14.クラシックバー
お姉ちゃんの後をつけていくと一棟の雑居ビルの前で歩みを変え、お姉ちゃんはビルの地下へ続く階段を降りていった。
ビルの看板を見ると、地下一階の所には『クラシックバー・ナオ』と書かれていた。
「バー? 飲み屋?」
お酒の出るところでお姉ちゃんがバイト?
怪訝に思いながらも階段を降り、その先にある押戸を開けるとクラシックの曲が流れる、狭いながらも雰囲気の良い大人のバーが広がっていた。
小さな丸いテーブル席が奥の方まで並べられていて、その前に多くの人が腰掛け素敵な色のお酒を飲んでいる。その一番奥にはグランドピアノとドラムスが鎮座してあり、入り口から見て右手にバーカウンターが奥まで伸びている。その内側で黒いシャツを着た四〇代ぐらいのおじさんがいた。恐らくここのマスターのようだ。
入り口で店の様子を見ていると、店員らしい若い男性が声をかけてきた。
「御予約のお客様ですか?」
「ここって予約が必要なの?」
予約が必要なハードルの高いお店と分かり、つい訊いてしまった。そんなわたしの様子に、その店員は首を左右に振った。
「もちろん、予約なくても入れますよ」
そう言ったあと、彼はわたしの姿を上から下まで素早く確認すると、ちょっと言いにくそうに言った。
「お客様。失礼ですが、年齢を確認できるものはございますか」
そうだよね。お酒が出るお店だもんね。ここは最終手段だ。
わたしは縁の太い眼鏡を取って見せた。すると彼は驚いたような顔を見せた。
「えっ、百合、さん?」
やっぱり、お姉ちゃんはここで働いているんだ。
「通らせてもらうね」
「えっ、えっと」
戸惑っている店員の横を通り抜け、わたしはマスターのいるバーカウンターに歩み寄り、彼の前に腰掛けた。
「マスター、どうも」
そうトーンを抑えて声をかけると、マスターは驚いた顔でわたしの顔を見た。
「あれっ? 百合ちゃん? さっき……」
「妹の小百合です」
そう言って笑みを浮かべて軽く頭を下げた。マスターは驚きつつ、その口元に笑みを浮かべた。
「いや、よく似ている。百合ちゃんかと思ったよ」
そう言った後、「ちょっと待っててね」と言って何やら背後の棚から瓶を取り出すと、何やら青とピンクのグラデーションがかかった素敵な色のカクテルを作ってくれた。
「どうぞ。小百合ちゃんとの出会いを祝って、サービスです」
「当然アルコールは入ってないんですよね」
「はは。もちろん」
目の前に置かれた素敵な色のカクテルを手に取り、それを一口含むと、爽やかで甘酸っぱい味がした。
「美味しい」
目を丸くして驚いているわたしに、マスターは満足そうに「それは良かった」と言った。
「お姉ちゃんはここで働いているんですよね」
そう訊くと、マスターは腕時計を一瞥してから答えた。
「そうだね。そろそろ時間だよ」
今まで流れていたクラシックの音楽がゆっくりとフェードアウトしたかと思うと、奥から黒いドレスを着たお姉ちゃんと楽器を持った三人が現れた。
お姉ちゃん、素敵。あれ、少し化粧しているよね。いつもより大人っぽく見える。
お姉ちゃん以外の三人は、男性二人に女性一人で、その女性はピアノの前に腰掛け、男性の一人はドラムスの前に座り、もう一人はギターを持っている。お姉ちゃんはその前に立った。
お客さんも、待ってましたとそちらの方へ体を向けている。
マスターが小声で話しかけてきた。
「今日は週に一回のジャズとボサノヴァの日なんだ」
「ボサノヴァ……」
聞き慣れない言葉を反芻していると、リズミカルで軽快なメロディーのイントロが流れ、しばらくするとお姉ちゃんが歌い始めた。
このサンバのリズムに乗せて歌う向こうの歌は初めて聴く。お姉ちゃんが聴く音楽は大抵チェックしているはずなのに、こんな曲は聴いたことがない。そもそも、この歌を歌えるお姉ちゃんはいつの間に覚えたのだろうか。
わたしはマスターに小声で訊いてみた。
「なんて曲ですか?」
「マシュ・ケ・ナダって言う曲だよ」
「このリズム、初めて聴く……」
「これがボサノヴァだよ。ブラジルの曲で、およそ半世紀前に確立された割と新しい音楽だよ」
「へえ」
その曲が終わるとまた別の歌が始まり、マスターに訊いてみると「イパネマの娘」だと答えてくれた。この曲も素敵。
それからヴォーカルをもう一人の女性と変更してお姉ちゃんはピアノの方に回り、また別の曲が始まった。この女性の方も素敵な声をしてる。
およそ二〇分程ボサノヴァを歌うと。今度は今までヴォーカルをしていた女性がトロンボーンを持ち、ギターを持っていた男性はサックスに持ち替え、お姉ちゃんはトランペットを持った。
それぞれが配置につくとドラムス担当の男性がドラムを叩き曲が始まった。
この曲は『シング・シング・シング』だ。
ボサノヴァからジャズに切り替わった瞬間だ。
この曲が始まった途端、観客はいい気分で体を揺らしている。
有名なジャズ曲が幾つか流れた後、もう一人のお姉さんがピアノの前に座り、歌いながらピアノを弾き始めた。この方はお姉ちゃんに比べて場数を踏んでいるらしくレパートリーも豊富だ。流石というべきか。
全部通して四〇分ぐらいの演奏したところで、演奏していた四人全員が立ち上がり、観客に向かって頭を下げると観客たちは手を叩いて称賛した。
四人で奥の部屋へ帰る途中、お姉ちゃんはこちらに冷ややかな視線を送って軽く手招きしてきた。
わお、これはお説教タイムですね。わかります。
「マスター、お姉ちゃんが呼んでいるんで行ってきます」
苦笑するマスターにそう言ってお姉ちゃんたちが消えた奥の部屋へ行くと、三人の演奏者たちに混じって、こちらに向かって仁王立ちをしているお姉ちゃんがいた。
わたしはそんなお姉ちゃんににこやかに微笑んで手を振った。
「お姉ちゃん、素敵だったよ」
「そんなこと聞きたいんじゃないの。どうしてあなたがここにいるの」
「後を付けてきたに決まってるじゃない」
それを聞くと、お姉ちゃんは大きなため息をついた。
そんなお姉ちゃんの後ろから、演奏していた三人が顔をのぞかせてきた。
「良く似た妹さんだね」
「初めまして。妹の小百合です」
三人に挨拶をすると、彼らも挨拶を返してくれた。先ほどの演奏でドラムスを担当していた方はマサオさん。ピアノやトロンボーン、ボーカルを担当していた女性は美有さん。そしてサックス、ギターを担当して方はケイタさんと言うそうだ。当然、他にも扱える楽器があるそうで、曲によって担当する楽器が変わるようである。
「詳しいことは家で話してあげるから、あなたはもう帰りなさい」
まるで子供相手に親が言うようなセリフに、わたしは「お姉ちゃんと一緒に帰る」と子供になってみた。
そんなわたしにお姉ちゃんは「この子ったら」と呆れていた。
「親に言ってきたのなら、今日はお客としてみてたら?」
そう美有さんが言ってくれたので、お姉ちゃんもしようがないといった感じで諦めてくれた。
家に帰ってからお姉ちゃんが、バイトをするきっかけとなった話をしてくれた。
レッスンの帰りに、駅前にピアノが置いてあったので弾いていたら、おじさんにジャズ曲である『A列車で行こう』をリクエストされたそうだ。
「それに応えて弾いてみたら、楽器を持ったあの三人に囲まれちゃって、駅前広場がちょっとしたジャズ会場になったのよ」
そう話してくれた。
どうもリクエストしたおじさんはあのマスターのなおさんで、その時にスカウトされ、お姉ちゃんは興味本位で働いてみることにしたようだ。
「あそこ、お酒が出るところでしょ。学校ではお酒が出るところでのバイトは禁止なのよ」
そう言って樺菜さんに秘密にしていた理由を話してくれた。
「なら、何でわたしにちゃんと教えてくれなかったの?」
そう訊いたら、ちょっとバツの悪そうな顔をしてこう答えた。
「あなたの口から漏れると、話を盛る時あるから」
そんな言いように、わたしは頬を膨らませた。
「ひどーい。話は盛ることあっても、口は堅い方だよ」
「じゃあ、秘密にしてくれる? 特にわたしの友達には」
お姉ちゃんの友達ということは、学校で広がることを恐れてのことだと思うけど、高校生が飲み屋で働いている人って、結構いると思うんだよね。
「樺菜さんにも?」
「そうね。同じ学校だからね」
「渚さんにも?」
「あの子はこっちに住んでないとはいえ、口が軽いってわけじゃないけど、つい口を滑らせちゃう子だから特にね」
渚さん、信用されてないよ。
「わかったよ」
こうして、わたしはお姉ちゃんのバイトについて秘密にすることを約束した。
話が一段落して、ふと思い出したことがあった。
そう言えば、滝沢くんに食べかけのハンバーガーをあげちゃったな。お姉ちゃんを追いかけることに夢中になって、つい「あげる」なんて言っちゃったけど、あれ、どうなったんだろう。
翌日、滝沢くんを捕まえて訊いてみると、
「捨てるにはもったいないからな」
などとちょっと顔を赤くしてそう言った。
つまり、食べたんだ。
「間接キッスだね」
とニヤニヤして言ってやると、滝沢くんは赤くしていた顔をさらに赤くした。
「お前があげるって言ったんだからな」
とちょっと怒ったように言った。
ふふふ。滝沢くんをからかうのは楽しい。
わたしは口元に笑みを浮かべて言ってやった。
「忘れないで、ちゃんと奢ってよね。待ってるから」
「あ、あぁ」
こうしてお姉ちゃんのバイト先を突き止める話は終わったけど、このバイト関連でお姉ちゃんがトンデモない行動を起こした話は、またの機会である。