第十五話【薔薇に封印された記憶】(三)
自分の中のでかい鬱展開はここで一旦終わりです。
皆さんがカタルシスを感じてくれたら幸いです。
そこは見知らぬ暗い廊下の様だった。奥は暗くて何も見えず、ただ漆黒の闇が続いていた。
明日香はそのまま前に向かって歩き始める。
最初は何かを探していたはずだった。だが、足を進めるうちに、次第に自分が何を求めて歩いているのか分からなくなっていた。それでも明日香の足は止まらず、ただ前へ、前へと進んでいく。
やがて廊下の突き当たりにたどり着いた。目の前には、非常階段へと続いているであろう扉が一つ。ドアノブに手をかけると、鍵はかかっておらず、軽い音を立ててすんなりと開いた。
何を求めてるか分からないが、何かに取り憑かれたように明日香は迷わず階段を登り上に向かっていく。
何段登っただろうか。息が切れる頃、ようやく行き止まりにたどり着いた。そこには更に重厚な扉が一つ。先ほどと同じように、鍵はかかっていなかった。扉は静かに開き、明日香は外へと出た。
そこは屋上だった。
広いコンクリートが続き、その周囲を金属製の手すりが取り囲んでいる。見上げれば、広大な夜空が頭上一面に広がっていた。無数の星々と、白く光る月が、屋上に立つ明日香を静かに照らしていて、それほど強くない夜風が明日香の頬を撫でていく。
だが、遠くの景色は違った。視界の先、手すりから向こう側は暗い漆黒に包まれ、何一つ見えない。まるで宇宙のブラックホールのように、すべてを飲み込む闇がそこにあった。
明日香は再び歩き出した。
目の前に広がる暗闇に吸い込まれるように、足が前へ、前へと進んでいく。風が吹き、どこからか木々の枝葉が擦れ合う音が聞こえ、その音に混ざって父親の声が聞こえたような気がした。
その声に誘われるように、明日香は歩き続けた。そしてとうとう、屋上の端にたどり着く。もうこれ以上は進めない。目の前には手すりがあるだけだ。
無意識に明日香の手は手すりに伸びた。そして足をかけよじ登ろうとしたその時だった。
明日香の肩が後ろへ引かれる。
強い力で勢いよく引き戻され、明日香は体勢を崩した。背中から、腰から、コンクリートに身体を叩きつけられる。鈍い痛みが全身を駆け巡った。
一瞬の出来事だった。何が起こったのか分からなかった。混乱したまま顔を上げると、そこには明日香を見下ろす杏が立っていた。
「ここで何をしている」
その声は淡々としていて鋭かった。
いつもの冷静沈着で年長者として諭すような物言いとは違い、どこか非難するような言い方に明日香は聞こえた。
いつから後ろに居たのだろう。廊下を歩いていた時も、階段を登っていた時も、屋上にたどり着いた時も、明日香は杏の気配に全く気付かなかった。
しかしそんな疑問も今の明日香にはさほど重要な事ではなく、どこか他人事のように感じていた。
明日香はゆっくりと身体を起こすが立ち上がれず、そのまま手をつき座り込んで俯いた。コンクリートの冷たさが手のひらの熱を少しずつ奪っていく。頭が全く働かず、何と言って弁解をするべきかも分からなかった。
「……私は、取り返しのつかない事をしました」
小さな声だが、どこか感情のこもってない、他人事の様な言い方だった。
杏は表情を変えず、ただ明日香を見下ろしていた。
「私が弱かったせいで、私は……ロストを生み出してしまった。それで私は……沢山の人を傷付けてしまった。私は……罰を受けなければならないんです」
明日香は胸元に手を当て強く握りしめる。血が滲んで痣が浮かび上がるほど強く。それがなんの為になるのか理解が出来ていなかったが、明日香の手は止まらなかった。
「だから飛び降りようとしたのか?」
「…………」
「ここから飛び降りたら死ぬぞ。お前が死んだら、誰がお前の妹を守るんだ?」
明日香は顔を上げなかった。
普段の明日香だったら沙夜の名前が出た所で表情を変えるはずだが、明日香は変わらず俯いたままだった。
「誠司に頼むつもりだったか。或いは飛渡本部長に。何も言わずにそうするつもりだったか?」
「っ、ちがっ……!」
思わず反論の声が出て顔を上げた明日香と目線を合わせるように、杏は明日香の前に膝をつき、彼女が今も尚胸元を握りしめる手に自身のそれを重ねた。
「お前は、そんな無責任な奴じゃないだろう」
「…………っ」
明日香は奥歯を噛み締め、杏から目線を逸らすように下を向く。胸元の手が僅かに震え、杏が上からそれを強い力で握りしめた。
「私はそこまで優しい人間では無い。お前が本気で死のうとするなら、私は止めない。……だが、死ぬ気が無いのにそれをしようとするなら、私は止める」
「…………」
「言い方を変えよう。先程お前は、自分のせいでロストが生まれたと言っていたな。それは人間がロストになるきっかけについて、何か思い出したからなのか?」
杏の問いに、明日香は顔を上げずにこくりと頷く。
「ならば私は、そのロストに関する情報をお前から聞き出さなければならない。それは、お前が生きていなければ出来ない事だ。それを達成するまで、お前は死んではならない」
杏の声は変わらず淡々としていたが、そこに冷たさは感じられなかった。ただ明日香の身を案じるというより、あくまで自分の目的達成のためという名目の様だった。
「私にロストについて知ってることを話せ。これは命令だ。……話した後、己を罰する為に何をするか、お前自身で決めればいい」
明日香は自分の為に動くことは出来ないが、人の為になら動くことが出来る人間だ。特に杏ぐらい見知った人間の頼みなら、よほどの事がない限り受け入れる。
それを見越した上での提案だった。
勿論杏も明日香に死んで欲しくは無い。だが安易に死んだら誰が悲しむだのと綺麗事を並べた所で、今の明日香には何一つ届かない。
特に今の明日香は何をするか分からない以上、命令でも何でも良いから彼女を縛る必要があった。
「……分かりました」
小さく是を唱える明日香を見て、杏は自身が羽織っているジャケットの内ポケットを探る。ガチャガチャと金属がぶつかり合う音が聞こえ、中から銀色に鈍く光る手錠を取り出した。
「形式上お前は、ここに隔離されてるという事になっている。ここまでする必要は無いと思っていたから付けてなかったが……申し訳ないが、明日の朝まで、これを付けさせて貰うぞ」
杏は明日香が胸元に当てた手首をそっと掴み、かちゃりと手錠をはめる。明日香はそれに抗うこと無くされるがままで、蚊帳の外から見るような目でにそれを見つめていた。
「……構いません。今の私は、自分でも何をしでかすか、分かりませんから」
力無く呟かれたその言葉はやはりどこか他人事で、杏は眉を顰める。
普段からそこまで自己肯定感は高くなかったが、今の明日香は極端に低くなり過ぎている。
夜通し見張った方が良さそうだなと杏は考えながら明日香を立ち上がらせ、建物の中に入るよう促した。
暗い階段を足元に気を付けながら降り、明日香が最初にいた部屋に向かう。その道中で明日香は顔を上げ、杏に話しかけた。
「ひとつ、聞いても良いですか?」
「……なんだ?」
明日香の手首に繋がれた手錠を引きながら、杏が振り返らずに聞き返した。明日香はそれを気にすることなく話す。
「どうして私が、あそこにいくって分かったんですか?」
それを聞いて、杏が少し考える素振りをしてから口を開いた。
「ただの勘だ」
「……勘、ですか」
明日香は杏の言葉を繰り返すように呟く。
その様子を杏が横目で一瞥すると再び前を向き、ぽつりと呟いた。
「……私も昔、似たような事をしたからな」
「え、今なんて……」
「いや……ただの独り言だ。聞き流せ」
杏はそれ以上話さなかった。明日香もそれ以上は聞かず、二人は夜の暗闇に沈む廊下を進んで行った。
鬱展開新年に持ち越さなくて良かったと胸をなでおろしています。
週一投稿長いですね。ただストックが本当に無いのですみません。
暗い展開が続きますが、皆さん良いお年をお過ごし下さい。




