初めてのお仕事
「うぅ、流石にちょっと寒いな……」
「もう一枚着てくるべきだったね……」
初秋の肌寒さを感じながら、俺たちは波橋を目指して歩き続けていた。
ついこの前まで夏だったのに、あの暖かさは一体どこへ行ってしまったのだろうか。
「本当にいるのかよ?その……不幸な人は」
「間違いなくいるね。うん」
「やけに自信満々だな……そんな都合良くいるものじゃないと思うんだけど?」
「大丈夫、絶対いるから」
それから、何度聞いてもクニハルは「間違いない」「大丈夫」しか言わなかった。
そこまで自分に自信が持てる姿が、少し羨ましいと思えた。
「あ、ほら見えてきたよ」
「あぁ……」
「おお?もしかしてあの人……」
「え、いたの?本当にいたの?」
クニハルが指差す方向には、スーツを着た真面目そうなサラリーマンの姿があった。
目を凝らしてみると、その人は欄干に腕を組んで乗せ、浮かない表情をしているのが分かった。
「ほら!いたでしょ!あれが不幸な人だよ!」
「バッ……馬鹿!聞こえる聞こえる!」
「もが……むがが」
俺は、慌ててクニハルの口を塞いだ。
聞こえてしまったかと思い、橋の方向に振り返ったが、そのサラリーマンは変わらず欄干にもたれていた。
どうやら、こちらには気付いていないようだ。俺は胸を撫で下ろした。
「あっぶね……」
「ぷは!ね?いたでしょ不幸な人」
「お、おぉ」
「いや~なんて言うか?長年の感と言うか?経験と言うか?分かっちゃうんだよねー!何故か!」
「それは良いから。やるならやろうよ」
長くなりそうだった話を強制的に中断して、俺は、目の前のサラリーマンの姿を見たままに想像した。
俺の頭の中で、暗そうな、切なそうな顔をするその人は呟いた。
「何で俺は……こんなにもダメな奴なんだ……」
溢れる涙を、スーツの袖で拭いながら、サラリーマンは続けて言った。
「人一倍頑張ってるはずなのにな……結果は出ないし、いっつも怒られてばっかりだし、彼女は俺に愛想尽かせて出ていくし……なんなんだよもう……!」
そこまで言って、彼はため息を吐いた。
「おまけにその会社もクビだ。これから先どうすれば良いんだよ……」
彼の涙は止まるところを知らず、次から次へと零れ落ちていった。
悲しい現実を目の当たりにしたその人の姿を見て、俺とクニハルは顔を見合わせた。
「せ、切ないなぁ……」
「いきなり重いんだけど!話が!ここから幸福にするって無理だろ!」
「そうだなぁ、あんまり悩んでもいられないしな。コレを使おう」
コレ、と言ってクニハルが取り出したのは、一冊の赤いノートだった。
「何それ?どっから出した?」
「キャリアノートって言ってね。コレを使えば、頭に思い浮かべた人の色々な情報を見ることが出来るんだ」
「また変な物を……」
「ここからヒントを探すんだよ。まぁ見てて」
そう言うと、クニハルは真剣そうな表情を浮かべて、一つページをめくった。
「ふむ……名前は立川健太。血液型がB型で、好きな食べ物はカレーライス……」
「凄いな。そんな事まで分かるんだ」
「誕生日七月十日の蟹座。それから……年齢が三十二歳で……」
「……うん?」
「体重……不明か」
「なんでだよ!乙女か!てか役に立ちそうな情報が一つもないんだけど!」
相手の色々な情報を知る事が出来る。なんて大層な事を言う割に、理解出来るのはどうでも良い個人情報ばかりじゃないか。
好きな食べ物、生年月日。そんな物を知ったところで、一体なんの参考になるって言うんだ?
「いやいや、役に立つ情報ならあるよ」
「えぇ?どれだよ……」
「ほら、ここさ」
「趣味……小説執筆?」
「そう、それだよ。立川健太さんは小説を書くことが好きで、数々のオリジナル作品をインターネットサイト上に投稿しているらしい」
「へえ、そうなんだ」
言われてみれば、この人は眼鏡をかけていて、黒髪で穏やかそうで、いかにも本が好きそうな見た目をしていた。
人は見かけによらぬものとは言うが、見かけ通りのこともあるみたいだ。
「中でもファンタジー小説が好きみたいでね。コンテストにも応募してるんだって」
「なるほどね。じゃあそのコンテストで大賞やら取らせてあげれば……」
「その通り!万事解決ってわけ!」
パチン、と指を鳴らしてクニハルは俺の方を見た。
「そうすれば、立川さんも幸福を感じる事が出来るはずだよ。きっと、これからの人生にも光を見出せるだろうね」
「大袈裟な……そんなに変わるか?」
「変わるとも。運が良ければ、そのまま小説家デビューする事だって出来るかもしれないし、前よりもっと良い彼女が出来るかもしれないだろう?」
「まぁ……確かに」
このクニハルの言葉には、得体の知れない強い説得力があった。
俺は特に反論せず、立川さんが幸福になる姿を思い描く事にした。
まず、コンテストに入選したという旨をメールで送る。
「ん?メール……誰だ?」
そのメールを見た立川さんには、さぞ驚いてもらった。その方がリアリティーがあるからな。
「俺が……大賞受賞……!?」
画面を食い入る様に見つめ、やがて、叫ぶ。
「っしゃああああッ!うおおおあァ!わああああッ!」
……少しやり過ぎただろうか。喜ぶの度を越して、奇人の様になってしまった立川さんを見て、なんだか複雑な気持ちになった。
とはいえ、途中で止める訳にもいかない。俺は再び意識を集中させた。
「やった……!やったぞ!神は……まだ俺を見捨てちゃいなかった!俺は世界一の幸せ者だったんだ!」
まずい、また変な事を言わせてしまった。神がどうだとか、宗教の人みたいになっている。(多分この人は無宗教だ)
いけない。一度余計な事を考えると歯止めが効かなくなってしまう。
あとは立川さんを帰らせるだけだ。せめて、ここだけでもしっかりやらないと。
「もう仕事とかどうでも良いか!とりあえず家に帰ろう!帰って寝よう!」
そう言って、立川さんは機嫌良く帰っていった。
なんとか、無事に仕事を終わらせる事が出来た様だった。
「いや~お疲れ様。どうだった?初仕事の感想は」
「どうもこうも……思ったより難しいなって感じだよ」
「そうかそうか。でも初めてにしては上手くやった方だと思うよ。ほら、現実世界の立川さんも、あんなに嬉しそうにしているよ」
その言葉通り、そこには、幸せそうな表情を浮かべる立川さんの姿があった。
メールを見て、奇声を上げ、純粋な笑顔を見せながら帰っていくところまで、全て俺が思い描いた通りだった。
「見てみなよ。君のおかげで、幸せ者が一人増えたんだ。そう言われると悪い気はしないだろう?」
「確かに、悪くは無いね」
「おっ、ようやく乗り気になった?」
別に乗り気になった訳では無い。とはいえ、ちょうどアルバイトを探していた俺にとって、今更断る理由も無かった。
「うん、しばらく働いてみようかな」
「よしきた!君ならそう言うと思っていたよ!宜しくね新人クン!」
かくして、俺は正式に幸福屋の一員として働くことになったのだった。