カップの10(がんじがらめの「愛の呪い」)
奥へ奥へ、もっと奥へ。
少女はぬいぐるみの象に乗り、夢の奥へと急いでいた。
白襟のついた黄色いワンピースに赤い靴、長い黒髪をひらひら風になびかせて、少女は「早く! もっと早く!」と可愛い声でゾウを急かす。
奥へ奥へ、もっと奥へ!
少女には訳の分からない確信がある。
おもちゃのサイコロが塔のように組みあがり、出来損ないのコマに足と羽根のついたみたいな生き物が、ぶうんとうなって飛び回る、この変てこな夢の世界。
毎晩重ねて見続けた、この夢の世界の最奥に、自分の愛するひとがいる。
だって呼んでいるのが分かるのだ。「あのひと」は今だって何でか知らない囚われの身で、あたしの救けを待っているんだ!
さっきからぬいぐるみのゾウが、少女を背に乗せて泣いている。黒いボタンのつぶらな目から、ぽろぽろ涙をこぼしている。頭から背中にかけての白糸の縫い目はどんどんほつれて、小象のぬいぐるみには、少し要求がきつすぎるのだ。
少女はそれでもゾウを急かすのをやめはしない。小さな手のひらでぱんぱんゾウの頭を叩いて「早く! もっと早く!」と相も変わらず急かしている。
この夢を見た最初の晩には、ろくに奥まで進めなかった。
二晩目には、最初より少し奥に進めた。
三番目にはもう少し奥に、四晩目にはそれよりもっと……。そうして今夜、ようやく最初から半年目の晩、今夜こそあのひとに逢える気がする!
少女ははやる気持ちを抑えられず、また抑える気も欠片もなく、ぱんぱんとゾウの頭を叩き続ける。
「よう」
と、どこからか声が降ってきた。それに合わせて、ゾウも泣きながら足を止めた。
「――誰? あたしの邪魔をするのは!?」
少女は絵に描いたように気色ばみ、声の主をきつい目つきで探し出した。すると声はそれを馬鹿にしたように、「上だよ、上」と言葉を続けた。
声は少女とゾウのすぐとなり、ピンクと水色の巨きなサイコロが重なる上から聞こえてくる。少女がきっとなって見上げると、大きく「5」と書かれた水色のサイコロの面の上、赤い瞳が笑っていた。
充血したイチゴみたいな紅色の瞳、短く白い毛、毛のないひょろりと長いしっぽ。それは少女の体と同じくらいの大きさの、一匹のハツカネズミだった。
ネズミはくくく、とのど奥で笑い、二本の長い歯を見せた。
「よう、お嬢ちゃん。何をそんなに急いでるんだい?」
「――そんなこと訊くために呼び止めたの? 邪魔をしないで、あたしはあのひとに逢いに行くんだから!」
「あのひと? あのひとってどなただい?」
……あれ?
むしるようにゾウの耳を引っぱっていた小さな手から、知らず力が抜けていく。
あのひと。あのひとって、誰だっけ?
ふっと不安になった自分の意思をひっぱたくように、少女は噛みつきそうな目をしてネズミのことを睨みつけた。
「――誰だって良いわ、とにかくあたしの大切なひと! あたし分かってるの、あのひとは半年前の晩から、ずっとこの夢の世界の最奥で、あたしのことを待っているの! だから邪魔しないで! あたし急いでいるんだから!」
「ほうほう、へえへえ! その大事なひととやらが、君をだましているとしても?」
「……何ですって?」
少女の目から、思わず険が抜けていく。見る間に不安げな表情を見せた少女に向かい、ネズミは再び長い歯を見せて笑ってみせた。
「あのなお嬢ちゃん、あんたにこの夢を見せてるやつはな、悪魔なんだ。夢の世界でしか生きられない、とてもちんけな悪魔なんだ。
その悪魔はな、昔々に神様にいたずらをして怒られて、この夢に囚われちまったんだ。だから嬢ちゃん、特別な能力を持ったあんたに救けてもらおうってえ肝なんだ!」
「特別……? あ、あたし何も能力なんか……」
「それがあるんだよ、自分で気づいていないだけでな。
嬢ちゃん、あんたは生まれ変わるずっと前はな、天界の聖女だったんだ。けれどその聖女を一匹の悪魔がたらしこんでな、自分のオンナにしちまったんだ。
さあ神様は怒ったね! その悪魔を夢の世界でしか生きられない『夢魔』にして、その上おもちゃ箱の中みたいな、小さな夢の中の最奥に閉じこめちまったんだ!」
得意げにぺらぺらしゃべるネズミの前で、少女は凍りついたようにネズミを見上げて、そのまま動きを止めてしまった。
ぬいぐるみのゾウはぽろぽろ涙をこぼしながら、その場にべたりと座り込んだ。背中の縫い目の糸が少女の座ったスカートの下、ぼつんと切れて音を立てた。
ネズミの語りは止まらない。いかにも気持ち良さそうに、大きな声でべらべら語りを続けている。
「でも色恋沙汰ってのはすごいもんだね、なんと穢された聖女様本人が、その御力で夢魔を救いに行っちまった!
神様はどうにもしょうがなくて、二人にループの呪いをかけた。
つまりな、夢魔がいっぺん自由になっても、長い寿命が尽きて死んだら、生まれ変わった時またおんなじ呪いにかかる。そしたら生まれ変わった聖女様も、もういっぺん夢魔に求められ、前世のことを覚えていてもいなくても、愛しの彼を救いに行くっていう寸法だ……」
少女の頬から、雫が落ちる。
涙ではない。思い出せそうで思い出せない、その感覚に噴き出した玉のような汗だった。
ネズミはふっと語りやめ、いかにも馬鹿にしきったような、それでいてどこか憐れむような、そんな目をして声なく微笑った。
「……でもな、このループ地獄にも一応救いはあるんだよ。
聖女様、あんたが恋人を救うのを止めりゃあいい。
このちんけな夢の世界の最奥で、鎖につながれておねおねするままにしときゃあ良いんだ。そうしたらあんただけは救われる。昔の恋人のことなんか忘れて、ちゃんと現実の世界に生きて、あんただけを愛してくれる、まともな彼を見つけると良い!」
きっと神からの使いなのだろう。
このネズミは「前世を覚えていない自分」への使者で、最後の救いの手なのだろう。
けれども少女は、かえって決意を固めたように、そっと白い手を伸ばした。その手で思いきりゾウの耳を引っぱった。悲鳴を上げて飛び起きたゾウの頭を、少女は叩こうと手をふり上げた。
その動作を制するように、ネズミはあえて声を発した。
「本当に良いのかい、聖女様?
『あいつ』を救うと、あんたは報いに夢の世界でしか生きられらくなる。
それにあいつは浮気性だぜ? いっぺん救うとあんたのことなんかお構いなしで、夢から夢を渡り歩いて、女のけつばかり追っかけ回すぜ?
それでもあんた、良いのかい?」
少女は静かに目を閉じた。
それからゆっくり目を開いて、ネズミの赤い瞳を見上げて、黙ったままで微笑ってみせた。そうしてその手で、思いきりゾウの頭を張り飛ばした。
いかにも悲痛な叫びを上げて、小象は泣きながら走り出した。
奥へ、奥へ、もっと奥へ――。
見開いた少女の瞳からも、ぽろぽろ涙があふれ出した。
色とりどりのパステルカラーのサイコロを積み上げた塔の群れ。
コマの出来損ないに、足と羽根をつけたような生き物が、ぶうんとうなって黒い空を飛び違う。
あれからどのくらい走ったろうか。
たどり着いた夢の最奥の暗がりで、真珠サイズの満月のような瞳が二つ、こちらを見つめて微笑んだ。……