太極拳
こちらの作品は、エブリスタさんにて連載中のショートショート集「引き出しの多い箪笥は、やけに軋みがちである」にも掲載しています。
僕は毎朝、近所の公園へウォーキングに出かけている。
朝一番の空気は、とても心地よいものだ。
広い芝生があるので、時折ウォーキングコースを離れてふかふかした地面を楽しむこともあった。芝生の上は草の香りがして、朝一番の新鮮な空気ととても相性がいいのだ。
いつものようにふかふかの地面を楽しんでいた時、ふと、芝生の上で…、体を動かしたくなった。
……そうだ。
昔、大学生のころにサークルで少しだけかじった、太極拳。
久しぶりにやってみようかな。
ゆっくりした動作で、体を伸ばす。
腕、肩、腰、足。
意外と動きを、覚えているものだ。
なかなか気もちがいいな。
これからウォーキングついでに、毎日やろう。
一人で体を動かし続けて一週間。
なにやら、僕の後ろで、同じような動きをしている人がちらほら出てきた。
気にせず、マイペースに体を動かしていると…。
「おはようございます」
「おはようございます」
見知らぬ同世代の男性が声をかけてきたので、少しだけ緊張しつつ笑顔を向けて、挨拶をした。
「毎朝見てたら、私も体を動かしたくなってね。ご一緒させていただいても、よろしいですか」
「完全に私のオリジナルですが、いいんですか」
「ええ。よろしくおねがいします」
なにやら、太極拳仲間が、増えることになった。
その後も、仲間は増え続けた。
僕のおかしな太極拳を、みんなが見よう見真似で、楽しんでいる。
朝一番のコミュニケーションは、なかなか楽しいものになった。
時折雑談もするようになり、大学時代のサークルを思い出した。
……同じ楽しみを共有できる仲間がいるというのは、楽しいものだな。
ずいぶん人数が増えてきたある日。
「この太極拳サークルの代表者は、あなたですか」
新しい仲間がやってきた。
「代表というか、皆さん私のまねをしてる、そういう状況ですね」
「なるほど。今日から僕も参加させてください」
新しい仲間は毎日顔を出し、ほかの仲間たちと打ち解けていった。
そんなある日。
「この太極拳は、ニセモノなんですよ」
新しい仲間だった人が、突如リーダーシップをとり始めた。
何でも、太極拳を昔からやっていたそうで、僕の適当な動きが、どうしても許せないらしい。
別に正しい太極拳にこだわってやっていたわけではなかったので、彼に僕の位置を譲った。
僕は、太極拳もどきを芝生の隅っこでやっていたのだけれど。
「そこでおかしな動きをされると、みんながつられてしまうんですよ」
なぜだか、僕が追い出されてしまった。
……まあ、いいか。
もともと体を伸ばしたくてやってただけだし。
僕はまた、ウォーキングのみをするようになった。
一時期は、公園の芝生を埋め尽くす人数が楽しんでいた太極拳だったのだが。
ふと気が付くと、人はまばらになっていた。
そして、興味が無くなってしまった僕は、芝生広場を気にすることが無くなった。
「おはようございます」
「あ、おはようございます」
少し前まで一緒に太極拳もどきを楽しんでいた、顔なじみのご婦人がやってきたので、挨拶をすると…、笑顔を向けて立ち止まった。
つられて僕も…立ち止まってみる。軽く世間話をしながら、視線は自然と…芝生の方に、むいていく。
「…太極拳、もうやらないんですか?」
「ああ、なんかまじめすぎる人がねえ…輪を、乱しちゃったのよ、ねえ…」
ゆるーく、なんとなーく、みんなでのほほんと楽しんでいた太極拳だったが、僕が抜けて、厳しい太極拳教室になってしまったようだ。
手の伸ばし方ひとつをとっても、すぐに指導が入る。
同じ動きをしないと、檄が飛ぶ。
高齢者も多いから、同じ動きができないこともあったし、そもそも動きをなぞれない。
だんだん太極拳を続けるのが負担になり、つまらないと感じる人が続出し、参加者が日に日に減っていき……。
……なんだかなあ。
ああ、そういえば、大学のサークルも、こんな感じだった。
代表者が映画に影響を受けたとかで、完全自己流で楽しんでいたところに、仲間が集まって来て…サークルになったんだ。
そこに本格的に太極拳やってるってやつが乗り込んできて、びしびしやって、あっという間に解体したんだった。
「いつの時代も、自分が指導者にならないと気が済まない人って、いるんですねえ…」
「みんなで和気藹々とやってたら、楽しかったのにねえ…」
「おや、おはよう!なに、また集まってやりますか?」
「イヤイヤ、もうこりごりだよ。朝から怒られたくないし」
「懐かしいよね、あののほほんとした太極拳が…」
僕とご婦人が話していたら、かつての仲間たちが集まってきた。
みんな、ゆるい太極拳を懐かしがっている。
……だがしかし。
「芝生の上から、厳しい人が見てるよ。集まってたら、怒られちゃうかもね」
「もうここでは集まれないな。監視の目がある」
「僕がみんなをやめさせたとか思われてないでしょうね…」
あんなににぎわっていた、朝の公園の芝生広場。
今、芝生の上で太極拳をする人は、この公園には、一人しか、いない。