第六話【幻を抱いて】(二)
DSIの救護室で、明日香は左手の怪我の手当てを受けていた。
「まったく、また無茶をして……」
夏歩が呟きながら、明日香の腕に包帯を巻いていく。白い包帯が、じわじわと赤く染まっていった。傷はまだ完全には塞がっておらず、包帯には血が所々滲んでいた。
手当てが終わった時、ドアが静かに開いて章吾が入ってきた。
「明日香……お母さんの、目が覚めたよ」
その言葉を聞いて、明日香は反射的に立ち上がった。ドアに向かおうとする明日香の肩を、章吾がそっと掴む。
「無理はしなくていい。まだお母さんも動揺しているし……」
「いえ、大丈夫です。行きます」
明日香の目に、迷いはなかった。
保護室のベッドに、麻美がぼんやりと座っていた。明日香の姿を見るなり、麻美は慌てたように明日香に縋りついた。
「あの人は、あの人はどこにいるの?」
麻美は明日香を見ているはずなのに、その目は明日香を見ていなかった。まるで明日香の向こう側に、誰か別の人を探しているかのように。
明日香は、母の混乱した瞳をじっと見つめた。そして静かに口を開く。
「母さん……父さんはもう、いないんだよ」
麻美の動きが、ぴたりと止まった。
「父さんはもう、いないの」
明日香の淡々とした声は優しく、しかし確固としていた。まるで母親を諭すように、現実を受け入れさせるように。
それを聞いた麻美は、その場にずるずると座り込んだ。そして明日香の身体にすがりついたまま、声を上げて泣いた。大の大人の女性の泣き声が、静かな部屋に響いていた。
麻美は、ずっと夫の影を探していた。今は亡き夫の影を。
夫を亡くしてからの数年間、麻美は仕事を選び、生活費を稼いでいたが、その目はずっと夫を探し求めていた。そしてつい最近、仕事先で出会った男性が、ほんの少しだけ夫に似ていたのだという。
その幻影にすがりつこうとして拒絶され、張り詰めていた心の糸が、ついに切れてしまったのだった。
「お母さんは精神病院に入院することになった」
章吾の説明を、明日香は静かに聞いていた。
「明日香と沙夜は、DSIの所有するマンションに引っ越してもらう。家賃や光熱費はこちらで持つ。食費等は、今まで渡していた報酬として支給しよう」
「そこまで……そんなに負担をしてもらうわけには……」
明日香が遠慮がちに言うと、章吾は首を振った。
「すべてDSIが持つわけじゃない。行政にも連絡して、最低限の補助の申請をする。明日香たちは何も気に病む必要はない」
確かに自分だけならともかく、沙夜がいる以上、大人の手助けが今後も必要であることは理解できた。
「それじゃあ、詳しいことはまた後日決めよう。今日はここに泊まっていきなさい」
「……分かりました」
明日香は静かに会釈をすると、本部室を後にした。
ドアを閉めると、誠司がそばに立っていた。廊下の薄暗い照明の下で、彼の表情は読み取れなかった。
「誠司……」
明日香に呼ばれた誠司は、顔を俯いたままで答えない。
「心配かけてごめん。もうだいじょ——」
明日香は普段通りを心がけて声を掛けようとしたその時、それを遮るように誠司は明日香の肩を掴んだ。
そのまま後ろの壁に勢い余って明日香がよろけて背中をつく。
「誠司……?」
明日香は戸惑った目で誠司を見上げた。しかし誠司は顔を俯かせたままだった。
「……んでだよ」
「え?」
「なんでそんな平気そうな顔してんだよ……!」
誠司の声は震えていた。怒りと悲しみが入り混じった、絞り出すような声だった。
「お前、自分が何をされたか分かってるのか? 母親にあんなことされて! それなのに、お前……っ」
誠司の手が、明日香の服の袖を強く握りしめた。
「誠司……」
明日香には、誠司がなぜここまで怒りを露わにしているのか理解できなかった。ただ、彼が怒っていることだけは伝わってきた。
「俺の前でまでそんな強がる必要ないじゃんかよ……お前の相棒なんだから……!」
誠司の言葉に、明日香はどう反応していいのか分からなかった。
「えっと……ごめん……」
明日香の口先だけの謝罪を聞いた誠司は、力なく明日香の肩から手を離した。
「いや……俺の方こそ、カッとなって悪かった」
そう言うと、誠司は明日香の目を見ず、足早に立ち去っていった。
明日香は一人、廊下に残され、そのまま壁にもたれかかり天井を見上げた。
蛍光灯の白い光が、先ほど見た不思議な光を思い出させた。
あの時、父さんは、本当にいたのだろうか。それとも、自分の願望が見せた幻だったのだろうか。
答えは分からない。でも、母さんが父さんに会ったという事実はある。あの時の母さんと、自分は同じ景色を見たのだろうか。
廊下の向こうから、職員の足音が聞こえてきた。明日香は壁から身体を離し、ゆっくりと歩き始めた。