第五話【見えない傷】(二)
夕方の薄暗いオレンジ色の光が、DSI東京本部のガラス張りの入り口を染めていた。自動ドアが滑らかに開くと、受付カウンターにいた女性が顔を上げる。
「あら、今日はどうしたの?」
突然の訪問に、受付の女性は少し驚いたような表情を見せた。明日香の隣には沙夜が少し大きめのリュックを背負って立っている。
「その……飛渡さんにお話があって。今、お時間は大丈夫でしょうか?」
明日香の声はどこか遠慮がちだった。受付の女性は何かを察したように表情を和らげると、受話器を取って内線をかけた。短い会話の後、受話器を置く。
「ちょうど会議が終わったところみたい。休憩室で待っていてほしいって」
「ありがとうございます」
明日香は軽く会釈をすると、沙夜の手を優しく引いて奥へと向かった。受付の女性は、いつもとは違う二人の様子を心配そうに見送っていた。
白い壁に囲まれた休憩室で、明日香と沙夜は隣り合って座っていた。沙夜は膝の上で小さな手を握り合わせ、時折明日香の顔を不安そうに見上げる。明日香もどこか神妙な表情を浮かべていた。
数分後、ドアが開いて章吾が入ってきた。
「明日香、どうしたんだ?」
章吾が入った瞬間、部屋の空気が張りつめているのを感じ取った。いつもならすぐに挨拶をする明日香が、今日は視線を伏せたまま座っている。沙夜も普段の人懐っこい笑顔はなく、緊張した面持ちだった。
何か普通ではない――章吾の直感がそう告げていた。
章吾は明日香の正面に座ると、静かに問いかけた。
「何があったんだ?」
明日香の伏せていた視線が微かに揺れる。迷うように指先が動き、唇がわずかに震えた。しかし短く息を吸った後、決意を込めるように顔を上げる。
「いきなりで申し訳ないのですが……お願いがあります」
明日香の声は少し震えていたが、意志の強さを感じさせた。
「しばらくの間、沙夜を預かっていただけませんか?」
その言葉に章吾は思考が止まった。一体何が起こったというのだろう。
その時、休憩室のドアが開いて誠司が顔を覗かせた。
「あれ、明日香。なんでいるの?」
今日はロストの報告も特にないはずだし、明日香が本部に来る予定はなかった。誠司の疑問は当然だった。
しかし章吾は誠司の問いには答えず、静かに立ち上がって誠司を見つめた。
「誠司、少し沙夜のことを見ていてくれないか。父さん、明日香と話があるから」
誠司は部屋の緊張した空気を察知したのだろう。訝しみながらも頷いたのを確認すると、章吾は明日香を促して休憩室を後にした。
DSI本部長室のドアが静かに閉まると、章吾は明日香にソファに座るよう促した。夕日が窓から差し込み、部屋を温かいオレンジ色に染めている。
「それで、何があったんだ?」
章吾の優しい声に背中を押されるように、明日香は昨夜の出来事を話し始めた。母親の突然の帰宅、異常な行動、暴力、そして沙夜への危険。一つ一つ丁寧に、しかし淡々と語る明日香の話を、章吾は眉をひそめながら聞いていた。
「それは……辛い思いをしたね」
章吾の声には深い同情が込められていた。しかし明日香は首を振る。
「私は良いんです。ただ、母に何があったのか分からない状況で、もし沙夜に母の矛先が向いた時の事を考えると……今の私じゃ、沙夜を守れないから」
拳を握りしめ、俯く明日香の肩に、章吾はそっと手を置いた。
「分かった。沙夜を少しの間預かろう。明日香も一緒に来てもいいんだぞ?」
しかし章吾の提案に明日香は首を振った。
「いえ、私は大丈夫です。それよりも、母に何があったのかを突き止めなくては。今まで母は、私たちに手を上げることなんてしなかったんです。何か事情があるなら……私が母を支えなければ」
その言葉を聞いて、章吾は違和感を覚えた。明日香の言っていることは確かに正しい。しかし、それは十代の少女が背負うべき責任ではない。
章吾は明日香の両肩に手を置き、視線を同じ高さまで下げた。明日香は俯いたままで、その表情はよく見えなかった。
「明日香、君がそこまで抱え込む必要はない。沙夜もそうだが、君もまだ子どもなんだ。お母さんのことは、私たちに任せなさい」
「でも……母にはもう誰もいないんです。私たちしか……もう」
「明日香」
章吾の少し強い口調に、明日香は口を閉じた。
「……分かりました」
長い沈黙の後、明日香は静かに頷いた。
「ただ、今日は家に帰らせてください。明日、荷物をまとめて伺います。それでもよろしいですか?」
章吾は一瞬躊躇した。今夜また同じことが起これば……しかし明日香の意志の強さを感じ取り、頷いた。
「……それでもいい。ただし、もう少し大人を頼りなさい。一人で抱え込まないで」
明日香は深く頭を下げると、本部長室を後にした。
その小さな背中は、いつもより一層小さく、そして重い責任を背負っているように見えた。
章吾は窓の外の夕暮れを見つめながら、深いため息をついた。