15.歩み始める姉と足踏みをする妹
さて、お姉ちゃんが団体によるコンクール参加からヴァイオリンによるソロ活動を始めた理由は、日本音楽コンクールに参加するためだ。
では、この日本音楽コンクールとは何かという話である。
このコンクールは戦前から続く歴史あるコンクールで、若手音楽家の登竜門として知られている。ピアノ、ヴァイオリン、声楽、作曲の各部門は毎年審査があり、他にも三年に一度の審査対象となる楽器も存在する。
ヴァイオリン部門は一次予選、二次予選、三次予選、そして本選と勝ち抜かないといけない。予選はほぼ連日行われ、その都度課題曲を二曲演奏する。その際、課題曲の重複は不可のこと。つまり、本選に出るためには六曲の課題曲を覚えなければならないのである。しかも例外を除き暗譜しないといけない。
お姉ちゃんはこの課題曲の暗譜と技術向上、そしてバイトまでやってしまうのだから器用なものである。
そして、九月中旬からヴァイオリン部門の予選が始まった。参加者は百名程。一次予選で多くの人がふるいに落とされ、通過できたのは三六名。お姉ちゃんは当然通過した。
一次予選が終わったと思ったら、続けざまに二次予選が始まる。この二次予選が通過できるのは一二人。そこでもお姉ちゃんは無事に三次予選へ通過を果たした。
この年から三次予選はただの予選ではなく、本選の採点に影響するようになった。その為、二次予選までの気持ちで参加できないのである。
本選へ通過できるのは三次予選に参加した一二人の内、たった四人。その三次予選に参加したお姉ちゃんは安定した演奏で、そこでも本選へ通過できる四人に残った。
さて、本選は九月の予選からおよそ一か月後の十月の下旬に行われる。連日、予選の通過のたびに練習する曲を変えていたお姉ちゃんに、やっと休憩ができるとわたしは安堵していたが、元々ストイックなお姉ちゃんは今までと変わらず、練習漬けの生活である。
この本選はチケット販売され、一般の方も観に行くことができる。当然、わたしはお姉ちゃんからチケットを貰った。お母さんも貰ったし、余り仲の良くないお父さんには、わたしから渡した。
その際、お父さんに「本選に出れるだけでも凄いんだよ」とお姉ちゃんの凄さを伝えたが、お父さんは「あぁ、そうだな」と言ったのみで、当日の本選は観に来なかった。お姉ちゃんの晴れ舞台なんだから、仕事休めないものかね。
その本選でのお姉ちゃんの活躍であるが、お父さんが観に来なかった事が演奏に影響があるかもと思ったらそれは杞憂で終わり、お姉ちゃんは本選の四人の中から、見事一位を勝ち取った。
情熱溢れる赤いドレスを身にまとってヴァイオリンを弾くお姉ちゃんは本当に素敵で、もう見惚れるほどだった。
お姉ちゃんは一位を取るだけでなく、このコンクールで取れる賞を総嘗めした。ヴァイオリン部門でレウカディア賞と鷲見賞。コンクール委員会が推した一名に贈られる賞で、弦楽器部門から黒柳賞。そして全部門から増沢賞と、合計四つの賞を頂いた。
もう、ここまで来ると脱帽である。
ただ、これだけの偉業を果たしても、お姉ちゃんは納得いかないようだった。
その理由はたった一つ。お父さんがこの演奏会に姿を表さなかったことである。その感情を愚痴として言葉にすることも、お父さんにぶつけることもせず、ただ内に閉じ込めているだけだった。
ただ、お姉ちゃんは口に出す代わりに、音楽で感情を表したのである。
コンクールの本選で一位になったら入賞者披露演奏会に出ることができる。この演奏会で、お姉ちゃんはパガニーニの「24のカプリス」を演奏した。
パガニーニは技巧の宝庫と言われ、様々な弾き方を詰め込んだ曲がこの「24のカプリス」である。この曲には指で弦をはじく奏法であるピッツィカートがあり、普通は右手で弦をはじくのだが、この曲は左手で弦をはじき、右手で弓をぶつけるという超絶技巧を見せる特徴的な曲だ。
おねえちゃんはこの曲を、まるで演奏を観に来なかった父に対してのうっぷんを晴らすように、激しく荒々しく弾いたのである。
これが本選だったら審査にどう影響するか分からなかったが、観衆にとっては耳だけでなく目さえも奪う非常にインパクトのある演奏となり、拍手と喝采がお姉ちゃんを包んだ。
わたしと母はそんなお姉ちゃんの気持ちを感じて、複雑な気分で拍手を送った。
お姉ちゃんは自分の気持ちを伝えるのが下手で、たまにこういうトンデモないことをする。何もこんな大事な舞台でその感情を表現しなくてもいいと思うのに。
お姉ちゃんは楽器じゃなくてもどんなものでも器用に扱う人だが、感情表現については不器用な人である。
お姉ちゃんが日本音楽コンクールのヴァイオリン部門で一位になったことは、学校でも大々的に
祝ってくれたようで、校舎の屋上から「祝 日本音楽コンクール ヴァイオリン部門一位 霜川百合」と書かれた懸垂幕が掲げられた。
お姉ちゃんと仲の良い友達も祝ってくれたようで、学校帰りにみんなのおごりでファミレスで豪遊したそうだ。
後日、東京を出た渚さんが冬休みにやってきた時、樺菜さんとわたしも含めて、お姉ちゃんのお祝いをした。
さて、こんなお姉ちゃんが活躍した月に、あの滝沢くんから「ちょっといいか」とお昼休みに廊下で声をかけられた。
廊下の窓からグラウンドを見下ろして他愛のない会話から始まり、滝沢くんは本題を切り出した。
「テレビで霜川さんの姉ちゃんの活躍を見たよ」
日本音楽コンクールの本選の様子をテレビやラジオで放送される。当然、わたしは録画した。もちろん、ビデオテープに三倍速でなく標準録画でだ。しかも、爪を折って永久保存版である。
「すげーよな」
という滝沢くんに、わたしは「でしょう」と自慢げに大きく頷いた。
「お姉ちゃんは何をやらせても凄いんだよ。ヴァイオリンだけじゃなくて、家にある楽器、全部上手に弾けるんだよ」
などと滝沢くんにお姉ちゃんの凄さを自慢した。
これ以外にも運動も上手いし、歌だって上手、美人で女性としてもとても魅力的だと、お姉ちゃんを自慢しまくっていると、滝沢くんはわたしが言葉を重ねる度に眉間にシワを寄せ、終いにはうつむいてしまった。
「どうしたの?」
滝沢くんのそんな様子にそう尋ねると、彼はうつむいていた顔を上げてこんな事を言った。
「いつまで足踏みしているんだ?」
「えっ?」
一体、何を言っているんだろうと、わたしは小首を傾げた。
「確かにおまえの姉ちゃんは凄い才能がある人だよ。でもそれは、霜川さんも変わりないだろ」
「わたしもお姉ちゃんと同じ才能があるって?」
「だって、そうだろ。霜川さん、一年の時、ホルンは小学三年の時から始めたって言ってたけど、俺、三年間ホルンを毎日続けてきたけど、あの時の霜川さんに追いついた気がしないんだよ」
ちょっと前の文化祭で吹奏楽部は恒例のコンサートを開いた。その時に全パートで合奏したり、ホルンはあの時サードだった滝沢くんはファーストを、神坂さんは縁の下の力持ちのフォース、そして、セカンド、サードを二年、一年の四人で四重奏のアンサンブルを披露した。
わたしから見れば、滝沢くんはあの一年の時に比べて十分成長したと思う。
「比べられないから何とも言えないけど、同じぐらいには成長したんじゃないの?」
わたしの言葉に、彼は首を左右に振った。
「一年の時、コプラッシュの一番を吹いてくれた時覚えてるか?」
「滝沢くんが実力見せてくれって生意気言った時でしょ」
そう言うと、滝沢くんはバツが悪そうな顔をして、「悪かったよ。あの時はまだガキだったし」と言ったあとに、続けていった。
「俺、あの時の霜川さんのように吹けないんだ」
「あぁ、そうなんだ。でも、わたし、小学三年から指折り数えれば、中学一年で五年目だし」
「でも、それって毎日ホルンだけを練習していたわけじゃないんだろ。神坂さんから聞いたけど、ピアノやヴァイオリン、サックス、トランペットとか、他にも扱える楽器があるんだろ」
「あー、うん、そうだね」
「みんなあのホルンレベルの実力なんだろ。それって才能じゃん」
「でもね、扱えるだけでお姉ちゃんのように技術はないんだよ」
そんなわたしの言い訳に、滝沢くんは苛立ったような怒ったようなそんな複雑な口調で言った。
「扱える楽器が多いのに、たった五年であれだけ上手なのは才能だよ」
褒められているはずなのに、全然褒められている気がしない。
「何が言いたいの?」
「だから、君の姉ちゃんが自分の才能を最大まで活用しているのに、霜川さんは才能があるのにその才能を無駄にしているって言っているんだよ」
才能を無駄にしているって、お姉ちゃんの真似事をしていたら、こうなっていただけで、それを活用しようという気持ちはないのだ。
「滝沢くんはわたしのこと才能があるって言ってくれるけど、お姉ちゃんは才能があるだけじゃなくて、天才だからあんなことできるんだよ」
滝沢くんはわたしにお姉ちゃんのようになれと言ってくれているんだろう。でも、それって熱がないとできないことだよね。わたしには何かを取り組もうとする熱がないのだ。お姉ちゃんが活躍するたびに感じるのだ。お姉ちゃんに追いつくのは無理だって。
「俺にとって君は、いつまでも追いつけない天才だと思っているよ」
わたしが天才だなんて。
「本当の天才はお姉ちゃんみたいな人を言うんだよ」
「俺から見れば、霜川さんも君の姉ちゃんも変わりなく見えるよ」
わたしは半分呆れながら滝沢くんの褒め言葉を聞いていた。
お姉ちゃんは若手音楽家の登竜門である日本音楽コンクールで一位を取ったし、陸上だって大記録を出したんだよ。何の記録も出していないわたしと同じなわけないじゃない。
「滝沢くんは褒めるのが上手だね」
その言葉に、彼は首を左右に振った。
「褒めているんじゃない。事実を言っているんだ。君は君の姉ちゃんのようになれるって、俺は本気で思っているよ」
なんだか、その目は真剣だ。
滝沢くんはどうしてもわたしを上の世界に立たせたいらしい。お姉ちゃんとは圧倒的な差がある以上、同じ世界に立てるわけないのに。どうして滝沢くんはわたしの背中を押すのだろう。
そんな不思議な目で彼を見ていると、滝沢くんはわたしの目を見てはっきりと口にした。
「好きなんだ。君が演奏している姿を見るのが」
そう言った後、滝沢くんはグラウンドを見下ろす。
「見たいんだよ。大観衆の視線を浴びて君が舞台の上で輝いている姿を」
その言葉を聞いた途端、拍手喝采を浴びている感覚に包まれた。ドレスを着たわたしが舞台の上に立ち、スポットライトを浴びながら観客席にいる大観衆から拍手喝采を浴びている姿が。
きっと滝沢くんは演奏者としてのわたしが好きなんだろう。わたしは滝沢くんの希望に叶えられる人なのか分からない。だから、せめて滝沢くんが「好き」と言ってくれたことを叶えようと思った。
「体育館へ行こう」
「えっ?」
わたしは滝沢くんの手を引き昼休みの生徒たちが行き交う廊下を体育館へ向かって歩き始めた。
「今から体育館って、もうそろそろ昼休みも終わっちゃうぞ」
「だったらサボっちゃえば良い」
「ええ!?」
昼休みの終わった体育館へ入るとそこは誰もいない静かな空間が広がっていた。この時間に体育の授業がないのは前から知っている。
「誰もいないようだな」
「木曜日の五時限目はどこも体育の授業がないんだよ」
そう言いながらステージに向かって歩いていくわたしに向かって、滝沢くんは感心したように言った。
「詳しいんだな」
「たまに息抜きしたい時あるからね。覚えておいてソンはないよ」
「霜川さんって、思ったより悪いことしているんだな」
グランドピアノがあるステージに上がり、滝沢くんを見下ろす。
「結局三年間、同じクラスにならなかったね。わたし、結構不良娘だよ」
そう言った後、「嫌いになった?」と続けた。
「いや、そんなことない」
首を振る滝沢くんを確認した後、彼に背中を向けてグランドピアノに歩み寄り、その前に腰掛けた。
「滝沢くんはわたしのファンなんでしょ。わたしはお姉ちゃんのような活躍できる人になれないだろうけど、今だけは滝沢くん一人のピアニストになるよ」
そう言って、わたしはピアノを弾き始めた。
しっとりしたショパンのノクターン二番から始まり、少しずつテンポを上げ、得意の幻想即興曲へと繋げる。完璧に弾けるクラシック曲は数少ないけど、耳コピは得意だったから知っているサビ部分だけは弾き次に繋げるメドレー。時には滝沢くんにリクエストを聞いては弾いていく。
わたしは自分でどんな人生を歩みたいのか良くわからない。運動も音楽も、どちらも自分が好きだからやっているというわけではない。憧れのお姉ちゃんを追っていたら、好きでもない運動も音楽も、そこそこできるようになっただけだ。
でも、わたしの音楽を好きと言ってくれる人がいるのは嬉しいことだ。
こうやって音楽を続ければ、わたしの音楽を好きと言ってくれる人が増えるのかもしれない。
もし、将来わたしが音楽の道へ進むのなら、授業をサボって二人で体育館にいるこの時間が、そのきっかけになるのかもしれない。
わたしは滝沢くんに見つめられながら、彼が満足するまで、わたしが満足するまで弾き続けた。
ちなみに、この後先生に見つかって二人して怒られたのだった。