6・恋人たち(ともう一組の恋人たち)
なあ、なあ、そこのお嬢ちゃん!
大変なものを売っているねえ! 藤蔓で編まれた大きなかごに、いっぱいに盛ってあるのは林檎だろう? 君はリンゴ売りなのかい? そいつは何とも罪が深い!
……おお、怒らないでくれよ。分かった、わかった、悪かった!
けれどもお嬢ちゃん、少しばかり俺の話を聞いてくれるか? そうしたら俺が何で「君にケンカを売った」のか、理由が分かると思うからさ。
……そもそもの始まりはな、神話の時代にさかのぼるんだ。
お嬢ちゃんも知ってるだろう? 昔むかしに「禁断の知恵の木の実」を食べて、天上の楽園を追い出された、アダムとイヴ……人間の始祖の話をさ。
あれはな、登場人物はアダムとイヴだけじゃない。二人を陥れた一匹の蛇と……もうひとり、「禁断の知恵の実」をつける木の精もいたんだよ。
アダムとイヴが楽園を追われた後に、蛇はするすると知恵の木の前に進み出て、喜びに黄色い瞳をきらきら光らして言ったんだ。
「ああ、木の精、愛しい知恵の実の木の精よ! やっとこうして面と向かって話せることの、何と喜ばしきことよ!
木の精よ……美しい少女の姿の写し身を持つ木の精よ。
おれはお前が愛しかった。この赤いうろこを持つ一匹の蛇、ずっと前から赤い実をつけるお前のことが好きだった。
だから本当は邪魔だったんだ、天上の神から命ぜられ、お前の『木守』をするアダムとイヴが……!」
知恵の木の精は、今は木の前で美しい少女の姿になって、じっと話を聞いている。黙って耳をかたむける少女に向かい、蛇は話し続けたんだ。
「おれはついさっき、悪魔に魂を乗っ取られた。天上の神を憎む悪魔のさしがね、おれは言葉を話せるようになって、巧みにイヴを誘惑して、お前の身になる『知恵の木の実』をアダムとイヴにかじらせたんだ。
けれども、お前、木の精よ! おれは悪魔を呪いはしない、かえって感謝をしたいくらいだ! 悪魔のおかげでおれはこうして、邪魔な木守もいなくなった今この時、こうしてお前と話せるのだから!」
木の精の少女の萌黄色の瞳から、ひとすじ、ふたすじ、涙が落ちた。蛇は困ったように、こちらも泣き出しそうに微笑って、それでも再び言葉を継いだ。
「木の精、おれはお前を愛している。
けれどもお前、俺の愛を受け取ってくれなくとも構わない。こんな俺と結ばれれば、神はきっとお前のことも赦さない。おれと結ばれたその瞬間、お前は枯れ落ちてしまうだろう……。
だから木の精、俺を罵倒してくれてもいい。俺の愛を拒んで長く生きてくれれば、おれはそれでも構わないんだ」
木の精はまたほろほろと涙をこぼして、白い指先で赤い蛇の頭に触れた。驚く蛇の頭を静かに撫でながら、木の精はこう打ち明けたんだ。
「ああ、あなた、わたしもあなたを好きでした。ずっとずっと以前から……。
そうしてあなた、わたしの方こそ、木守だったアダムとイヴを、ずっと前から邪魔だと思っていたんです。どうかしてよそに行ってもらいたいと、そればかり考えていたんです」
泣きながら微笑った木の精は、その白い腕で赤い蛇を抱き寄せたんだ。そうしてそのうろこだらけの口に、触れるばかりのキスをしたんだ。
「わたしのつける赤い木の実と同じ色、艶やかなうろこの珊瑚色……あなた、本当はわたしの方こそ……」
後は言葉にならなかった。蛇は少女の体に絡んで、絞め殺すように抱きしめて、ふたりは深いキスをしたんだ。そうして互いの体の触れ合う場所からみるみるうちに腐って、枯れて、あっという間にふたりは散らけて消えたんだ。
けれど、ふたりの魂は消えなかった。ふたりが結ばれて新たに実った赤い木の実も、世界中に散らけていった。
そうして赤い木の実はな、ふつうのリンゴみたいな顔して、さりげなくリンゴに混じって澄ましてるんだよ。ついうっかりその実をかじっちまうと、食べた人は自分でも知らぬ間に、ひどく悪い心の持ち主になっちまう……。
だから危険なんだぜ? うかつにリンゴを食べるのは!」
* * *
若い旅人は、リンゴ売りの少女に語り終え、白い歯をむいて笑ってみせた。
少女は甘く悪酔いしたような表情で、自分の抱えるかごの中身を見つめている。それからふっと顔を上げ、旅人の瞳をじっと見つめた。
人間には珍しい、蛇のような黄金色の瞳。その瞳を見つめているうち、少女の内に何とも言えない感情が、胸の奥から湧いてきた。
「……それで、どうなったの? 楽園を追われた蛇と、木の精の魂は……」
「――今、ここにいる。
何を隠そう、俺は蛇だよ。そして君こそ、その木の精の生まれ変わりだ」
怖いくらい真面目な声音で、旅人はそう少女に答えた。それから少女の表情をつくづく眺めて、あきらめたように
「と言ったら、信じるかい?」
と言い捨てて、苦笑まじりに立ち去ろうとして歩き始めた。
「待って!!」
少女は必死に呼び止めた。しがみつくようにリンゴの入ったかごを抱えて、少女は泣くような笑うような、ぐしゃぐしゃの必死な顔でこう言った。
「あたし、思い出せない……でもあなたの目を見てると、何かを思い出せそうな気がする……!」
旅人は黙って少女の萌黄色の瞳を見つめ、そっとかごの中のリンゴを骨ばった指で示してみせた。
「……神は、俺たちに試練を課した。蛇と木の精の生まれ変わり、結ばれたって構わないが、そのつど試練がいるんだと。
俺は昨日夢のお告げで知ったんだ。君が記憶を取り戻すには、リンゴをかじらなくてはならない。そのかごの中のたった一つ、見事選んでひとかじり出来れば、前世の記憶が戻るんだと。
今のままでも何だか君は幸せそうだし、俺はあきらめて立ち去ろうともしていたが……。どうだい? 選んでかじってみるかい? 俺たちの罪の林檎をさ……」
少女は長い間迷って、自分の腕の中のかごのリンゴを見つめていた。それから中でも血のように鮮やかに赤い、まろい一つを選び出した。
少女がリンゴの赤い肌を、白い歯でしゃくっと傷つける。
桃色のくちびるをかすかに濡らし、蜜がひとすじしたたり落ちた。……