第一話【救いに値する罪】
壁一面のモニターに、都市の地図と共に「CASE-00987」の文字が浮かんでいる。
ここは、DSI──正式名称「Dark Symptom Investigation」
各地に現れる異形の存在、通称ロストを調査・救出するために設立された、対ロスト対策機関の東京本部だ。
機密保持のため、表向きには国防関連の研究施設とされている。
ブリーフィングルームの中央。
長机の向こうに立つ黒いジャケット姿の男が、資料ファイルを軽く叩きながら言った。
「今回、怪物化したのは若葉区に住む29歳の女性。襲われた男性とは不倫関係にあったそうだ」
若葉区──東京都心からやや離れたベッドタウン。どこにでもありそうな静かな住宅街。
その説明を聞いた瞬間、立っていた少年が小さく顔をしかめた。
「……あのおっさんも、なんか怪しいとは思ってたけどさ。不倫か。ってことは、女性の方も一概に被害者ってわけじゃないってこと?」
そう尋ねたのは、飛渡誠司──15歳。
DSIのセイバーとして、黒曜石から武器を顕現させ、ロストを鎮める力を持つ少年だ。
その誠司の隣に静かに立っていたのが、白崎明日香──同じく15歳。
無言でファイルに目を落とし、誠司の隣で状況を聞いている。整った顔立ちに冷静な光を宿す瞳。どこか年齢以上の影を感じさせる少女だった。
報告書を閉じ、向かいの男──DSIの指揮官であり誠司の父でもある飛渡章吾は、困ったような顔で頭をかいた。
「いや、女性の方は男性に妻子がいることを知らされてなかったんだ。しかも男性との子どもを身ごもってしまってね……。そのことを打ち明けた途端、男は彼女を切り捨てたそうだ」
「うわあ、最低すぎる……」
誠司が眉をしかめ、声を落とす。
DSIが扱うロスト──それは、強い絶望に囚われた人間の中に“黒いモノ”、通称ニードルが入り込み、肉体と精神を歪めて生まれる異形の存在。
その根本には、必ず“救いきれなかった感情”がある。
誠司の横で黙って話を聞いていた明日香が、ふと小さく口を開いた。
「……それで、お腹の子は……大丈夫だったんですか?」
その声は不意を突くほどに静かで、けれど真っ直ぐだった。
章吾は少し目を細め、頷いた。
「ああ。まだ妊娠初期だったからね。外傷もなく、お腹も目立たない時期だった。どうやら無事のようだよ」
「……そうですか。よかった」
明日香は小さく息をつき、安心したように瞼を伏せる。
その横顔をちらりと見て、誠司は何も言わず頷いた。
「まあ、女性も男性も罪を犯したわけじゃないから、警察には連絡しない。ただ、お互いいずれ弁護士を通すことになるだろうな」
章吾はそう言ってモニターを切る。
「今から、女性の保護先に向かう。面会の許可は取れている。同行できるか?」
「はい。まだケアが済んでませんから」
「もちろん行くよ。放っとけないしな」
誠司が力強く言い、明日香は静かに頷いた。
ふたりの足音が、扉の奥へと消えていく。
保護施設の一室──薄いカーテンが引かれた静かな応接室に、若い女性が一人、椅子に座っていた。
痩せた体に白い毛布をかけ、目元はどこか虚ろで、何かを噛み締めるように唇が震えている。
部屋には看護師と、DSIの職員である飛渡章吾、そして明日香と誠司がいた。
「この子たちは、君を怪物から救った支援隊だ。少し話をしても構わないか?」
章吾の問いかけに、女性はわずかに頷いた。
静かに明日香と誠司が彼女の前に腰を下ろす。
誠司はどこか気まずそうに視線を彷徨わせ、明日香はまっすぐ女性を見つめた。
しばし沈黙が流れたのち──女性がぽつりと口を開いた。
「……私は、何も聞いてないんです。あの人に妻子がいたなんて……。信じてたのに……。一緒にいられるって……」
その声は細く、震えていた。
「子どもさえ……子どもさえ出来れば、結婚できると思ってたのに……!」
その声は一転して感情をあらわにし、掠れながらも吐き捨てるようだった。
拳を握り締め、涙がこぼれそうな目で、彼女は言葉を続けた。
「私は、間違ってましたか……? 彼を信じたこと、子どもを……その手段にしてでも、繋ぎ止めようとしたこと……」
その瞬間だった。
明日香が、はっきりとした声で言った。
「……そのお腹の子は、貴女の道具じゃない!」
室内の空気が、静かに張り詰めた。
誠司がわずかに明日香の横顔を見る。章吾は何も言わず、ただ静かに彼女の背中を見守っていた。
明日香はまっすぐ女性の目を見据えて言葉を紡ぐ。
「貴女が苦しかったことは、分かります。でも……その子は、誰かを繋ぎ止めるための“手段”じゃないんです」
言葉は冷たくはなかった。ただ、凛としていて、まるで祈るような熱を帯びていた。
「どうすれば、そのお腹の子が“幸せになれるか”……それだけを、考えてください」
女性の肩が、小さく揺れた。
握っていた拳がゆるみ、涙が一粒、頬を伝う。
「……そんなこと、分からない……けど……けど……」
声にならない嗚咽に、誠司がそっとティッシュの箱を差し出した。
女性はそれを受け取り、顔を隠すようにして静かに涙をぬぐった。
「……ああいう時、なんて声かけりゃいいんだろうな……」
女性との面会が終わった後、通路を歩きながら小さく呟いた誠司の肩を章吾が叩きながら答えた。
「自分が思った事で良いんだよ。その為に君たちがいるんだから。さっきの明日香みたいにね」
その言葉に、誠司は明日香の横顔を一瞥し、少しだけ苦笑した。
明日香は隣で歩きながら一言も発さずに、窓の向こう、暗く夜に包み込まれた外を見つめていた。
* * *
薄明かりが灯る静かな一角で、小さな少女が椅子の上で膝を抱えていた。テレビの画面にはゆるいアニメが流れているが、目はそこに向いておらず、扉の方をじっと見つめている。
ドアが開き、明日香の姿が現れると、少女はぱあっと表情を明るくした。
「お姉ちゃん!」
小さな身体が勢いよく飛びついてくる。明日香は受け止めながら、柔らかく微笑んだ。
「ただいま、沙夜」
「ねえ、今日は何してたの? 怪物とバンバンってした?」
「うーん、ちょっとだけね。……ちゃんとお利口にしてた?」
「うんっ。さっき、係のおじさんがアイスくれるって言ったけど、お姉ちゃんが帰ってくるまで我慢したの!」
得意げな笑みを浮かべる少女、明日香の妹である白崎沙夜の頭を、明日香はそっと撫でる。
その背後から、飛渡章吾が歩いてきた。
「明日香、これ」
手渡されたのは、少し厚みのある茶封筒だった。
「今月の分だ」
「ありがとうございます」
明日香はきちんとお辞儀をして、それを受け取る。
そのやり取りを、誠司が黙って見つめていた。何か言いたげなまなざしを明日香に向ける。
「……なあ。いつも思うんだけどさ。ロストを助けるのに、それって本当に必要か?」
明日香はちらりと誠司を見てから、当然のように答える。
「扶養から外れる額は受け取ってないし、私は誠司みたいに慈善事業でやってるつもりはないよ。沙夜も大きくなってきたし、食費もかかるの」
さらりとした言い方だったが、その裏には、揺るがない現実があった。
生活のため、妹を守るため──戦わなければならないわけではない。
ただ、“やるなら、その対価は受け取る”──それが彼女の選んだ等価交換だった。
誠司は言い返すことなく、ただ口を閉ざして明日香を見つめた。
章吾が、空気を和らげるように口を開いた。
「まあまあ、明日香の家は母子家庭で色々あるからね。今日はもう遅い。送っていくよ」
「ありがとうございます、飛渡さん」
明日香はぺこりと頭を下げ、沙夜の手を取りながら歩き出す。
小さな足音と、明日香のローファーの音が、静かな廊下に響く。
「……ねえ、お姉ちゃん。今日のごはん、なに?」
「帰ってからのお楽しみ、かな」
沙夜が嬉しそうに笑い、明日香も少しだけ表情を緩めた。
その後ろ姿を、誠司はじっと見送っていた。
言葉にはしなかった思いが、胸の中に静かに積もっていく。
明日香が遠ざかる背中を見つめながら、誠司はぽつりと呟いた。
「……いつもの事だけど、相変わらずあいつの考えてること、よく分からねえな」
その呟きは誰にも聞かれることなく、薄暗いDSIの廊下に吸い込まれて行った。




