死にたい私と死神さん。
「こんにちは、僕は死神です。貴方の命を刈り取りに来ました」
「ひっ……」
屋上の柵に手を掛けていた私の前に現れたのは、そう名乗る不審者感満載の男性だった。紫のグラデーションがかかっていて毛先にいくつれて段々と薄くなっていくサラサラとした髪、アメジストのような瞳。少し容姿が人間離れした美しさではあるが、それだけ見れば人間だ。
唯一おかしいところがあるとするなら。真っ黒な服を着て、大きな鎌を肩に背負っていることだ。……死神? まさか、馬鹿げてる。こんなに文明が発達した時代に死神なんて――
「あ、死神なんているわけないとか思ってる? 残念ながら本物だよ。――ねえ、そこのキミ。死ぬくらいならその命、僕に頂戴」
「……はい?」
彼は意味深な笑みを浮かべる。獲物を捕らえようとするオオカミのような目。
「僕ら死神は、イキモノの魂を喰わなきゃ生きていけないんだ。虫でも、魚でも、なんでもいい。――ただ、その中でも人間の魂は格別に美味しいし、栄養価が高いんだ。ま、相手の了承なく食べると死神の世界から追放されるから滅多に食べれないんだけど。――だから、キミ。死ぬくらいなら僕にその生命を頂戴よ」
丁寧に説明してくださった自称死神さんは、私の手を笑って握った。
「つまり、自死するくらいなら、自分の餌になれ、と?」
「言い方悪いけど、まあ言ってしまえばそうだね。僕もできることなら美味しい食事を取りたいし」
毎日、瀕死でもう死ぬのが決定したイキモノしか食べられないって不憫でしょ? と彼は人間離れした顔で妖艶に笑った。
「それに、魂を喰われたら苦しさを全く味わわずに逝けるんだよ? 飛び降りなんかしたら絶対痛いと思うな」
「あんたには関係ない。……それに、飛び降りたら落ちてる最中に気絶して楽に死ねるって……」
「……自由落下するとしたら一秒で大体九.八メートル。ここは3階だから高さはあって十メートル弱。一秒で気絶は無理じゃないかな。面白いこと考えるね」
彼はケラケラ笑う。
「とにかく! お断りです! 死ぬなら一人で死にたいですし、とりあえず私の目の前から消えてください」
「嫌だね。死なれたら食べられないじゃんか。気が変わるまで一緒にいとくよ」
死神さんはそう言って、また笑った。
「なんで着いてくるんですか! 見られたら面倒でしょう……」
「大丈夫、君以外に見えないようにしてあるから」
なおさら厄介じゃないか、という言葉が出かかったが喉で止まった。虚空に話しかけてる哀れな変人と思われたくない。
歩いていると向かっていた吹奏楽部の部室の前に着いた。……行きたくない。私はそんな思いを押し留めて部室の扉を開けた。
「……桜庭です。遅れました、すいません」
先輩方が一斉にこちらを見る。睨みつけるように、責めるように。
「あのさあ、桜庭さん。部活開始の時間も分からないの? 迷惑がかかるとか思わなかった? ……さっさと辞めればいいのに」
「ほんとに。ちょっと弾けるだけでいい気にならないでほしいね」
先輩方はこれみよがしにそう言い始めた。……死ぬつもりだったんだから仕方ないじゃん。なーんて心のなかで僻むが、実際はそんなこと、言えるはずがない。
「……すいませんでした」
「誠意がこもってないわよね。土下座でもして謝ればいいのに」
周りもそうだそうだー、と囃し立てていく。……分かっているんだ。私を虐めなければ自分たちは安全に過ごせるってことを。だから、みんなして私の敵になる。それが辛くて辛くてたまらなかった。
死神さんは何か言いたげな顔で私を見つめていた。
「じゃあみんな! 練習に入って! ――ああ、桜庭さんは何もしなくていいわ、帰ってちょうだい」
「……はい」
私は来たばかりの部室を黙って出ていった。……今日は先輩の機嫌が随分とよかった。早めに帰らせてくれたのはラッキーといえばラッキーなのだろう。
「キミ、虐められてるわけ?」
「だとしたら何、関係ないでしょ」
死神さんは部室から少し離れた私にひたすら喋りかけてくる。……放っておいてほしい。どうせ、死んでも死ななくてもなんにも変わらないような私なんだから。
「ふうん。……だから死のうとしたわけね」
最近の子はしょうもない理由で死ぬもんだ、と彼はまた私を見つめる。
「もう、ほっといてよ! あんたにはなんにも関係ないじゃない!」
「はいはい。じゃあ消えるよ」
ふっと彼は姿を消した。彼の悲しげな声がやけに耳から離れなくて、嫌だった。
「はぁ、またか」
家に帰ってきたはいいものの、当たり前のように誰も居なかった。いつものことなんだから諦めろ。自分にそう言い聞かせて、ソファーに倒れ込んだ。
「今日はこのまま寝よ……」
「ごはん食べない気? 病気になっても知らないよ」
真上から降ってきたのは、少し高めの少年っぽい声。見上げると、思った通り紫色の髪が目に映った。
「死神さんですか。不法侵入で通報しますよ」
「警察連れてきても無駄だよ。僕の姿はキミ以外に見えてないもん。いたずらはやめろって言われるだけだからやめときな」
彼ははっ、と意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見た。
「で、ごはん食べないの?」
「作んの面倒くさいから今日は食べない」
母親かよ、とか思わされるくらいにお節介だ。……消えてくれないかな。
「ふうん。じゃ、作ったら食べるんだね? はい、作ってくるから待ってて」
彼はスキップしながらリビングを出ていく。……本当に何なんだ。
「あ、だし巻き卵は甘めとしょっぱめとどっちが好きー?」
「……しょっぱめ」
「ふふ、了解ー」
喰いたいとか言ったかと思えば、家に上がり込んできてごはんの心配をしてくれたり。本当に分からない。……心を開いてもらうための打算的な考えでしているのか、優しさでしてくれているのか。
……後者を期待してしまう。どうしても、そう思ってしまう。
「生きてても辛いだけなのに。誰も、私を必要としてないのに」
「ねえ」
「うるさい、構わないで」
一週間たった今も死神さんはずっと私の隣にいる。
「今も、気は変わらない?」
まだ、死にたい? と死神さんは私に問うた。
「……分かんない……」
彼は、毎日そう私に訊いてくる。今も死にたいのか。その度に悲しげに微笑まれるから、どうしても胸がギュッと締め付けられて。だから、この時間が嫌いで嫌いで仕方ない。
「……そっか」
彼はそれを肯定も否定もしない。……なんで、私を喰いたいと言っていたのに、殺してあげると。初めて会ったときのように言ってくれないのか。本当に死神さんが分からない。
「サク、なんだ。そいつのこと、まだ喰ってねーの? お許し出てる奴なんだからさっさと喰ったらいいのに」
そうして何も話さずにソファに私が寝転がり、死神さんが夜ご飯を作り始めてくれた頃のこと。突然、初めて死神さんが現れたときのように、これまた美しい男性がそう話しかけた。
燃えるようなルビーの髪に、ブラッディレッドの瞳。きれいなはずなのに、どこか血みたいで怖かった。
「コウ、なんでここに、」
焦ったように死神さんは赤い人に返す。すると、赤い人は高らかに笑いだした。
「その子の寿命を捻じ曲げて変えただろ。俺はお前と違って喰われた魂の管理もしてるから? その子が来てないことに気づいただけー」
そして彼は続ける。
「今喰っちゃいなよ。なんか理由があるのかと思って、幼馴染のよしみで上には報告してないからさー」
死神さんはひたすら黙っている。黙り込んでいる。
外で降っている雨の滴り落ちる音がやけに耳に響いた。
「サク、ここで死ぬ気なわけ? 掟を破るのがどれだけ重罪か知ってるよな? 血迷ったのかよ! このままじゃお前、処刑されるぞ」
赤い人は死神さんを揺さぶって、必死そうにそう尋ねた。
「……いいよ。そうなるならそれでいい」
死神さんは、諦めたかのような瞳で赤い人を見つめていた。
「……そうか。なら、俺かその子を喰う。俺にとってはこいつの命なんてどうでもいいんだから、簡単に殺せる。お前が殺せないなら俺がやる」
何の話をしているのか。詳しいことは分からない。でも、私のせいで何かが起こっていることは確かだった。
「桜庭朱音。お前は、一週間前の飛び降りようとした日に、お前が死神さんと呼んでいるこいつに魂を喰われ、転生するはずだった」
赤い人は私に向かって鎌を構える。
「自殺者は大抵、体が死んでしまえば魂は怨霊になる。そうすると回収が大変になるからな。だから寿命や病気で死んだ人間と違って、死ぬ直前に魂を回収するんだ。飛び降りなら、飛び降りている途中に。首吊りなら首を縄にかけてから。決して死ぬ運命を変えてはいけない。……こういうマニュアルが死神の中にはある。なのにこいつは、それを破って、自殺前にお前に話しかけて、生かした。サク――お前を助けた死神がマニュアル違反をしたことがバレたら、こいつは罪に問われてただじゃすまない。だから俺が、こいつの代わりにお前を殺す」
鎌が大きく振り上げられた。鎌の刃は光が反射して銀色に鈍く光っている。……ああ、死ぬんだ。否応なしにそれが感じさせられた。死神さんは、私を助けようとしたせいで罪に問われる。それを防ぎたいから赤い人は私を殺す。それは理解できたし、赤の他人、ましてや種族さえ違う私には思い入れなどないのだから、死神さんのほうがそりゃ大切だろう。私が同じ立場でもそうするから、相手を責めようとも何とも思えないけれども。
死にたいと。ついこの前までそう願っていたはずなのに。なのに、私の全身は震えが止まらない。
「死ね」
……死にたくない。まだ、死にたくない。今になって分かるなんて。私はまだ、死にたくないってことを、今になって知るなんてなんて皮肉なのだろう。
「なーんだ、やっぱ死にたくないんじゃん」
痛みが来る、と身構えていたのに。なのに私には痛みは来なかった。その代わり。目の前には死神さんの背中が見える。
「死神さん…… なんで、私を助けたら、罪に問われるんでしょ! 私のせいで!」
「……昔の僕にそっくりだったから、同情しちゃったのかもね」
死神さんの手には血が滲んでいる。まるで悲惨な状況なのに、彼は優しい声でそうやって私に語りかける。
「君は、今がとても苦しいかもしれない。ううん、苦しいと思う。でも、どうか生きることを投げ出したり諦めたりしないで。僕が助けた命、寿命が尽きるまでに失くしてしまわないで。……もし、そんなことしたら許さない。僕が罪に問われるかもしれないことに罪悪感を感じるんだったら、それを絶対守ってね。それさえしてくれたら、僕はそれでいいから。僕にとって君は、君が思っている以上に大切なんだ」
死神さんは、赤い人の鎌から手を離し、赤い人に動かないよう言い放つ。
「コウ。僕はこの子を生かす道を選ぶ。彼女についてのデータを隠蔽しておいてくれる?」
「……仕方ねぇなあ。今回だけだぞ」
「じゃあね。次会うのは、君の寿命が本当に尽きたとき。それまではさようなら、ね?」
「じゃあね」
初めて出会ったときのように、紫色の髪を靡かせて死神さんは手をほんの少し振ってふわりと消えた。
「死神さん!」
呼んでももう返事は返ってこない。一週間、たった一週間いっしょにいただけなのに、まさかこんなふうに返事が返ってこないことが寂しくなるなんて、思いもしなかった。
目の縁から、つぅっと一滴、涙が滴り落ちた。
「いないんだなぁ……」
心に穴が空いたようで、何かが足りなくて、苦しい。……きっと、自分をそれだけ大切にしてくれた人は、死神さんが初めてだったから。
辛くて、怖くて、寂しくて堪らなかった。自分のせいで死神さんが理不尽な目に合うかもしれないと考えると、申し訳なくて更に辛くなっていく。でも、前のように死にたいとは思わない。……死神さんが助けてくれたのだから、生きなければ。そうしなければ、いけないんだ。次会う時に、死神さんが笑顔で迎えてくれるように。心配させて怒られることのないように。どうにか生きていこう。
学校へ行ったら虐められることも、両親はもう帰ってこないことも、なんにも変わってはいないけど。
――きっと、どうにかなる。そう思えた。
「なんであの子、助けたんだよ」
コウは、共にどこかの高校らしいところの屋上で座り込んでいる死神さん――もといサクに問うた。死神は、人間が亡くなった先にある一つの道なのだ。まっとうに生きた人間は天国へ。罪を犯した人間は地獄へ。普通はどちらかに行くことになる。――しかし、コウとサクは、その二つのどちらでもなかった。
「僕達も、あの子と同じで、現実に耐えきれなくて自殺した。――皮肉だよね、こうして自殺した人間が、後悔してから行く先は、今度は他の人の命を刈り取る死神なんだから。そうして死人の魂を喰うことで生き永らえられるんだから。……自殺した人間に、救いはやってこないんだから」
「……だからって…… 自殺した人間の命を刈り取るのは初めてじゃないんだし、なんで今さらこんな馬鹿馬鹿しいことを、」
サクは笑った。後悔はしてない、とコウへ言い放った。
「いつかコウも分かるよ。――誰かに特別な感情を抱くときがいつか来る。僕はそれが彼女だったってだけ。境遇が似てて、辛そうだった彼女を見て、動かずにいられなかった。それだけだよ」
「……まあ。後悔してねえならいいよ」
コウはサクに向かって優しげに、どこか呆れたように笑いかけた。サクはそれを見て、小さくありがとうと呟いて、立ち上がる。
「さぁて、次の仕事に向かおうか。――できるだけ、少なければいいけどね」
「だな」
どうか、誰も自死を選ばずに、幸せに暮らせるようになりますように。自分たちのような人が増えませんように。それを願って二人はそう言葉を交わした。