ハーデンベルギア~運命的な出会い~ 2
翌朝、ノックの音で目が覚めた。
エッジさんだろうか。
「おはようございます」
あわてて起きてドアを開けると、屋内なのにフードをかぶったままのエッジさんから呆れたような視線を感じた。
「……相手を確かめてから開けろと言っただろうが。
ここで待ってるから、身支度が終わったら呼べ」
「あ、そうでした。すみません。ちょっと待っててくださいね」
昨夜忠告されたのに、すっかり忘れていた。
早口で答えてごまかして、いったんドアを閉める。
まずは弱くしてあったランプの火を大きくしてから、急いで身支度をした。
「よし」
最後に全身を見回して問題がないか確認してから、ドアを開ける。
エッジさんは、向かいの壁にもたれるようにして立っていた。
「お待たせしました」
他の部屋の人を起こさないよう小声で言うと、エッジさんは小さくうなずいて足下の荷物を持ち、私の部屋に入ってきた。
ドアを閉めてから、荷物の片方を差し出される。
「これがおまえの分だ。持てるか」
「ちょっと待ってくださいね」
大きめのリュックは、ぎっしり物が詰まっているように膨らんでいて、片手では持ち上げられないほど重い。
背負っていた自分のリュックをいったんおろしてベッドに置き、渡された方を背負ってみる。
やはり重いが、入れ方が上手なのか背中はごつごつしないし、紐が幅広だから食い込む感じはない。
「大丈夫そうです」
「なら、自分のはその中に入れろ。
水袋は剣と反対側に吊るせ」
「はい」
リュックをおろして上部のフタを開けて中を見ると、少し隙間があった。
自分のリュックを丸めて入れてみると、ぴったりおさまる。
おそらく、エッジさんがそうなるように考えて荷造りしてくれたのだろう。
「剣と水袋は、どんな時でも手放すなよ」
「わかりました」
リュックを背負い直し、水袋を剣帯に付けて位置を調整し、マントを整える。
背中が膨らんで不格好だろうが、仕方ない。
「準備できました」
「ん。行くぞ」
うなずいたエッジさんは、私に渡したものより大きなリュックを背負う。
マントの形が違うのか、背後から見ても大荷物だとはわからない。
「そのマント、いいですね」
思わず言うと、ドアを開けたエッジさんはわずかに振り向いたが、何も言わず出ていった。
また呆れられてしまったようだが、無反応よりは嬉しくて、緩みそうになる口元を引き締めながらランプと鍵を取り、ドアを出る。
出る時は鍵を掛けなくていいと昨夜店主に言われたから、そのままエッジさんに続いて階段を降りた。
一階の酒場には誰もおらず、カウンターの奥から店主が顔を出す。
「おう、すぐメシ食うのか」
「ああ」
「おはようございます。お願いします」
「あいよ。そこに座ってろ」
「はい」
顎で示されたカウンターの真ん中の席に座り、横にランプと鍵を置く。
エッジさんは、席を一つ空けて座った。
「あ、すみません私、ちょっとトイレに行ってきますね」
異性に言うには多少の気恥ずかしさがあるが、これから数日共に旅をするのだから、遠慮してはいられない。
「……ああ。リュックは置いてけ」
「はい」
昨夜も行ったから、場所はわかっている。
さっさと済ませて戻ると、もう朝食が並べられていた。
分厚く切って焼いたベーコン、まるごと蒸したじゃがいもにバターをひとかけら載せたもの、それに昨日と同じ黒パン一つに水のコップが添えられていた。
「パンとじゃがいもはおかわりがある。どっちも銅貨一枚だ」
「ありがとうございます」
食前の祈りを簡単に済ませ、黙々と食べる。
「ごちそうさま。おかわりはいいです。お待たせしました」
私は食べるのが早いとよく言われるが、やはり男性にはかなわないのか、エッジさんは私より先に食べ終えていた。
「いや。行くぞ」
「はい。店主さん、お世話になりました」
「おう。また来な」
店主に挨拶してから、エッジさんに続いて宿を出た。
昇りかけの朝日がまぶしくて、目を細める。
春とはいえ早朝の空気は冷たいが、朝日に清められた感じがして気持ちがいい。
大きく深呼吸してから、エッジさんに向き直る。
「エッジさん、これから旅の間よろしくお願いします。
足手まといにならないよう気をつけますが、気になったことがあったら、すぐ言ってください」
改めて言って騎士の礼をすると、なぜかため息をつかれた。
「……おまえは雇い主だ。俺にへりくだる必要はねえ」
「そうですけど、後払いですし」
昨夜相談した時に、『前金として金貨一枚、残りはここに戻ってきてからでいい』と言われたのだ。
報酬を払ってないから気分的に対等と思えないし、それを抜きにしても年上相手に気軽に接することはできない。
「あの、やっぱり半額だけでも受け取ってもらえませんか?」
「……危険が多い行程だから、成功報酬でいいと言ったろ。
出発するぞ。
まずは俺のペースで歩く。
付いてこれねえようなら早いめに言え」
「あ、はい」
会話を打ち切るように言って、エッジさんが歩き出したから、あわてて後を追う。
「昨夜も言ったが、二日目の朝までは街道沿いだから、特に危険はねえ。
だが、油断はするなよ」
「はい」
黙々と歩くエッジさんの三歩ほど後ろをついていく。
今までずっと一人だったから、会話がなくても連れがいるのは嬉しかった。
村を抜けて街道をしばらく進んだあたりで、エッジさんがふいに足を止めた。
「いつまで付いてくるつもりだ」
「え……?」
驚いてあたりを見回すと、昨夜の傭兵風の戦斧を背負った男がエッジさんの前方に現れた。
同じような風体の男がその横に三人、私の背後にも二人現れる。
「気づいてやがったのか」
「当たり前だ。
何の用だ」
「決まってんだろ。
おまえぶちのめして、ついでにそっちの小僧から金をいただくのさ。
なあに心配はいらねえよ。
二人まとめて森に埋めてやっから、あの世へと仲良く旅するんだな」
戦斧の男がにやりと笑うと、エッジさんはちらりと私を振り向く。
「後ろの二人は任せる」
「……はい」
「おいおいやる気か?
こう見えても俺は」
その言葉の途中で、エッジさんが動いた。
一瞬で距離を詰めると、戦斧の男の膝を踏み台にしてその顎を膝で蹴り上げる。
大荷物を背負ったままとは思えない、軽やかな動きだった。
「ぐへぇっ!」
「なっ!?」
動揺した男達の隙をついて、なんとか二人を倒した時には、エッジさんは四人全員倒し終わっていた。
「まあまあやるじゃねえか」
淡々と言われて、息を整えながら苦笑する。
「エ、あなたも、強いですね」
幼い王女殿下の前で無暗に血を流さぬようにと、素手での格闘術は剣術と同じぐらい訓練させられた。
元々身体を動かすことは好きだったし、剣術より格闘術の方が筋がいいと団長にお褒めの言葉をもらったことがある。
おかげで、この旅の間に何度か襲われても、毎回無傷で勝てた。
それでも、エッジさんは私よりも確実に強いと、一目で理解できた。
しっかり観察する余裕はなかったが、団長に匹敵するレベルかもしれない。
「……この人達は、どうしましょうか」
無傷で勝てても、その後の処理にいつも困る。
地面に倒れた男達をそのままにしておくと、また誰か襲われるかもしれないし、動けない彼らが野生の獣や他の盗賊に襲われるかもしれない。
助ける義理はないが、見殺しにするのも、野放しにするのも、後味が悪い。
今までは近場の町か村に連れていって任せていたが、今回はエッジさんと一緒だから、勝手なことはできない。
「ほっとけ」
やはり、エッジさんは放置する気のようだ。
旅の間はエッジさんの指示に従うと約束したし、先を急ぐ身だから、仕方ない。
「はい」
うなずいて、歩き出したエッジさんの後を追った。
その後は何事もなく進み、携帯食糧の昼食を取り、また歩く。
日が傾きだした頃から枯れ枝を集めつつ歩き、日が落ちる直前にたどりついた休憩所で夜を過ごすことになった。
街道には一定の距離ごとに休憩所が作られている。
休憩所は二種類あり、馬車の旅人用はだだっ広い空き地で、徒歩の旅人用は石造りの建物だ。
三方を囲む壁と屋根があり、雨風をしのぐことができる。
居合わせた旅人同士で情報交換をすることもあるが、この場所には私達二人だけだった。
近くにあった水場で水袋に水を汲み直し、エッジさんが荷物から出した鍋に水を汲んで戻る。
焚火用の床の窪みに枯れ枝を積み上げて火を付け、鍋を載せると、エッジさんが干した野菜と肉のスープを作ってくれた。
木の深皿に入れられたスープに日持ちするよう固く焼きしめた黒パンを入れて、ふやかしながら食べる。
味付けは干し肉の塩気だけだが、野営なら暖かいだけで御馳走だ。
黙々と食べ終えて、鍋と食器を片付け、壁にもたれるように座ってぼんやりと火を見つめる。
焚火を挟んで向かい側に座るエッジさんは、他に誰もいないせいかフードをおろしているが、感情の見えない顔立ちは、まるで石像のようだ。
風の音と、薪が時折爆ぜる音しか聞こえないから、この世界に自分しかいないように思えてくる。
「アンさんは、こんなところにたった一人で住んでいて、寂しくないんでしょうか」
半ばひとりごとのように言うと、エッジさんが答える。
「逆だ。あいつは一人でいたいから、この森に住んでるんだ」
「でも、エッジさんは彼女と親しくしてるんでしょう?」
「親しいってほどじゃねえよ。
何度かあいつへの荷物を運んでるうちに顔なじみにはなったが、その程度だ。
……あいつは、決して自分の内に他人を入れようとはしねえ。
常に【独り】だ」
そう語る声は静かで、エッジさんもそうなのだろうかとぼんやり思う。
「……誰もいないところで【独り】なのと、大勢の中で【独り】なのは、どっちが寂しいんでしょうね」
呼ぶ相手がいない孤独と、呼んでも無視される孤独と。
私は、無視されることの方がつらかった。
それでも、騎士を辞めることはできない。
父に従うことでしか、護れないものがあるから。
「……疲れたか」
静かな声に我に返って、笑みを作る。
「いえ。大丈夫です」
エッジさんは、そっけないように見えて、さりげない気遣いをしてくれる人だ。
一緒にいても、沈黙がつらくない。
「……明日も、夜明けと共に起きて出発だ。
火の番は俺がするから、おまえはさっさと寝ろ」
「はい」
☆☆☆☆☆☆☆
目を開けると、夜明け前の淡い光が休憩所の入口から差し込んでいた。
軽く伸びをして起き上がる。
エッジさんは、マントを着たまま壁にもたれて座った姿勢で、剣を抱いて眠っていた。
毛布代わりにしていたマントをたたみ、荷物の中から出した小さな革袋とタオルを手に休憩所を出る。
水場の泉に向かい、顔を洗ってタオルで拭いた。
ふと足元を見ると、小さな薄黄色の花をつけた草が生えていた。
セリ科のようだが、葉の形が少し違う。
しゃがんでじっくりと観察しながら、革袋から出した手帳にその姿をスケッチする。
「何やってる」
ふいに聞こえた声に驚いて振り向くと、エッジさんがすぐ後ろに立っていた。
「お、おはようございます」
「……ああ」
近寄ってきたエッジさんは手にしていた水筒に水を汲み、顔を洗う。
「何やってたんだ」
再びの問いに、手にしていた手帳を軽くかざす。
「スケッチをしてました。
この草の名前、知ってますか?」
「……このあたりじゃミズバセリと呼んでるな。
水場の近くに生えてる」
「ありがとうございます」
スケッチの下に名前を書き加えて、閉じようとしたところをひょいと取りあげられた。
「あ」
ぱらぱらとめくったエッジさんはちらりと私を見る。
「全部植物の写生か」
「……はい」
返された手帳を革袋にしまいこむ。
休憩所に戻り、朝食を取って、出発した。
「私は、こどもの頃から植物が好きで、植物学者になりたかったんです」
街道を歩きながら、ぽつぽつと語る。
エッジさんは黙って聞いてくれた。
「私の父は貴族で、それなりに名門の家柄です。
長男が生まれて数年後に妻が病死したので、私の母が後妻になりました。
母は父より身分が下でしたが、実家の領地で金鉱山が見つかったので、縁をつなぐ為の強引な縁談だったそうです。
翌年に私が生まれたんですが、難産だったそうで、母は体調を崩し、もうこどもが望めない身体になってしまいました。
それを理由に離縁され、慰謝料がわりに与えられた保養地の小さな屋敷に私と共に移り住みました。
私にとって、生まれた時からいない父親なんてどうでもよくて、母が私を愛してくれていれば十分でした。
両親共に貴族だとは教わってましたが、自分には関係ないことで、植物学者になりたいと思ってました。
母は寝込むことが多かったんですが、母方の祖母が私と母に残してくれた遺産のおかげで働く必要はなくて、母と数人の使用人と共に慎ましく暮らしてました。
貴族の令嬢はドレスを欲しがるのに、植物図鑑を欲しがる私は変わり者だと、母にもばあやにも言われましたけど、それでも私は幸せでした。
私達が住む保養地は自然豊かで、貴重な植物がたくさんあったから、大人になったらそれらをまとめた図鑑を作りたいと思っていました」
懐かしい風景が思い浮かんで、せつなさに胸が詰まる。
「……でも、十二歳になってすぐのある日、父から突然迎えが来て王都の屋敷に連れていかれて、『近衛騎士になれ』と命じられました。
私より五歳下の王女殿下の為に白百合騎士団が結成されることになったから、その一員に私を押しこんで、王族と顔をつなげようとしたんです。
『断ったらあの屋敷を取りあげる』と言われて、母や使用人達を守る為には拒めなくて、そのまま父の屋敷に軟禁状態で住まわされて、様々なことを学ばされました。
病弱だった母は、私と離されたことで気が弱ったのか、その一年後に死んでしまったけど、私は、それを知らないまま、十七歳で入団試験を受けて、父が権力でゴリ押ししたせいで合格しました。
騎士団の寮に入ってようやく父の監視がなくなって、保養地の屋敷に残っていたばあやと手紙のやりとりをして、その時初めて、母が死んだことを知ったんです」
あの瞬間の絶望と悲しみは、一年経ってもまだ癒えない。
思い出しただけで胸の奥が痛んで、マントの上からそっと胸元を押さえる。
「……騎士になる理由はなくなったけど、屋敷と母の墓を守ってくれているばあや達の為に、逃げ出すことはできませんでした。
でも、元々貴族としての教育を受けてない私は、正式に白百合騎士団の一員になっても、同期にも先輩にもなじめなくて、アトリー団長には叱られてばかりです。
だからよけいに、植物学者になりたいという夢が捨てられずにいたので、今回の旅で知らない植物を見かけるたびに、ついスケッチしてしまうんです……」
無駄なことだとわかっていても、やめられずにいる。
スケッチしている間だけは、すべてを忘れていられるから。
深く息をついて苦笑する。
「……すみません。
愚痴を聞かせてしまいました」
「……いや」
短い返答は、そっけないのに、なぜか優しく聞こえた。
☆☆☆☆☆☆☆
二日目の夜明け前、昨日と同じように目が覚めた。
今日も私達しかいないから、人目を気にせず大きく伸びをして立ち上がる。
森の奥に進んできているせいか、建物の中なのに空気が冷たい。
街道を歩いている時も、休憩所でも他の旅人に会わないのは、このあたりを徒歩で旅するにはまだ寒い時期だからだろう。
吐いた息がわずかに白かった。
昨日と同じ姿勢で眠るエッジさんが寒そうに見えて、自分のマントをそっとその身体にかけ、革袋とタオルを手に休憩所を出た。
近くの小川で顔を洗い、軽く伸びをして身体を動かす。
ふと気づくと、エッジさんが背後で木にもたれて私を見ていた。
「あ、おはようございます」
「……ああ」
近寄ってきたエッジさんは、妙に複雑そうな表情をしていた。
「……あのマント、いつかけたんだ」
「え、ああ、さっき起きた時です。
寒そうに見えたので……すみません、そのせいで起こしてしまったんでしょうか」
「……いや」
エッジさんはゆっくりと首を横に振る。
「……気づかなかった」
じっと私を見つめる表情は、どこかとまどっているように見えた。
「……気づかなかったんだ」
繰り返されて首をかしげる。
「……俺は、気配には敏感な方でな。
たとえ眠ってても、近づかれりゃわかる。
マントをかけるぐらい近づかれて気づかねえなんてことは、今まで一度もなかった」
「……はあ」
「昨日の朝も今朝も、おまえが起きたのも気づかなかったんだ」
「……すみません」
なんとなく悪い気がして謝ると、エッジさんはかすかに笑う。
「おまえが謝ることじゃねえよ。
だが……不思議だな。
おまえの気配はひどく穏やかで、気にならねえ」
「えっと……」
気配と言われても、自分ではよくわからない。
「妙なこと言って悪かった。
気にしないでくれ」
「……はい」
朝食を取り、いよいよ街道を逸れて森の奥に入っていく。
高く生い茂った木々に光が遮られ、朝だというのに薄暗い。
磁石もきかない迷い森だが、案内人をやっているだけあって、エッジさんにははっきり方向がわかっているようだ。
踏み分け道もないようなところを、迷いのない足取りで進んでいく。
さすがに視界が悪いのかフードをおろしているから、淡い灰色の髪が日差しに輝いて見えてきれいだと思いつつも、その背を見失わないようについていくのがせいいっぱいだった。
昼食を取ってまたしばらく進んだ頃、ふいにエッジさんが硬い声でつぶやいた。
「まずいな」
「なんですか?」
「灰色狼の集団が近くにいる。
……俺らに気づいてる。
あいつらは獰猛だ。
骨まで食いつくされるぞ」
淡々と言われてぞっとする。
「どうすれば、いいんですか」
「とにかく急ぐぞ。
アンの家までもう少しだ」
「はい」
速足で進んでいると、ふいに遠吠えが聞こえた。
びくりとしてそちらの方向を見るが、姿までは見えない。
だがだんだん声が近づいてくる。
「走るぞ」
「はいっ」
木立の中を駆ける。
エッジさんは身軽にかわしていくが、突き出た枝や根に気をとられて、次第に離されていく。
「わ……っ!」
根につまづいて膝をついた。
エッジさんが足を止めてふりむく。
「大丈夫か」
「は、い」
立ち上がろうとするが、マントの端が枝にひっかかった。
ひっぱるが深くからんでいるのか、なかなか外せない。
「……囲まれたか」
エッジさんが私のそばに駆け戻ってきて、剣を抜く。
「向かってきた奴はためらわずに殺せ。
急所は眉間か首筋だ」
「……はい」
マントが破れるのもかまわず引っ張って外し、剣を抜いて、再び走り出す。
低いうなり声や荒い息遣いが、徐々に近づいてくる。
焦りながらエッジさんの背を追っていて、再び根につまづいた。
「あ……っ」
体勢を崩した途端、背後から三頭が一気に飛びかかってきた。
なんとか身体をひねって転がって、鋭い牙や爪を避ける。
「コディ!」
私に駆け寄ろうとしたエッジさんにも数頭が飛びかかる。
幹に手をついて身体を起こそうとしたが、背中に飛びつかれて再び姿勢を崩した。
「く……っ」
腰をねじって仰向けに転がり、離れた狼に向かって剣をふるうと、脇腹に当たって、ギャンっと悲鳴をあげる。
だが木立が密集しているせいで剣がふりぬけず、幹に当たってはじかれて手から落ちた。
「あっ」
あわてて身体を起こして剣を拾おうとしたが、その隙に飛びかかられて、胸にのしかかられる。
顔に生臭い息がかかり、がばりと開かれた口から鋭い牙が妙にはっきりと見えた。
「やめろっ!!」
鋭い声と共に、冷たい風のような気配が叩きつけられて身体がすくむ。
心まで凍りつきそうな、険しい殺気だった。
ざあっと音をたてて、周囲の木々から鳥が飛び立つ。
悲鳴をあげた狼達は、尻尾を丸めて逃げていった。
「…………」
呆然としていると、エッジさんが近寄ってきた。
「立てるか」
言葉とともに目の前に手を差し出され、ようやく我に返る。
「……はい」
その手につかまって、ゆっくりと立ち上がる。
あたりを見回すと、数頭の狼の死骸が転がっていた。
すべて一撃で眉間を割られている。
鮮やかな切り口だった。
血糊を拭いて剣をおさめたエッジさんは、私の剣を拾って差し出してくれる。
「ん」
「ありがとうございます……」
受け取って鞘におさめる。
腕が痛んで目をやると、コートの袖が裂けて血がにじんでいた。
「爪にやられたな」
エッジさんがくいっと私の腕をひきよせた。
顔を近づけて、傷口に舌を這わせる。
血を吸いあげられる感覚に、どくんと鼓動がはねた。
「あ、の、大丈夫ですから」
腕を引こうとするが、離してもらえない。
血を吐き捨てたエッジさんは、軽く私をにらむ。
「獣の爪にやられた傷は化膿しやすいんだ。
おとなしくしてろ」
「…………っ」
何度も舌を這わせ、丁寧に血を吸い出す。
少し冷たい唇と少し熱い舌の感触がひどく気になって、思わず強く目を閉じた。
こどもの頃、木から落ちて怪我をした時に同じようなことをばあやにされたことがあるのに、その時よりもなぜだかひどく気恥ずかしかった。
「……痛かったか」
ようやく解放されて、ほっと息をつくと、淡々と問われる。
「あ、いえ……」
気恥ずかしかっただけだと正直に言うのは更に恥ずかしくて、言葉を濁す。
エッジさんは、どこかから取り出した布を手早く傷に巻きつけて、結んでくれる。
「とりあえずこんなもんだな。
ちゃんとした手当ては、アンの家に着いてからだ」
「はい。ありがとうございます」
「いや……行くぞ」
「はい」
危険が去ったせいか、普通のペースで歩く背をしばらく見つめながら歩いて、おそるおそる問いかけた。
「あの……さっき、狼を追いはらった時、何をなさったんですか?」
エッジさんは振り向かないまま答える。
「何をしたように見えた?」
「……殺気を、放ったように見えました」
「ああ。それだけだ」
あっさりと答えられて、言葉に詰まる。
獰猛な野生の獣でさえ追いはらうほどの、冷たく鋭い殺気。
どれほどの修羅場をくぐりぬければ、そんなものが身につくのだろう。
「……助けていただいて、ありがとうございました」
エッジさん自身は、まったく怪我をしていない。
あれは私を助けるためだけの行動だったのだ。
エッジさんはちらりと私を振り向いて、わずかに苦笑する。
「……先に言っとく。
アンに会えたとしても、機嫌悪いぞ」
「え……? どうしてですか?」
「あれをやると、獣どもを追っぱらうにはいいんだが、アンが飼ってる鳥まで逃げちまうんだ。
戻ってくるのに二日はかかる。
だから家の近くではやるなと、前々からアンに言われてたんだ。
おまえがアンに用があるなら、機嫌を損ねねえ方がいいだろうと思って抑えてたんだが、会う前に死んじまったら意味ねえからな。
どうせならもう少し早くやってりゃ、おまえに怪我させずにすんだ。
……悪かったな」
「あ、いえ……」
知り合いのエッジさんに案内してもらうとはいえ、いきなり訪ねてお願いをするのだから、最初はまともに応対してもらえないことも覚悟のうえだ。
それに、エッジさんが言う通り、死んでしまったら交渉の余地もないのだから、助けてもらえてよかった。
しばらく歩くと、急に森が開けた。
小さな野原の中央に、丸太を組み合わせた小屋があった。
入口の階段の一番下の段に座っていた人が、ゆっくりと立ち上がる。
薄い金色の髪を腰まで伸ばした、二十代半ばぐらいの美しい女性だ。
王都で絵姿を見てきたから、その人がアンさんだとすぐにわかった。
だが、エッジさんが言うような不機嫌そうな様子はなかった。
アンさんはにこりと微笑んで言った。
「いらっしゃい。
ずいぶん派手な挨拶だったわね」