を優しく包み込むように抱きしめた。
険しかった麻美の顔が、ゆっくりと緊張の糸が解けるように緩んでいく。まるで長い間探し求めていたものを、ようやく見つけたかのように。
それを見て明日香は、心の底が少しだけ暖かくなるのを感じた。ああ、これは確かに父さんなのだと。記憶の中でぼんやりとしていた父親の姿が、この瞬間だけは確かに見えたような気がした。
二人の影が再び光に包まれ、明日香の意識も静かに遠のいていく。
気が付くと、そこは暗闇に包まれた狭い路地だった。明日香の前に、人間の姿に戻った麻美が倒れていた。ボロボロになった服から背中が見えていて、何かが上から刺したような傷が見えている。
誠司は銃を下ろし、息を切らせながら明日香たちを見ていた。その表情には、安堵と心配が複雑に入り混じっていた。
「明日香……大丈夫か?」
明日香は左腕の傷を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。そして母の傍らに膝をつく。
「母さん……」
麻美の顔は穏やかだった。長い間苦しめられていた何かから、ようやく解放されたかのように。
* * *
DSIの救護室で、明日香は左手の怪我の手当てを受けていた。
「まったく、また無茶をして……」
夏歩が呟きながら、明日香の腕に包帯を巻いていく。白い包帯が、じわじわと赤く染まっていった。傷はまだ完全には塞がっておらず、包帯には血が所々滲んでいた。
手当てが終わった時、ドアが静かに開いて章吾が入ってきた。
「明日香……お母さんの、目が覚めたよ」
その言葉を聞いて、明日香は反射的に立ち上がった。ドアに向かおうとする明日香の肩を、章吾がそっと掴む。
「無理はしなくていい。まだお母さんも動揺しているし……」
「いえ、大丈夫です。行きます」
明日香の目に、迷いはなかった。
保護室のベッドに、麻美がぼんやりと座っていた。明日香の姿を見るなり、麻美は慌てたように明日香に縋りついた。
「あの人は、あの人はどこにいるの?」
麻美は明日香を見ているはずなのに、その目は明日香を見ていなかった。まるで明日香の向こう側に、誰か別の人を探しているかのように。
明日香は、母の混乱した瞳をじっと見つめた。そして静かに口を開く。
「母さん……父さんはもう、いないんだよ」
麻美の動きが、ぴたりと止まった。
「父さんはもう、いないの」
明日香の淡々とした声は優しく、しかし確固としていた。まるで母親を諭すように、現実を受け入れさせるように。
それを聞いた麻美は、その場にずるずると座り込んだ。そして明日香の身体にすがりついたまま、声を上げて泣いた。大の大人の女性の泣き声が、静かな部屋に響いていた。
麻美は、ずっと夫の影を探していた。今は亡き夫の影を。
夫を亡くしてからの数年間、麻美は仕事を選び、生活費を稼いでいたが、その目はずっと夫を探し求めていた。そしてつい最近、仕事先で出会った男性が、ほんの少しだけ夫に似ていたのだという。
その幻影にすがりつこうとして拒絶され、張り詰めていた心の糸が、ついに切れてしまったのだった。
「お母さんは精神病院に入院することになった」
章吾の説明を、明日香は静かに聞いていた。
「明日香と沙夜は、DSIの所有するマンションに引っ越してもらう。家賃や光熱費はこちらで持つ。食費等は、今まで渡していた報酬として支給しよう」
「そこまで……そんなに負担をしてもらうわけには……」
明日香が遠慮がちに言うと、章吾は首を振った。
「すべてDSIが持つわけじゃない。行政にも連絡して、最低限の補助の申請をする。明日香たちは何も気に病む必要はない」
確かに自分だけならともかく、沙夜がいる以上、大人の手助けが今後も必要であることは理解できた。
「それじゃあ、詳しいことはまた後日決めよう。今日はここに泊まっていきなさい」
「……分かりました」
明日香は静かに会釈をすると、本部室を後にした。
ドアを閉めると、誠司がそばに立っていた。廊下の薄暗い照明の下で、彼の表情は読み取れなかった。
「誠司……」
明日香に呼ばれた誠司は、顔を俯いたままで答えない。
「心配かけてごめん。もうだいじょ——」
明日香は普段通りを心がけて声を掛けようとしたその時、それを遮るように誠司は明日香の肩を掴んだ。
そのまま後ろの壁に勢い余って明日香がよろけて背中をつく。
「誠司……?」
明日香は戸惑った目で誠司を見上げた。しかし誠司は顔を俯かせたままだった。
「……んでだよ」
「え?」
「なんでそんな平気そうな顔してんだよ……!」
誠司の声は震えていた。怒りと悲しみが入り混じった、絞り出すような声だった。
「お前、自分が何をされたか分かってるのか? 母親にあんなことされて! それなのに、お前……っ」
誠司の手が、明日香の服の袖を強く握りしめた。
「誠司……」
明日香には、誠司がなぜここまで怒りを露わにしているのか理解できなかった。ただ、彼が怒っていることだけは伝わってきた。
「俺の前でまでそんな強がる必要ないじゃんかよ……お前の相棒なんだから……!」
誠司の言葉に、明日香はどう反応していいのか分からなかった。
「えっと……ごめん……」
明日香の口先だけの謝罪を聞いた誠司は、力なく明日香の肩から手を離した。
「いや……俺の方こそ、カッとなって悪かった」
そう言うと、誠司は明日香の目を見ず、足早に立ち去っていった。
明日香は一人、廊下に残され、そのまま壁にもたれかかり天井を見上げた。
蛍光灯の白い光が、先ほど見た不思議な光を思い出させた。
あの時、父さんは、本当にいたのだろうか。それとも、自分の願望が見せた幻だったのだろうか。
答えは分からない。でも、母さんが父さんに会ったという事実はある。あの時の母さんと、自分は同じ景色を見たのだろうか。
廊下の向こうから、職員の足音が聞こえてきた。明日香は壁から身体を離し、ゆっくりと歩き始めた。
前半と後半で文字数のバランスが悪くてすみません。
ただ繋げると他の話よりも長くなるなあと思いまして……。