第六話【幻を抱いて】(一)
夜の帳が下りた住宅街に、巨大な黒い影がぬらりと立ち上がった。二足歩行の化け猫のような姿を前にして、誠司の心臓は激しく鼓動を打っていた。
「母さんって……」
誠司の声は震えていた。隣に立つ明日香の横顔を見つめながら、信じられない思いで言葉を続ける。
「明日香、お前、母親がロストになるところを見たのか?」
明日香は迫りくるロストから視線を逸らすことなく、冷静に答えた。
「直接見たわけじゃない。けど……母さんを追ってここに来て、そしたらロストが現れて……」
突如、ロストが咆哮を上げながら突進してきた。明日香はふらふらになりながらも身を翻してそれを避け、息を切らせながらも分析を続ける。
「あのロスト、最初から私だけを狙ってきた。それにあの目——」
明日香の瞳に、複雑な感情が宿った。悲しみか、それとも諦めか。
「今までのロストと同じで、元凶になった人を追いかける目をしている。それで私を攻撃してくるってことは、あれは母さん以外ありえない」
その冷静さに、誠司は感心すると同時に底知れぬ不安を覚えた。自分の母親がロストとなって襲いかかってくる——普通なら動揺して当然の状況なのに、明日香からはそれがまったく見えなかった。まるで感情が消えてしまったかのように。
「誠司が来てもターゲットが移らないなら、話が早い」
明日香は弓を構え直しながら、戦術的な判断を下す。
「このまま私が囮になるから、誠司がニードルを破壊して」
「だめだ!」
誠司は明日香の提案を拒否した。
「お前、俺が着くまでだいぶ体力を使っただろう。これ以上はお前の身が持たない」
明日香の身を案じる誠司の言葉だったが、明日香の決意は揺らがなかった。額を流れる汗を手の甲で拭い、前方のロストを見据える。
「ニードルは背中にある。今の私にはニードルを狙えないから、誠司、お願い」
「明日香! 待て、無茶だ!」
誠司の制止の声も空しく、明日香は再び背を向けて走り出した。獲物を見つけた獣のように、ロストが明日香目がけて駆け出す。その足音が石畳に響いた。
振り返りざまに弓を引こうとした明日香の左手に、ロストの牙が深々と食い込んだ。
「明日香っ!」
誠司の叫び声が夜空に響く。ロストの鋭い牙が明日香の腕に突き立ち、鮮血が飛び散った。
激痛に明日香の顔が歪んだが、それでも彼女は諦めなかった。痛みに耐えながら、なおも弓を引こうとする。
「母さん、お願い……目を覚まして……」
意識が痛みに持っていかれそうになる中、明日香が弓を引こうとしたその瞬間、弓から眩い光が放たれた。
光が、すべてを覆い尽くした。
境界も、陰影も、輪郭さえも溶け落ちたその場所は、まるで世界が白紙に戻ったかのようだった。空気は透き通るほどに澄んでいて、風も音も、存在の証すら失われたような静寂が漂っている。
明日香は目を閉じたまま、確かにそこに"光"があることを感じていた。温かく、どこか懐かしい感触を持った白い光が、彼女を包み込んでいた。
ただ白だけが広がっている世界で、すべての痛みも、記憶も、喧騒も、この光に溶けていくようだった。まるで、生まれ直す直前の世界にいるような、あるいは長い旅の終わりに辿り着いた安息の場所なのかもしれない。
ようやく明日香が目をゆっくりと開けると、自分の前に人影があるのを見つけた。その人影は、明日香にとって見覚えのある後ろ姿だった。
その人影が見ている方向に視線を向けると、そこには母の麻美が蹲っていた。まるで迷子の子供のように、小さく震えながら。
「ここは父さんに任せなさい」
低く、優しい男性の声が光の世界に響いた。
人影は麻美のそばにゆっくりと歩み寄っていく。そして麻美の前に膝をつくと、その影は麻美を優しく包み込むように抱きしめた。
険しかった麻美の顔が、ゆっくりと緊張の糸が解けるように緩んでいく。まるで長い間探し求めていたものを、ようやく見つけたかのように。
それを見て明日香は、心の底が少しだけ暖かくなるのを感じた。ああ、これは確かに父さんなのだと。記憶の中でぼんやりとしていた父親の姿が、この瞬間だけは確かに見えたような気がした。
二人の影が再び光に包まれ、明日香の意識も静かに遠のいていく。
気が付くと、そこは暗闇に包まれた狭い路地だった。明日香の前に、人間の姿に戻った麻美が倒れていた。ボロボロになった服から背中が見えていて、何かが上から刺したような傷が見えている。
誠司は銃を下ろし、息を切らせながら明日香たちを見ていた。その表情には、安堵と心配が複雑に入り混じっていた。
「明日香……大丈夫か?」
明日香は左腕の傷を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。そして母の傍らに膝をつく。
「母さん……」
麻美の顔は穏やかだった。長い間苦しめられていた何かから、ようやく解放されたかのように。