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第五話【見えない傷】(一)

虐待描写が含まれます。

苦手な方、トラウマがある方はご注意下さい。

 夕陽が街並みを茜色に染める頃、繁華街の雑踏に一人の女が紛れていた。

 目的もなく、ただ足の向くまま歩を進める彼女の表情は、どこか虚ろで遠い。

 

 人波に揉まれながら歩いていると、前方から駆けてくる二人の少年と出くわした。避ける間もなく、女は年下らしい少年と正面からぶつかってしまう。

 

「うわあっ!」

 

 少年は勢いよく尻もちをついた。女は一瞬振り返ったものの、何事もなかったかのようにそのまま歩き去っていく。

 

「あいたっ!」

 

 地面に座り込んだ少年が痛そうに呟く。すぐに兄らしい少年が駆け寄ってきた。

 

「理人、大丈夫か?」

 

 兄は優しげな声で弟を気遣い、手を差し伸べる。理人と呼ばれた少年はその手を取り、よろよろと立ち上がった。

 

「うん、僕は大丈夫だよ」

 

 理人は膝についた埃を払いながら答える。しかし兄の方は納得がいかないようだった。

 

「それなら良かった。ったく、なんだあのおばさん。ぶつかったのに謝りもしねえ」

 

 兄は女が消えていった方角を睨みつける。その険しい表情を見て、理人も同じように視線を向けた。

 だが、女の姿はもうどこにもない。夕暮れの人込みに紛れ、オレンジ色の光の中に吸い込まれるように消えていた。

 街の喧騒だけが、そこに残された。


* * *


 夜九時を過ぎた頃、部屋を包む静寂の中で、明日香は居間の低いテーブルに向かって勉強していた。

 期末テストまであと僅か。ロスト救出の任務でいつ呼び出されるか分からない身では、こうして落ち着いて勉強できる時間は貴重だった。

 

 沙夜はもう寝室で眠りについている。居間には教科書のページをめくる音と、シャープペンシルが紙を滑る小さな音だけが響いていた。

 その静寂を破ったのは、玄関のドアががちゃがちゃと鳴る音だった。


 明日香は訝しんでドアの方を見る。

 最初は母親が帰ってきたのかと思ったが、それにしては時間がおかしかった。

 時計を見ると、短針は九時を指している。明日香の母親は昼夜逆転の生活を送っており、この時間なら既に仕事をしている時間のはずだった。明日香の胸に嫌な予感がよぎる。

 

 鍵が開く音に続いて、がちゃりとドアが開いた。現れた明日香の母、白崎麻美しらさき・あさみの姿は明らかに普段とは違っていた。

 髪は乱れ、歩き方もふらつき、目には血走ったような異様な光が宿っていた。まるで何かに憑かれたような、明日香の知る母親とは別人のような姿だった。

 

「母さん……?」

 

 明日香の呟きが聞こえた瞬間、麻美が振り返る。そして何の前触れもなく、突然殴りかかってきた。

 突然の出来事に明日香は反応が遅れ、麻美の右手が頬を打った。よろけながらも咄嗟に足を踏み込んで体勢を立て直したが、明日香の心は混乱していた。

 

「ちょっと、待って! 母さん、落ち着いて!」

「なんで……なんでなの……なんでいつも私ばっかり……っ!」

 

 麻美の声は涙声に変わっていた。しかし手は止まらない。明日香を押し倒すと、馬乗りになって殴り続ける。振り乱された髪が顔全体を覆い、表情は見えない。

 

「母さん、やめて! お願いだから!」

 

 明日香は腕で顔を庇いながら、必死に母親をなだめようとした。しかし麻美の拳は容赦なく降り続ける。

 その時、襖が静かな音を立てて少しだけ開いた。

 

「お姉ちゃん……どうしたの……?」

 

 眠そうに目を擦りながら現れた沙夜を見た瞬間、麻美の目つきが変わった。血眼になって沙夜を睨みつけ、今度は沙夜に向かって手を上げようとする。

 咄嗟に明日香は麻美の腕を掴み、羽交い締めにした。

 

「母さん、やめて! 沙夜、こっちに来ちゃ駄目!」

「なに……どうしたの、お姉ちゃん……お母さん……?」

 

 状況を理解できず、顔を強ばらせる沙夜。明日香は必死に叫んだ。

 

「とにかく来ちゃ駄目! トイレに行って鍵をかけて! 早く!」

 

 沙夜は明日香の剣幕に驚き、慌てて部屋から飛び出すとトイレに駆け込んだ。

 がちゃりと鍵がかかる音が聞こえほっとした明日香だったが、腕の中で暴れる麻美を何とかしなければならない。どこかで見た知識を思い出し、麻美の腕を後ろ手に回すと、首に手刀を落とした。数秒後、麻美の体から力が抜け、意識を失って明日香の腕の中にもたれかかった。

 

 はあはあと息を切らせながら、明日香は状況を整理しようとした。普段の麻美なら、どれだけ仕事でストレスを溜めていても、決して子どもに手を上げることはなかった。

 

 ここ数年、母親らしいことといえば食費をテーブルに置いておくくらいで、会話もほとんどなかったが、それでも最低限の一線は越えなかった。

 今夜の母親は明らかに異常だった。何かが彼女を変えてしまったのだ。

 

 隣の部屋から一回、鈍く鋭い音が響いた。騒ぎに気付いた隣人が壁を叩いたらしい。これ以上騒ぎを大きくするわけにはいかない。

 意識を失った麻美を寝室まで運び、布団に寝かせてから、明日香はトイレのドアをノックした。

 

「沙夜、もう出てきていいよ」

 

 がちゃりとドアが開き、沙夜が飛び出してきて明日香に抱きついた。明日香の胸の部分にじわりと水が広がる。

 

「お姉ちゃん……沙夜、怖かった……」

「そうだよね、怖い思いをさせてごめんね」

 

 明日香は沙夜の背中を優しく撫でながら慰めた。しかし沙夜は明日香に抱きつきながらも首を横に振る。

 

「違う……違うの……お母さんが怖いんじゃないの……お姉ちゃんが怪我するのが怖いの……!」

 

 胸の中で泣きじゃくる沙夜の頭を、明日香はそっと撫で続けた。今夜のような事が再び起これば、今度は自分だけでは沙夜を守りきれないかもしれない。今の家はもう安全ではない。

 

「……明日、学校終わったら飛渡さんの所に行こう。学校から帰ったら着替えとかまとめてすぐに。良いね?」

「……分かった」

「分かったら沙夜はもう寝な。居間に掛け布団と枕持ってくるから」

 

 沙夜の素直な返事に、明日香は少しだけほっとした。今夜は沙夜のそばで眠ろう。一人にはできない。

 

 沙夜を寝かしつけた後、明日香は薄暗い居間で一人、今夜の出来事を振り返っていた。母親に何が起こったのか、明日また同じことが起こらないという保証はあるのか。

 不安と疑問が頭の中を駆け巡る中、時計の針は止まることなく、夜の時間を指している。

 長い夜は、まだ始まったばかりだった。

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