第五話【見えない傷】(四)
夕暮れの繁華街に、オレンジ色の街灯が点り始めていた。明日香は何かを探すように、薄暗い街を歩いている。
帰宅した時、ちょうど麻美が外出するところだった。普段とは明らかに違う様子の母親を見て、明日香は何か手がかりが掴めるかもしれないと、そっと後を追うことにしたのだ。
人通りの少ない路地を歩いていると、通行人とすれ違った際に後ろから声がかかった。
「おねえさん、これおとしたよ」
振り返ると、明日香のハンカチを手にした少女が立っていた。年の頃は、明日香と同じか少し上くらいだろうか。深く被ったフードの中から、奇抜な桃色の毛先が見えている。
「すみません、ありがとうございます」
明日香は素直に礼を言った。
「ううん、すぐにきづいてよかった。ここはひがしずむとすぐくらくなるから、はやくかえったほうがいいよ」
少女はにっこりと笑いながらハンカチを差し出す。明日香がそれを受け取り、軽く会釈をして立ち去ろうとした時、少女はその後ろ姿をじっと見つめていた。
「……マスターの棘、そろそろ芽が出たかなー」
少女の口元が三日月のように弧を描き、不気味に笑った。その笑顔は、先ほどまでの人懐っこい表情とはまったく別のものだった。
* * *
日がすっかり落ちた夜、DSI本部に警報が鳴り響いた。
『ロストのエネルギーを確認。ロストのエネルギーを確認。直ちに現場へ向かってください』
機械的なアナウンスとアラームが施設内に響く中、章吾が誠司に指示を出す。
「誠司、準備ができたらすぐに向かってくれ」
「分かった。明日香には連絡ついた?」
黒いジャケットを羽織り、コアをバンドにはめながら誠司が尋ねると、章吾は困ったような表情で首を振った。
「まだ連絡がつかない。すまないが先に行っていてくれ」
「了解」
誠司は短く返事をすると、DSI本部を駆け出した。
誠司を乗せた黒いバンが夜の街を疾走する。先行した現地対策班からの無線が次々と入ってきた。
『……あれ、おい、もしかして——』
『どうした、何があった?』
『……誰かがロストと接触してます。いや、あれは……交戦中?』
『ロストがターゲットを追跡中。今回の元凶の可能性があります』
『いや、違う。ターゲットと思われる少女がロストと対峙してます。おそらく、白崎明日香です』
「……明日香がもう現場に?」
誠司は眉をひそめた。普段は自分の方が先に現場に着くことが多い。それは単純に、DSI本部からの連絡体制や移動手段が明日香より整っているからだ。しかし今回明日香が先に到着しているということは——たまたまロストの近くにいたということになる。
「胸騒ぎがするな……」
誠司は前方を睨みながら、ロストの現場へ急いだ。
* * *
深い闇に染まった住宅街の狭い道で、明日香は黒い影に追われながら走り続けていた。
街灯の明かりは普通に歩くには十分だったが、戦闘をするには光源が心もとない。ロストの動きは予想以上に素早く、追いかけ回されては弓を引く暇もなかった。
何とか距離を取り、弦を引く体勢を作って狙いを定める。ロストが明日香に飛びかかろうとしたその瞬間、乾いた発砲音が響いた。ロストは逃げるように明日香の頭上を飛び越していく。
明日香が発砲音のした方向に視線を向けると、暗闇から誠司が現れた。
「誠司!」
「悪い、遅くなった」
「ううん、大丈夫」
短い会話を交わした後、誠司が再びロストに向けて銃を放つ。ロストの攻撃対象を自分に向けようとしたのだが、ロストは再び明日香めがけて飛びかかってきた。
明日香は身を屈めてロストを避けると、前方に向かって走り出す。ロストはそれを執拗に追いかけていく。
「なんで……タゲが俺に移らないんだ?」
誠司は混乱していた。
ロストの攻撃対象は、基本的にロストになった原因の人物に向けられる。その後、セイバーなど別の人間が意図的に攻撃をすれば、ロストは排除対象として攻撃対象を移すのが通常のパターンだ。
しかし今、明らかに攻撃を加えたのは誠司だったにもかかわらず、ロストの攻撃対象は変わらず明日香のままだった。
誠司は明日香を追いかける。明日香は走り続けていたが、フェイントをかけて再び誠司の方へ戻ってきた。ロストが明日香めがけて腕を振りかざしたその時、誠司の銃弾がロストの顔面にヒットする。
ロストはその場に倒れ、のたうち回った。
「なあ……なんであいつ、お前ばっかり狙ってくるんだよ」
誠司は荒い呼吸をしている明日香に問いかけた。しかし明日香は答えない。呼吸を整えるのに精一杯なのか、無言でロストをじっと見つめている。
ロストのターゲットが誠司に移らないということは、物理的な攻撃よりも明日香に対する強い執着があるということだ。そうなると考えられることは一つ、明日香がロストの元凶だということである。
しかし誠司には、明日香が誰かの恨みを買う心当たりが思い浮かばなかった。普段から人と必要以上の関わりを持たず、余計なことに首を突っ込むような野暮なこともしない明日香のことを、ロストになるほど恨むような人物が——
その時、誠司は思い出した。沙夜が被害を受けるかもしれないと明日香が恐れ、遠ざけた人物のことを。
誠司の中で一つの仮説が形成された。出来てほしくない、受け入れたくない仮説が。しかしその考えは、誠司の頭の中を支配していく。
「あのロスト……まさか……」
誠司が眉間に皺を寄せて呟くと、明日香は静かに口を開いた。その声は、諦めにも似た静けさを帯びていた。
「そうだよ、誠司……あのロストは、私の母さんだ」
夜の闇に、明日香の言葉が重く響いた。誠司は言葉を失い、立ち上がったロストを見つめた。
二足歩行で顔が猫のような姿で、化け猫と言った方が正しいロストの目が、暗闇の中でひときわ鋭く光っていた。
後半もすぐにあげます。
今回の話は考えてるだけで相当な精神力を削るので、早くアウトプットしないと自分の身が持たないので。