第四話【子どもたちの戦場】(三)
身体が、ゆっくりと沈んでいた。
そこはまるで水の中。だが、ただの水ではない。緑がかった、不気味なほど静かな液体が、視界のすべてを染めていた。深く、底の見えない静寂。泡一つない世界。
明日香は息を止めていた。自然と、そうしていた。
肺がじりじりと焼けるような感覚に耐えきれず、ついに「がばっ」と息を吐き出す。途端に意識が焦りに染まった――が、次の瞬間、信じがたいことが起きた。
呼吸が……できる。
空気などどこにもないはずなのに、肺は違和感なく満たされ、鼓動も落ち着きを取り戻していく。
明日香は一瞬戸惑いはしたが、思考は不思議と澄んでいた。そして冷静に、周囲を見渡す。
緑色の靄のような水の中で、視界の奥に何かが煌めいた。
光――。
淡く、けれど確かに前方の奥深くから差し込む光があった。まるで誰かがそこへ導いているかのように、柔らかく揺らめいている。
無意識のうちに、明日香の身体はその方向へ動いていた。重力を忘れたかのように、音も抵抗もない世界を滑るように進んでいく。
吸い寄せられるように、ただ光の方へ――。
そこには、一人の少年がいた。
誠司と同じ学生服を来ている。おそらくこの学校の生徒だ。
少年の虚ろな目が明日香を捕らえる。
「……君も、僕の事を馬鹿にするの?」
それは凍りそうな程冷たい声だった。
明日香は冷静に話しかける。
「馬鹿にするって、どうして?」
「皆僕の事馬鹿だって言うんだ。クラスの人も、先生も、親も。もうたくさんだ。こんな世界で生きたくない」
この世の全てに絶望したという少年の声は、どこまでも冷たい、温かさを失った声だった。
「……死んだら、あなたには何も残らない」
「だからなんだ。別に何も残らなくていい」
「人はいつか必ず死ぬんだから。自分で終わらせなくても、その時は必ず来る」
少年の悲痛な叫び声とは反対に、明日香の声は淡々としていた。
「……こんな暴れて爪痕を残すんじゃなくて、楽しい事してからでも遅くはないと思う」
「楽しい事なんて、何も思いつかない。ずっと勉強しかしてこなかったんだ。なのに親に馬鹿にされクラスの連中に馬鹿にされ、もううんざりなんだよ」
少年は明日香の言葉に聞く耳持たずと言わんばかりに否定したが、明日香は構わず続ける。
「……あなたの事を馬鹿にする人たちの事は知らないけど、あなたの事を助けようとしてる人達がいる事は知ってるよ」
「嘘だ、そんな嘘僕は信じない」
「信じる信じないはあなた次第だけど、私が言ったことは本当だよ」
明日香がそう言った時、ずしんと重たい音が辺りに響いた。
それと同時に周りの景色が揺れ、水の中にも関わらず徐々に崩壊していく。
その様子を明日香は気にすることなく再度少年に話しかける。
「君が言いたい事、他の人にも言いなよ。言わなきゃ、何も始まらないよ」
直後空間が崩れ、二人は淡い光の中に消えていった。
ロストのニードルを破壊して、黒いモヤが晴れた時、そこには誠司と同じ制服を着た男子生徒が倒れていて、その近くで明日香も気を失って倒れていた。
* * *
気が付くと、明日香はベッドの中にいた。
昨日いた保健室では無く、DSIの救護室だった。
明日香がゆっくりと身体を起こすと、小さな影が明日香に飛び付く。
「お姉ちゃん!」
沙夜が明日香の身体に腕を回し、ぎゅっと抱きついてきた。その腕が僅かに震えてる事に明日香は気付く。
「沙夜……ごめん」
「心配したんだよ! お姉ちゃん全然起きないんだもん!」
顔を押し付けてくる沙夜の頭を撫でると、そばで癒月がはあ〜と息を吐いて胸を撫で下ろしていた。
その時ドアががちゃりと開き、誠司と杏が入ってきた。
「やっと目が覚めたか……ったく心配かけやがって。お前半日ずっと眠りっぱなしだったんだぞ!」
「まさかロストに取り込まれるとはな……兎にも角にも明日香が無事で本当に良かった」
誠司は安堵と呆れが混ざった声を出し、杏は冷静ながらも僅かな焦りを含んだ声で安堵のため息をこぼす。
「取り込まれたって……?」
「ロストからなんかよく分からん触手みたいのが明日香に巻き付いて吸収したんだよ。咄嗟に助けようと銃放ったらそこにニードルが浮き彫りになって本宮さんが壊したんだけどな」
「……明日香、ロストに取り込まれた後、何を見たか覚えてるか?」
杏の言葉に戸惑いながらも明日香は口を開く。
「……ロストになった人が、いました。それで色々話してたら周りの景色が壊れ始めて」
「そうか……。こんな事は初めてだったから対応が遅れてしまった。すまんな」
「いえ、私の方こそ、もう少し慎重になるべきでした」
そしてカウンセリングを終えた章吾と夏歩も入ってきて、明日香の無事を喜ぶ。
明日香はロスト救出の際に出会った謎の少年のことは、すっかり忘れていた。