白薔薇が笑ってくれるので、悪役令嬢からの修道女になります
――ああ、あの人のものになってしまうのね。あなたのそんな笑顔、見たくなかったわ。わたくし、聖女になんてなりたくなかった。だって、ずっとずっと、あなたのこと――
そう、溜息ばかりついていた時もありました。今は……、そうね、はらわたと言いますの?そちらがぐらぐらと煮えたぎっておりましてよ。
「ヘイゼル・グラン! お前との婚約を破棄する!」
ホールが大いにざわめきます。それはそうですわ。この国の第二王子である、アレクシス様が突然ご婚約を破棄なさるのですもの。よりにもよって、ご自分の二十歳になった成人のお披露目の場で。
「私はこの美しく清廉なる聖女……。ラニア・パトルリアと再び婚約することにする!」
そう宣言しながら、アレクシス様はラニアの……、わたくしの腕を掴み引き寄せました。
と、言いますより。することにするって……。殿下、勝手に決めないで下さいますか?あと、お掴みになった腕。痛いです。不愉快です。聖女の腕に痣でもつけるおつもりですか?
「まぁ、あの方が噂の聖女様?」
「なんと美しい……」
「アレクシス様が、ご婚約を望まれるのも分かりますわ」
……皆様、わたくしのこの目。とても聖女とは思えぬような、腐った魚の如きこの目がお見えにならないのですか?
いいえ、私の腐った目などどうでもよいのです。それよりどうして。どうして誰も、こんな公の場で婚約破棄を言い渡された彼女を……。ヘイゼルを心配なさらないのです。
侯爵令嬢である彼女、ヘイゼル・グランは、二年前にこの国の第二王子と婚約させられました。
第一王子は、公爵令嬢であるわたくしの姉と。第三王子は、わたくしの妹と。そう、第二王子のアレクシス様とわたくしも同様に、いずれ結婚するよう婚約関係にあったのです。
けれど。幼い頃から聖なる力が備わっていたわたくしは、二年前に王都教会により正しく聖女と認められたのでした。
公爵令嬢には公爵令嬢の、聖女には聖女の務めがあります。わたくしは、国により王子の婚約者に定められ、国によりそれを反故にされ、国により聖女であり続けるよう生涯の独身を言い渡されたのです。
それはよい。よいのです。大体、このアレクシス王子のことは好きでも何でもございませんでした。むしろ……コホン。これ以上は聖女といえども不敬でございますわね。
何より問題なのは、その後なのですわ。わたくしの婚約が破棄された途端、アレクシス様は、次にこの目の前にいるヘイゼルとの婚約を決められたのです!
わたくしとヘイゼルは、公爵家と侯爵家ですが、お母様同士とても仲がよろしくて。必然的に、わたくし達もよく二人で遊ぶようになりましたのよ。パトルリア家自慢の薔薇園で、二人で内緒のお茶会をしましたわ。
「わぁ、とってもいい香り……! 薔薇の花びらを食べているみたい。ふふ、ラニアにぴったりな、お姫様のジャムね」
当家のシェフが作った薔薇ジャムをひと匙口に入れて、彼女はこう言いましたの。その笑顔こそが、大輪の薔薇でしたわ。それも、清らかな純白の薔薇。それからと言うもの、彼女との秘密のお茶会には、必ず薔薇ジャムと白薔薇をテーブルに用意致しました。
グラン家の屋根裏に、秘密基地もつくりましたわね。屋根裏の天窓から落ちる日差しが、彼女の亜麻色の髪を黄金色に変えて。白い頬を桃色に染めて、濃い茶の瞳をワクワクと輝かせていましたわ。
「ラニアの髪の毛は、神様の贈り物ね。誰もがきっと、天使様だと見間違えるわ」
彼女は、そう言ってわたくしの白金色の髪をよく褒めてくれたけれど、わたくしは、わたくしにとっては、彼女こそが天使でしたのよ。
薔薇の棘がヘイゼルの指に悪戯をして、わたくしがそれを祈りで治した時も、初めての聖なる力に二人して驚いたわね。
逆に、はしゃぎ過ぎたわたくしが転けてしまった時、ヘイゼルがわたくしの膝にハンカチを結んでくれたわね。その時のヘイゼルは、涙を浮かべて心から心配してくれましたわ。あの時のハンカチ、今もきちんと宝石箱にしまっていましてよ。
わたくしは、アレクシス王子に掴まれた腕を振りほどき、糾弾されている彼女に駆け寄ろうと致しました。すると、彼女は震える唇を小さく開け、言ったのです。
「アレクシス様、何故ですか? 私が何をしたと言うのです。まさか、あの噂を本気にしているのでは……」
「噂! 噂だと!? よくもまぁそんな事が言えたものだ。全て、お前の醜い嫉妬による事実であろう!」
またわたくしの腕を掴もうとなさるので、思わず距離を置いてしまいましたわ。やめてくださいまし。本気で不愉快です。
噂。
そう、誰からか言い出したあの噂のせいで、このような事になったのです。
それは、わたくし達が王立学園に入学して程無い頃の事でした。ヘイゼルとは常に一緒にいたのに……いえ、一緒にいたからでしょうか。
「ヘイゼル様がラニア様を虐げている」
まことしやかに、そう囁かれるようになったのです。原因はひとつ。アレクシス様が、ヘイゼルとご婚約をされたからに他なりません。わたくしとアレクシス様の婚約が破談になり、その後釜にヘイゼルが選ばれたのですから。
「ヘイゼル様が、アレクシス様とラニア様の真実の愛を邪魔している」
とも、耳にしたことがありますわ。
まず第一に、破談になったのは、わたくしが聖女として生きるよう国に言われたからですわ。ヘイゼルは関係ありません。
そして第二に……。これが最も重要です。真実の愛?はぁ〜〜???……で、ございます。
そもそも、アレクシス様とわたくしの婚約は、お父様もお母様も望んではおられませんでした。
姉は、幼い頃より慕っておりました第一王子に嫁ぎ、妹も、第三王子に想い想われた結果、婚約致しましたのよ。二人と違って、わたくしがアレクシス様に一切、ほんの一欠片も、パン屑ほども気持ちが無い事を、お父様もお母様もご存知でした。 国王陛下も、パトラルリア公爵家に王国の権威が偏ってしまうことを危惧しておられましたのに。
小耳に挟んだ話では、アレクシス様が泣いて泣いて国王陛下に泣きついて、わたくしとの婚約、果ては結婚を望まれたのだそうです。わたくしが十歳。アレクシス様が十五歳の時の事でした。
その時、ヘイゼルは驚いてはいましたけれど、微笑んで「おめでとう」と祝ってくれたのです。祝う必要なんて、これっぽっちもありませんのに……。
ところが、学園へ入学する一年前。わたくしが十二歳になった時の事です。聖女としての力が成長し、備わったのでしょう。大教会から、「聖なる力の強い反応があった」と、使いの方がいらっしゃいましたの。先代の聖女様が逝去されてから、ちょうど百年目だったそうです。お父様とお母様は、それはもう大喜びでしたわ。
「きっと、そうなると思っていたわ」
ヘイゼルはすぐに、そう、報せより早いくらいに屋敷へ来てくれましたの。そうして、純白の絹糸で薔薇の刺繍を施したハンカチをくれましたわ。ヘイゼルは子供の頃から器用で……。あらいやですわ。このお話は長くなってしまいますから、また後日お聞かせ致しますわ。
「パトルリア家が二番目の娘、ラニアよ。そなたを聖女とし、この国の為に生きることを命ずる」
王はわたくしに、代々受け継がれているという聖女のブローチを授けられました。それは薔薇の花の中心に、透明に輝く宝石が嵌め込まれた物でした。
王の表情には、喜びの中に安堵したような笑顔がありましたが、しかし瞳は、不安げな色が隠れておりました。
国の為に生きる。つまり、生涯に渡り伴侶をつくらず、国が繁栄するよう日々祈りなさい、という事なのです。
結婚など全く興味の無いわたくしには、この上なく有難い国命でありました。
しかし、喜んだのも束の間。あのアレクシスが、事もあろうにヘイゼルを婚約者に選びましたのよ。……アレクシス、様。でございますわね。
婚約者に選んだのは、わたくしと仲が良かったから、という何とも単純明快な理由らしいですの。単純明快すぎて、とても王族の方のお考えとは思えませんわね。
王に泣きついてまでわたくしと婚約した方が、とてもヘイゼルの事を愛しているとは思えませんわ。アレクシスだけは止めて欲しかった。けれど、侯爵家であるグラン家が、王太子殿下の申し出を断れるはずもありません。
こんな事になるなんて……。わたくし、ヘイゼルが幸せならば誰に嫁ごうが構いませんでしたわ。
……いいえ、ごめんなさい。嘘ですわ。わたくし、己が男子ならばと何度も思いましたわ。わたくしが男子なら、誰よりもヘイゼルを幸せにできるのに……。
ですから、学園内での噂なんてまるで事実無根ですのよ。本当に、一体、誰から言い始めたのでしょう?
「ラニア様、お気を付けて! あのヘイゼル嬢はラニア様を陥れようとしているのですよ!」
「ラニア様、制服のリボンタイを無くされたと仰ってましたよね。きっと、ヘイゼル様の仕業ですよ!」
始めの内は、何を馬鹿な事を、と聞き流していたのです。そして、いつも通り変わらず、ヘイゼルと学園内で過ごしておりましたわ。けれど、日に日にその噂は大袈裟に、そして瞬く間に広がっていき……。
「皆様、何を仰るの。わたくしとヘイゼルは幼馴染ですのよ。ヘイゼルがそんな事をする訳がありませんわ」
「さすがラニア様、お優しいのね!こうやって庇い立てなさるなんて!」
わたくし、ゾッと致しました。何を言っても、このような調子で愚民ど……いえ、皆様お聞き入れになりませんでしたわ。
ヘイゼルも気にしてか、次第にわたくしと距離を取るようになったのです。ヘイゼルが誰に嫌われても、わたくしがおりますからそれは構いませんことよ。けれど、ヘイゼルが離れて行くのは、とてもとても辛かった。毎日、手紙もしたためましたわ。けれど、次第に返事も減って……。
元婚約者と、現婚約者の噂が、アレクシスの耳に入らぬはずもありません。そうして、噂が立ち始めて二年弱経った今に至るのです。
「ラニアの荒唐無稽な悪い噂を流し、私物を盗み、誘拐まで企てていたようだな!」
ヘイゼルに誘拐……。そういうのもありますのね。って、いえいえそんなにやけている場合ではございません。
「アレクシス! ……様。いい加減になさいませ! 何処にそのような証拠がございますの!?」
「可愛いラニア。この悪女と仲が良かったから、庇いたくなるお前の優しい気持ちは分かる。だがな、学園の生徒から多数の証言があって……」
何を馬鹿な、と思いますわ。だってそんなもの、いくらでも捏造できますもの。
「おおこわい。王子と聖女を敵に回すなんて……」
「こんな娘を世に出して、グラン家はどうするつもりだ?」
「あの娘、穏やかそうな愛らしい顔をして……。怪しいと思ってたんだ!」
観衆共がざわめきます。アレクシスは、それを聞いて得意げに鼻の穴を膨らませておりますわ。
ヘイゼルは、ずっと俯いて……。細い肩を震わせておりました。わたくしは、たまらず彼女に駆け寄りましたわ。
「父上! 国王よ! どうか私とこの悪女……、ヘイゼルとの婚約破棄をお認め下さいっ!」
国王陛下は、この愚息に対して呆れたような、面倒臭そうなお顔をされると、ヘイゼルとわたくしにちらりと視線を向けられました。そして、観衆の賛同する声に眉を顰め、小さく首を振られたのです。
「アレクシスよ、自分が何をやっているのか分かっているのか……?」
「お認め下さい!!」
「ラニア、ラニア……」
ヘイゼルが、震える声でわたくしの名を呼びます。このような多くの貴族が集まる場で、こんなか弱い少女を追い詰めて。こんな事になってしまって、これから先、この子を娶ろうという方がいらっしゃるとは思えません。そればかりか、この噂まみれの貴族達の中で、どうやって生きていけと仰るのです。
ラニアのお父君であるグラン侯爵が、悲しそうに眉を下げ、今にもヘイゼルに駆け寄らんとしていらっしゃいます。ふと、冷たい手がわたくしの手を握りました。見ると、ラニアの瞳には、涙が浮かび……。
途端、わたくしの胸に着けた聖女のブローチが、燃え盛るように赤く輝き出しましたわ。わたくしの胸も、全てを燃やし尽くさんとするほどに、熱く熱く、脈動を速くしたのでございます。
「いかん!」
国王陛下の声が、聞こえたような気が致しました。
「燃やして差し上げますわ」
わたくしは、ヘイゼルの華奢な肩を抱き、アレクシスを見据えながら呟きました。
「ラニアっ!」
アレクシスに差し出した指先から、豪炎の穂先が現れたところで、ヘイゼルがわたくしに抱き着きました。
「ヘイゼルッ?」
ブローチの光が、少しだけ収まりました。
「なっ、ら、ラニア……!?」
アレクシスは、腰が抜けたようにへたり込むと、裏返った声で叫び出しました。
「い、今! この俺を燃やそうとしたのか!? この、王子である俺を!! お前のことを庇ってやったのに! な、何をしている! 捕らえろ!この女共を牢獄に……っ」
「黙れッ!!」
叫びながらも立ち上がれないようで、わたくしとヘイゼルを指さしたところで、国王陛下がお立ちになりました。
「何もかも、お前の身勝手な行動が原因だと分からないのか。己の成人の日に、なんと情けない……」
陛下は、言いながらアレクシスに近付き、肩を掴み立たせて差し上げました。
「ち、父上ぇ……」
そのまま、肩を抱き慰めてくれると思ったのでしょうね。アレクシスは、安堵に口を緩ませました。しかし。
「……ッごぇぇッ!?!?」
ドグォッ!と、低く鈍い音がしました。そして、美しい大理石の床を汚す吐瀉物。
アレクシスは、ぐったりと項垂れると、そのまま吐瀉物の上へ崩れ落ちました。
「こ、国王陛下……?」
周囲のざわめきが、ヒソヒソと囁き声に変わります。
「五年前に、息子可愛さゆえに願いを叶えてしまった私の責任だ。聖女ラニアよ、そしてヘイゼル・グランよ。心から詫びよう」
陛下は、従者に愚息を運ばせるとわたくし達にそう仰って下さいました。
「聖女ラニアよ、勿論アレクシスとの再婚約は認めぬので安心せよ。そして、ヘイゼルよ。アレクシスとの婚約だが、如何とする。継続でも構わぬ。破棄しても構わぬ。お主の好きなように選ぶが良い」
「恐れながら、破棄して下さいませ」
ヘイゼルは、一切の迷い無く、珍しくもキッパリとした声色でそう答えましたわ。当たり前ですわ。わたくし、正直なことを申しますと、ほっと安心しましたのよ。
「分かった。その様に致そう。……聖女ラニアよ、ブローチの色がようやく元に戻ったようだな」
そう言われて、ブローチを見ましたわ。それは、授与された時と同じ透明で、先程の禍々しい赤色はすっかり消えてしまっておりました。陛下は、わたくしのブローチを見て、安心したように微笑まれました。
「ここにいる者達に告ぐ。聖女ラニア並びに、ヘイゼル・グランについて、一切の詮索、悪評の流布を禁じる」
陛下の一言で、貴族の方達は皆物言いたげな瞳のまま、ぐっと唇を閉ざされました。それでも、ヘイゼルの結婚は難しい事になるでしょう。
「ラニア」
ヘイゼルは、俯くわたくしの顔を覗き込むと、天使の微笑みで手を握ってくれました。
四代前の聖女様の時代に、あるひとつの街が赤い炎に包まれ消滅したと、後日知りました。
その聖女様のみが無傷で、王家の騎士達は勿論捕縛しようとしたそうです。しかし、近付く者全てが……。
そうして、その聖女様はブローチを残して、姿を消されたのでした。
「国王陛下は、それをご存知だったから、ラニアの都合の良いようにして下さったのですわ」
ヘイゼルが、紅茶に薔薇のジャムを入れながら言いました。
「そのおかげで、私も修道女兼、ラニアの世話係になれたのだもの。災い転じて……ね?」
「だけど! ヘイゼルに対してあんな仕打ち、とてもじゃないけど許せなくってよ! 今思い出しても腹が立つわ!」
つい興奮して、紅茶を持つ手が揺れてしまいました。
「あつっ……」
「ああ、ほら、ラニア。気を付けて」
手にかかった紅茶を、ヘイゼルがハンカチで拭いてくれました。
それは、ハンカチにしては珍しい生地で。色味も、赤地に白のストライプと、ヘイゼルが持つにしては少し派手な……。
「……あら? ヘイゼルのそのハンカチ……」
「あっ」
ヘイゼルは、さっとハンカチを隠すと、わたくしをチラリと見て、はにかんで笑いました。
「私らしくないかしら?」
「いえ、そんな事は……」
どこで見たのか、思い出しましたわ。それは、わたくしの……。
「ところで、ねぇ。ラニア」
ヘイゼルは、ティーカップを持ち上げながら微笑みます。
「あの噂って、誰が始めに言い出したのかしら?」
それはまるで、悪女の微笑みでありましたわ。