スイートピー~門出~ 4
目を開けると、天井の木目を窓から差しこむ夕日が赤く染めているのが見えた。
しばらくぼんやりと見つめていると、静かな声がした。
「……どこか、痛むか? 苦しくないか?」
視線をおろすと、ベッドの足元にエッジさんが腰かけていた。
「いえ、どこも……」
ぼんやりと答えて、ようやくすべてを思い出す。
がばりと身体を起こし、思わず背中に手を当ててみるが、もちろん何もなくて、痛みもなかった。
「傷はすべて治ってる」
静かな声が胸に痛くてうつむく。
「……ありがとうございます。
申し訳ありません……」
「……なんでおまえが謝るんだよ」
「私がもっと気をつけていれば、あの人の動きを警戒していれば、怪我をすることもなくて、エッジさんにまた力を使わせてしまうこともなかったのに……」
二度とあんなつらそうな表情をさせたくなかったのに。
エッジさんは静かに言う。
「ワイリーは、性格は最低だが騎士としての強さは一流だった。
十年前にやりあった時、本気で殺すつもりだったが、当時の俺では致命傷を与えられず逃げられた。
そん時の後遺症で足をひきずってたようだが、それでもおまえが敵う相手じゃねえ」
確かに、エッジさんが敵わなかった相手に、私程度がどうにかできるはずがない。
それでも自分が情けなくてため息をついて、ふと思い出す。
「……あの人は、捕らえられたんですか?」
背中を刺されたところで意識が途切れたから、後のことはわからないが、また逃げられたのだろうか。
エッジさんはわずかに視線をそらす。
「……ああ。
アトリーが、片付けてくれた」
「え? あ、そういえば、さっき見たような……」
おぼろげな記憶の中で、エッジさんの背後にアトリー団長がいたような気がする。
「でも、アトリー団長がおいでになるのは、数日後のはずなんですが……」
「おまえを嵌めようとした指導役がワイリーの従妹で、ここに向かってると知って、馬を飛ばして追いかけてきたそうだ。
ワイリーは、おまえの実家の使用人を買収していて、そいつから俺がここにいると知り、やって来たと言っていた。
アトリーから、おまえに詫びておいてくれと伝言だ」
「そう、だったんですか……」
エッジさんを嵌めた人が、私を嵌めた人でもあったとは、嫌な縁だ。
アトリー団長が捕らえてくれたなら、今度こそ正式な裁きを受けさせられるだろうか。
「アトリー団長は、まだいらっしゃるんですか?」
「いや。もう帰った」
「そうですか。
話は、なさったんですか?」
「……ああ。
たまには顔見せろと言われた」
そう言うエッジさんは柔らかな表情で、ほっとする。
「……コディ」
「はい」
エッジさんはじっと私を見つめ、静かに言った。
「前に、俺を護衛に雇ってくれと言ったが、あの言葉は取り消す」
「え」
「俺がそばにいた方が、おまえを危険なめにあわせちまう」
「そんな、ことありません」
「そうなんだよ。
……だから、悪いがここで別れよう」
「……っ」
嫌だと言いたくて、だが言えなかった。
強く唇を噛んでうつむく。
私はエッジさんと比べものにならないぐらい弱くて、足手まといになってしまう。
私が死にかけるたびに、きっとエッジさんは魔法を使ってくれる。
また苦しい想いをさせてしまう。
それでも一緒にいたいと、そばにいてほしいとは、言えなかった。
「……今まで世話になったな。
ありがとう」
別れの言葉に、びくりとして顔を上げる。
「もう行ってしまわれるんですか?」
「……ここにいる理由ねえのに、世話になるわけにゃいかえねだろ」
「そんな……もう日が落ちます。
せめて今夜はここに泊まって、出発は明日の朝にしてください。
お願いします」
すがるように見つめると、エッジさんはしばらく迷う表情をしたが、やがて小さく息をついてうなずいた。
「……わーった。
もう一晩だけ、世話になる」
☆☆☆☆☆☆☆
血まみれの私を見て卒倒したばあやは、しばらくして気がついたものの寝込んでしまったから、夕食は私が作った。
エッジさんと二人で黙々と食べる。
食べ終わると、エッジさんはすぐに客間に行ってしまった。
片付けはすると執事のじいやが言ってくれたから任せて、自分の部屋に向かう。
実家から送った荷物の中から目的のものを出して、エッジさんがいる客間に向かった。
軽く扉を叩くと、すぐに開く。
「すみません、ちょっとよろしいでしょうか」
「……ああ」
部屋に入ると、ベッドの足下に荷造り途中の荷物があった。
旅慣れているエッジさんは、荷物は最低限しか持っていない。
すぐにも行ってしまいそうな身軽さが、なぜか哀しかった。
「……これ、受け取ってください」
手にしていた革袋を差し出すと、エッジさんは訝し気な表情で受け取って中を見る。
「アヤさんの家に案内してもらった分と、ここまでついてきてもらった分です」
最初の約束の残金として金貨十九枚と、王都までの分として同じ額を追加しておいた。
「……いらねえ」
「ですが、無事行って帰ってこれたのは、エッジさんのおかげですから」
「……『無事』じゃ、なかっただろ」
エッジさんは硬い声で言って革袋の口を閉じ、私の手に押しつける。
「一歩間違えばおまえは死んでた。
だからこの金は受け取れねえ」
「でも、私は生きてます。
エッジさんが助けてくれたからです。
だから、受け取ってください」
「……いらねえ」
エッジさんは目をそらす。
拒絶するような横顔を見つめていると、ふいに胸が苦しくなった。
うつむいて、ぎゅっと胸元を握りしめる。
それでも苦しくて、視界がぼんやりと歪む。
手から力が抜けて、革袋が足下に落ちた。
「……どうした?」
エッジさんのとまどうような問いかけに、答えようとして、だが込み上げたものが喉に詰まり、声にならない。
「…………っ」
十二歳で父の屋敷に連れていかれた次の日から、私は泣けなくなった。
一晩中泣いて泣いて泣き続けても、母の元に帰してもらえなかったから。
目が腫れるほどに泣きながら訴えても、何も変わらない、変えられないと、思い知らされたから。
母が死んだと知った時、ものすごく哀しかったが、涙は出なかった。
なのに、今になって、どうして。
自分でもわからなくて、止められない。
「……泣くな」
困ったような声に、ぎゅっと唇を噛みしめて嗚咽をこらえる。
こどもみたいに泣いて、呆れられた。
これ以上嫌われたくない。
「ぅ……っ」
なのに、血の味がするほど強く力を入れても、込み上げるものを抑えきれない。
「ご、め……っ」
「泣くな……」
伸びてきた腕にそっと抱きしめられて、息が止まった。
ぎこちない動きで、ゆっくりと背中を撫でられる。
その優しさが嬉しくて、よけい涙があふれてきた。
「ごめん、なさい……っ」
「……何がだ?」
「私……弱いから、足手まといになってばかりで、また、死にかけて、また、エッジさんに、魔法を使わせて、つらい想い、させて……っ。
ごめんなさい……っ」
「おまえが謝ることじゃねえ。
俺が勝手にやったことだ」
「違う、エッジさんは優しいから、私を見捨てられなかっただけだ。
ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
「謝らなくていい。
確かに昔は恨むことしかできなかったが、今は、感謝してるんだ」
「……え……?」
おそるおそる顔を上げると、エッジさんは柔らかなまなざしで私を見ていた。
「魔法があったから、おまえを死なせずにすんだ。
だから、もう謝るな」
腕を緩め、頬をつたう涙をそっと拭ってくれる。
「……でも……昔さんざん嫌な想いをしたのに……」
『狂えた方が楽だっただろうな』と言うほどに、苦しくつらい体験だったはずだ。
なのに、出会ってから二十日あまりで、それを思い出させるようなことを二回もさせてしまった。
「確かに昔は嫌だった。
だが……おまえとは、嫌じゃなかった。
何年もやらされたから、魔法の発動と共にそういう反応しちまうし、魔法を使ってる間は割り切って相手に触れられる。
だが、普段は触れるのも触れられるのも苦手で、近づかれることすら避けていた。
……なのに、おまえだけは違った。
ごく自然に近くにいて、それが平気、いや心地よかった。
自分から触れたいと思ったのは、おまえが初めてだ。
だから、気にするな」
「…………」
頬を撫でる手は優しく、まっすぐなまなざしは嘘をついているようには見えず、かえって苦しくなった。
「……慰めてくれなくてもいいんです」
「慰めなんかじゃねえ。
本当のことだ」
「……そんなはずない。
だって……」
「なんだ?」
「…………」
あの時の、泣きそうな表情が脳裏に浮かぶ。
「……魔法を使う時、エッジさん、すごくつらそうな顔してた……」
「……それは、おまえに申し訳ねえと思ったからだ」
「……私……?」
何のことかわからず首をかしげると、エッジさんは沈痛な表情でうなずく。
「そうだ。
一度目はともかく、二度目は、何をするかわかってただろ。
おまえはすぐ気を失っちまうから実感がねえだけで、俺がおまえにしたことは、おまえを……穢すことだ。
本来なら、おまえに叩き切られても文句を言えねえようなことなんだ。
だから俺は、おまえと一緒にはいられねえ、いや、いちゃいけねえんだ」
私に言い聞かせるように耳元で囁いて、エッジさんは腕をとき、身体を離した。
その表情は、すごく静かなのに、なぜか哀しみをこらえているように見えた。
「違う、私は……っ」
エッジさんを苦しめたいんじゃない。
そんな顔をさせたいんじゃない。
この胸で渦巻く想いを、どうすれば伝えられるのだろう。
わけのわからない衝動に突き動かされて、手を伸ばす。
エッジさんの肩に手をかけ、背伸びをしながら、薄い唇に自分の唇を押し当てた。
エッジさんは目を見開きながらも、私を受けとめてくれる。
唇に触れた無精髭のちくりとした感触に、我に返った。
私、いま。
エッジさんに。
キス、を。
「ごめんなさいっ!!」
血が沸騰したと思うほど、全身が熱くなる。
身体を引きはがして後ずさりすると、何かを踏みつけた。
「ぁっ」
「コディ!」
金貨が入った革袋を踏んで足が滑り、ぐらりと身体が傾いで、ベッドの足下の柱に頭がぶつかりそうになる。
その直前、ぐいっと腕を掴んで引き寄せられる。
頭をかばうように抱えこまれて、ベッドに倒れこんだ。
「大丈夫か」
耳元で囁く心配そうな声が、かえってつらい。
「ごめん、なさい……」
恥ずかしくて、情けなくて、両手で顔を覆う。
気持ちがぐちゃぐちゃで、何も考えられない。
止まっていた涙が再びじわりとにじむ。
「ごめんなさい……」
「……コディ」
静かな声で名を呼ばれる。
それでも動けずにいると、髪に手が触れた。
何度も何度も撫でられる。
大きな手が、柔らかく身体を抱きしめる腕が、触れあった身体のぬくもりが、言葉よりも明確に優しさを伝えてくれる。
身体から力が抜けて、深く息を吐いた。
「……おちついたか」
「……はい……」
「手、どけろ」
「…………」
ゆっくりと手をどけ、袖で顔を拭う。
おそるおそる顔を上げると、エッジさんは優しいまなざしで私を見ていた。
その優しさが嬉しくて哀しくて、目を伏せる。
「……ごめんなさい」
「謝るな。
嫌じゃなかったから」
「嘘だ……」
「嘘じゃねえ。本当だ」
「……けど、私、無理やり……」
「違う。
……避けようと思えば避けられた」
「え?」
顔を上げると、目の前をふっと影がよぎって、唇の端に一瞬だけ何かが触れた。
「無理やりってのは、こういうのを言うんだよ」
「…………」
確かに今の動きが出来るなら、私のキスをかわすことぐらい出来ただろう。
そう納得はできたが、なぜ避けなかったのかはわからなかった。
「……どうして、避けなかったんですか?」
「言ったろ。嫌じゃなかったからだ。
……おまえは、どうして俺にしたんだ?」
「……わかりません。
勝手に、身体が動いて……」
どうしてなのか、自分でもわからない。
「……今、俺もおまえに同じ事をした。
どう思った?」
「……早すぎて、よくわかりませんでした」
正直に答えると、エッジさんは目元を緩ませる。
「嫌じゃなかったなら、よかった」
優しいまなざしと声に、よけい困惑する。
「……エッジさん」
「なんだ?」
「私……エッジさんと出会ってからまだ二十日ぐらいしか経ってなくて、だけどずっと一緒にいて、すごく楽しくて、だからこれからもずっと一緒にいたいと思ったんです」
「……ああ」
「だけど……私、弱いから。
足手まといになるだけじゃなくて、使いたくない魔法まで使わせてしまって……申し訳なくて……」
「おまえを足手まといだと思ったことはねえ。
魔法を使ったのは俺の勝手だ。
だが、使わねえで済むならいいとは思う」
切ない声に、思わずうつむいた。
「ごめんなさい……」
「……誤解すんな」
優しい手が頬を撫でてくれる。
「俺が魔法を使うってことは、おまえが傷ついてるってことだ。
そうならねえ方がいいに決まってるだろ」
静かに言って、エッジさんは苦しげな息をつく。
「……だが、もしもまた同じような状況になったら、俺はまた魔法を使うだろう。
おまえを死なせたくねえ。
その為ならなんだってする。
たとえおまえが望まなくても。
……俺を憎んだとしても」
「憎むなんて、そんなこと、ありえません。
だって私は」
言いかけて、それがすべての答えだったのだと、ようやく気づく。
「……そう、か……そうだったんだ……」
「……なんだ?」
訝し気なエッジさんを見つめて、にこりと笑う。
「私は、エッジさんが、好きだから」
好きだから、哀しそうな顔をさせたくなかった。
好きだから、大好きな母にそうしていたように、キスして気持ちを伝えたかったのだ。
エッジさんは目を見開いて私を見た。
あまりにもまじまじと見つめられてとまどう。
理由に思い至って、ぎゅっと胸の奥が痛くなった。
「……すみません、迷惑、ですよね……」
私がエッジさんを好きでも、エッジさんは私を好きなわけじゃない。
「……いや」
エッジさんはゆっくりと首を横に振る。
「俺も、おまえが好きだ」
思いがけない言葉に、驚いて見上げる。
「……本当に?」
「ああ。
……今まで誰かを好きになったことなんてなかったから、わからなかったんだ。
これが、『好き』という気持ちなのか」
噛みしめるように言って、エッジさんは私を見つめて囁く。
「おまえといると楽しいと思う。
おまえを守りたいと思う。
おまえを死なせたくないと思う。
離れなければと思うのに、そばにいたくなる。
穢したくないと思うのに、触れたくなる」
目を伏せてわずかに苦笑する。
「……アトリーが言ってたのは、こういうことか」
「え?」
「アトリーに言われたんだ。
『もしも私が目の前で死にかけてたとしたら、魔法を使うか?』と。
俺は、『わからねえ』と答えた。
そしたら、『なぜコディには使ったのか、その違いを考えろ』と言われた。
……やっとわかった。
おまえが、好きだからだ」
「……ありがとうございます……」
優しい言葉が嬉しくて、思わず笑うと、エッジさんも優しく微笑んでくれたが、何かを思い出したように瞬きする。
「……そういや、おまえに謝らなきゃいけねえことがある」
「え?」
「俺がおまえの真名を知ってたのは、アンとおまえが魔法を使ってる時の声が聞こえたからなんだ。
盗み聞きしようとしたわけじゃねえが、結果としてはそうなった。
……悪かった」
言われて初めて、エッジさんが教えていないのに私の真名を知っていたことを思い出す。
あの時、エッジさんは私達に遠慮して家の中に入っていた。
それでも聞こえたのなら、風向きか何かのせいで、エッジさんが悪いわけじゃない。
「いえ……気にしないでください」
エッジさんはゆっくりと腕をとき、私を見つめる。
「俺の真名は、エドワード・シンプソンだ。
おまえの真名を教えてくれるか?」
「……?」
知っているはずなのになぜ、と思って気づく。
真名は人の本質を示すと言われ、本来は家族にすら教えないほど大事なものだ。
だから、真名を教えること自体が、愛の証だとされていた。
「……コーデリア・トレヴァーです」
「コディ。おまえが好きだ」
囁きと共に、優しくキスされる。
「私も、エッジさんが好きです」
触れるだけのキスを返すと、エッジさんはあたたかく笑ってくれた。