第五話【見えない傷】(三)
飛渡家の食卓には、誠司の母、飛渡志保が心を込めて作った家庭料理が湯気を立てて並んでいた。生姜焼き、ひじきの煮物、味噌汁、そして真っ白なご飯。どれも温かい家庭の味がする。
「沙夜ちゃん、おばちゃんのご飯はどうかしら?」
志保が優しく声をかけると、沙夜は行儀よく箸を使いながら生姜焼きを口に運んだ。
「はい、とっても美味しいです!」
「そう! それは良かったわ」
沙夜の答えは明るく元気だった。しかし明日香から事情を聞いた後では、章吾も誠司も、その笑顔の奥に隠された本当の気持ちを測りかねていた。
「たくさん食べていいからね。おかわりもあるから」
「はい!」
「沙夜、お茶飲むか?」
誠司がコップを手に取ると、沙夜は振り返る。
「うん、誠司兄ちゃんありがとう!」
にこにこと笑いながら答えた沙夜だったが、ふと何かを思い出したように表情が曇り、箸を置いた。
「沙夜、どうしたんだい?」
章吾が心配そうに声をかける。
「……その、お姉ちゃんも一緒に食べられたらなって。おばちゃんのご飯、美味しいから」
ほんの一瞬、寂しげな表情を見せた沙夜だったが、すぐに屈託のない笑みを浮かべた。
その笑顔の作り方は、確かに明日香の妹だと思わせるものだった。本心を隠す演技が、この年齢にしては上手すぎる。
章吾が沙夜の健気な笑顔に胸を痛めていたその時、誠司のスマートフォンが鳴った。
「あ、ごめん。ちょっと出てくる」
画面を確認した誠司は、慌てたようにスマートフォンを手に取り、廊下へと向かった。
「もしもし」
廊下に出てドアを閉めた誠司の声に、少し不安の混ざった声が応えた。
『あ……誠司?』
「ああ、どうした?」
『……その、沙夜のこと、どうしてるかなって、ちょっと気になって』
明日香の声は淡々としていたが、普段の張りがなかった。誠司はいつも通りを心がけて返事をする。
「今、家族で夕飯食べてるよ。食欲は普通にあるみたいだから、安心しな」
『そっか……良かった』
ほっとしたような明日香の声に、誠司は続けた。
「ただ、お前がいなくて、やっぱり寂しそうだ。明日はこっちに来るんだろ?」
『……うん、そのつもり』
電話の向こうから沈黙が流れる。誠司が何か言おうと口を開けかけたその時、明日香が再び話し出した。
『ありがとう。沙夜のこと、見てくれて』
誠司が返答する間もなく、明日香は続ける。
『誠司たちがいなかったら、私だけじゃ何もできなかったから……とても感謝してる。飛渡さんにも、そう伝えてほしい』
「ああ、分かった。その……お前も——」
『あ、そろそろ切るね。ごめん、また明日』
少し慌てたような明日香の声の直後、通話が切れた。スマートフォンの画面がホーム画面に戻る中、誠司は先ほどの沙夜との会話を思い出していた。
休憩室で明日香と章吾を待っている時のことだった。沙夜が学校の宿題をしながら、ふと誠司に問いかけたのだ。
『誠司兄ちゃんは、お姉ちゃんの考えてること、分かる?』
突然の質問に誠司が戸惑うと、沙夜は静かに語り出した。
『沙夜、時々ね、お姉ちゃんの考えてることが分からなくなるの。お姉ちゃん、大事なことはいつも一人で勝手に決めちゃうから……沙夜、お姉ちゃんの妹なのに』
その目は寂しげで、けれど姉のことを大切に想う妹の目だった。
明日香と沙夜の母親は仕事が多忙で、親として接する時間がほとんどない。そのため明日香が沙夜の親代わりになっていると聞いている。
しかし沙夜は、その立場に甘えることなく、明日香と対等の関係でいたいと願っているのだ——そんな思いが、沙夜の言葉から感じ取れた。
まだ小さいのに、いろいろと抱えて考えている。その状況に、誠司は何とも言えない複雑な気持ちになった。
『沙夜……』
『だからね! こうやって勉強して、大きくなったら、誠司兄ちゃんみたいにお姉ちゃんのことを守りたいの!』
先ほどの悲しみや寂しさを隠すように、沙夜は努めて明るい笑顔を作った。これも沙夜の本心なのだろうが、その感情の切り替えに、誠司は胸を痛めた。
『だから誠司兄ちゃん、沙夜が大きくなるまで、お姉ちゃんのこと、よろしくね』
沙夜は真っ直ぐな目で誠司を見つめる。
『ああ、分かった。約束する』
誠司は沙夜の頭に手を置き、優しく撫でた。沙夜は嬉しそうに笑うと、再び宿題に取り掛かった。
あの時の沙夜を思い出し、誠司は苦虫を噛み潰したような表情になった。
明日香の「感謝している」という言葉は、確かに本心だろう。しかしその言葉の中には、いくつもの複雑な気持ちが隠されている。責任感、遠慮、そして——一人で全てを背負おうとする頑なさ。
「もっと頼ってくれてもいいのにな……」
誠司の呟きは、夜の闇に染まった廊下に静かに吸い込まれていった。
ダイニングからは、志保と沙夜の楽しそうな会話が聞こえてくる。しかし誠司の心には、明日香と沙夜、二人の姉妹が抱える複雑な想いが重くのしかかっていた。