ワンドの8(蠅の女王と「救いの手」)
女王は、全てをあきらめていた。
人型の生き物は自分独りの、この王国から逃げられないとあきらめていた。
女王は遠いとおい昔、まだ自分が「ある農村の田舎娘」だった頃のことを思い出す。
あの頃は何も知らなくて、ただ両親の畑仕事の手伝いをして、土にまみれて笑っていられた。仲の良い友だちだっていた。初恋をした男の子もいた。
ただ、それはもう遠い記憶の彼方。
今の自分は「蠅の女王」だ。人間の住む時空とは少し外れた異世界で、まやかしで創られたこの王宮から、一歩も出ることはかなわない。
女王はつくづく今でも思う。
人間でもない相手に、優しくなんてするもんじゃない。
相手はたったのハエ一匹、弟が潰そうとした、食卓にたかったハエを「これも命よ」と手で追って、窓の外に逃がしたこと。
たったこれだけで、今の運命が決まってしまった。
実は相手はハエの王国の王子様で、
「我はそなたに恋をした。そなた、我の妻になれ。そうしてゆくゆくはハエの王国の女王になれ」
なんて、まるでありがちなおとぎ話!
しかも自分の現状に絶望した少女がナイフを手に、自殺しようとした時に
「この手がいけない。もう二度と同じことが出来ぬようにしてやろう!」
と白い両手まで腕の付け根から斬り落とされて……。
そしてまあ、本当に何てこと!
文字通りの「狂愛」とはいえ、確かに自分を愛してくれたハエの王子は、とっくの昔に虫の寿命で死んでしまった。
少女はハエの王子の呪いで、もうここからは出られない。ハエの王子と出逢ったままの可愛らしい少女の姿で、丸一日も、夜寝る時も、簡素な玉座に座っているだけ。
そんな女王のたった一つの楽しみは、人間界を覗き見ること。
ハエの王子と自分との子供、その子孫である「腹の光る魔法のハエ」たち。そのハエたちを人間界に派遣するのだ。
ハエたちは色々な場所で色々なシーンを見聞きし、その光景を光る腹にたっぷり貯めて帰ってくる。そのハエたちが女王の前で光をぽろぽろ吐き出すと、光は映画のワンシーンのように、ひと時の「人間界での光景」を映し出す。
ただそれを見ることだけが、哀れな女王の楽しみなのだ。
そんなある時、一匹のハエが特別な映像を腹に貯めて帰ってきた。ハエが吐き出した光は、こちらを見つめる一人の少年の映像だった。
少年はいかにも不思議そうにこちらを見つめ、意外にもこう訊ねかけた。
「……ねえ、このお腹の光るハエが見せてくれたお姉さん!
あなたは誰なの? 頭に王冠、背中に羽根が生えて、体の……体の一部が……」
少年はふっと言いよどみ、言い直して問いかけた。
「とにかく、綺麗なお姉さん! あなたは誰なの? ハエの国の女王なの?」
女王は本当にびっくりした。
こちらの方こそ彼に聞きたい、あなたは一体誰なのだろう? まさか自分とコンタクトを取れる相手が、人間界にいただなんて!
そして何故だか、妙に慕わしく懐かしい、あなたは一体誰なのだろう?
女王は嬉しさを涙に変えながら、少年に自分の事情を語った。ひとしきり例のハエに語りかけ、その映像をハエの腹の光に託した。
再び出発したハエは、しばらくして戻って来た。
映像の中の少年は、子供らしく憤慨していた。
「ひどい! 本当に信じられない!
なんて奴だろう、そのハエの国の王子ってのは!
待っててお姉さん、ぼくはあなたを救けに行くよ! 何年かかっても見つけ出す、何十年かかっても、必ずかならず救い出すよ!」
女王は嬉しさのあまり嗚咽した。涙を拭う両手もないまま、女王は再び返事をした。
「大丈夫、私はもうこの状態に慣れました。
それにここは異世界だから、あなたには辿り着けないでしょう。優しいあなたは優しいままで、もう私のことなど忘れて、綺麗なお兄さんになって、可愛いお嫁さんをもらって、一生幸せにお暮らしなさい……」
それから、もう返事は来なかった。
再び出発したハエは、二度と戻って来なかったのだ。
王子の例を見るとおり、虫の寿命は短いものだ。道中で寿命が尽きたのか、それとも誰かに潰されたのか……。
あるいは少年がもう、女王に興味を失ったのかもしれない。女王はそう考えて、やっぱりずっとあきらめていた。
* * *
それから、幾年が過ぎたろう。
相変わらず独り人間の姿をした「ハエの女王」は、孤独に侵されて寝ていることが多くなった。
昼も夜も、うとうとする意識が止まらない。
このまま自分は枯れるように、独りで死んでゆくのだろうか。ようやく死という救いが来るのか……。
そう思いながらなおもうとうとする女王の鼓膜を、思いきりドアを開ける音が気絶するほど震わした。
驚いて目を開ける女王の前に、一人の青年が立っていた。
さらさらの金髪の長髪に、夏空のような青い瞳。
すぐに分かった、あの時の幼い少年だ。少年は本当に何十年かかって、この自分を救けに来てくれたのだ。
「やっと見つけた、ぼくだけの愛しい女王様!
様々な能力を身につけて、艱難辛苦を乗り越えて、やっと見つけた女王様!
さあ、女王様、早くこちらへ! こんな王宮、二人で早く出て行きましょう!」
ハエたちが吸い寄せられるように青年の周りを飛び回り、青年も親しそうに光るハエたちに話しかける。
「おお、お前たちはこっちにおいで。ハエ嫌いの生き物たちに、潰されちゃうといけないからね……」
そう言って青年が開けた宝石をあしらった小箱の中に、光るハエたちがすいすい吸い込まれていく。
言葉を失っていた女王は、小さく誰かの名をつぶやいた。
ハエだ。ハエの王子だ。
成長して明らかになったこの見た目、瓜二つどころではない。人間の姿に化けた時の、ハエの王子そのものだ。
――ああ。あなたは、あなたは、そんなにも。
そんなにまで、私のことを……。
女王の目から、いくつもの感情が溶け込んだ、熱い涙があふれ出した。
ハエの王子。あなたは転生して、何十年もかけて、色々な辛い想いをして、そんなにまでして私を……。
女王は自分が情けなかった。
情けなくって、涙が出た。なぜって、自分の両手を斬り落とした狂愛の王子を、愛していると気づいたから。
そんなことまでされたあげく、この再会を心の底から喜んでいることに気づいたから。
「女王様、泣くのは後ですよ!
まずはこの忌まわしい王宮から、みんなで脱け出してからですよ!」
青年が晴れやかに笑って、女王の体をひょいとその手に抱き上げた。その手のしぐさも、白い指先の爪の綺麗さも、まるきり昔と一緒だった。
一緒だったから、女王の目からはまたとめどなく涙があふれた。
それから二人がどうなったのか、今となっては分からない。
どの国のどの歴史書にも、二人の名前は載っていない。
……え? 「それじゃあ旅する吟遊詩人さん、あなたはどうしてそんな話を知っているの」って?
ふふ、それはこれが作り話だからだよ。
全部ぼくの作った話、とんだでたらめ話だよ!
* * *
そう言って若い吟遊詩人は、さらさらの金髪を揺らして微笑う。
それからにこにこ微笑ったままで、旅の連れを両手に抱き上げて歩き出した。歩きながらも、機嫌良く鼻歌を歌っていた。
若い詩人の旅の連れは、両腕のない少女だった。
黒髪のボブに綺麗な顔立ち、その瞳はうっとり潤んで、詩人の青い瞳を甘酔いしたように見上げている。
詩人の話を聞いていた少年は、ぶるっと思わず身震いをして見送った。
詩人の青年の腕の中、少女はしみじみ目を閉じた。その背中に付けた「作り物」の薄い羽根が、ふるる、と震えたようにも見えた。……