椅子取り遊戯
八九郎が左利き故に編み出したる左逆手抜き。及びそれを用いたる逆手居合と、薬丸自顕流の心得のひとつたる二ノ太刀要らずの抜き打ち──それらふたつの剣術と、紀州忍法がひとつ『霞斬り』とを組み合わせたるまったく新しい忍法が、万延元年の秋も終わろうとしていたこの時に、松山のご城下に誕生したのであった。
その名も『逆手霞斬り』! 『忍び足』の忍法にて走り寄り、すれ違い様に一撃必殺の斬撃を放つことは通常の『霞斬り』と同じであったが、その抜刀法には大きな違いがあった。
その名が示す通り、逆手にて抜くのである。
左手にて鯉口を切るや、そのまま左逆手にて刀を抜く。しかしながら抜刀の瞬間に刀をひねるように廻し、上に向いていた刃を横か、或いは下へと向けつつ刀を抜くのである。そのようにして走らせた刃にて、逆手斬りに斬りつける。
これが、『逆手霞斬り』の全容であった。その速さ、その威力ともに通常の霞斬りに劣るところはなく、むしろ逆に鞘より刀を抜く速さはひと手間が要らぬぶんだけ速くなっていた。
唯一、劣る点を述べるとするならば、逆手に握ることにより有効な間合いがほんのわずか──みじかくなることのみであった。
さてこのまったく新しい忍法は、八九郎の道を大きく開く助けとなった。厳正に厳選されたる忍び適性検査の結果、八九郎は攻撃手段に乏しい『土組』へとまわされて土忍として生きていたのであったが、この『逆手霞斬り』を身につけたことにより、土忍者としての隠密任務と、他組の忍者にも負けぬ攻撃手段とをともに得ることとなったのであった。
これは、八九郎がもとは天才的な剣士であったことももちろんであったが、しかしながらどちらかと云うと冷や飯喰いの立場たる土組忍者となりながらも決して腐らず、その修行をたゆまず送っていたことによるものが大きかったのである。──以前の、自らの意志に反して忍者となった当初からは、とても考えられぬことであった。
だが実際に、八九郎はそれをやってのけた。その修行の厳しさは、もともと6尺(約180糎)の偉丈夫ながらもどちらかと云うと細身に近かった彼が、今現在は丸太のごとく太い手足、そして身体を得るほどに肉をつけていたことからも、窺い知ることができよう。この肉は決して飲み喰いによって得られたる贅肉に非ず、強さと速さと硬さとやわらかさとを併せ持った筋肉がその大半を占めているのである。
これだけの筋肉量を得るに至った要因のひとつは、彼が左剣のみならず右剣にまでその道を広げたがためである。──無論利き腕は変わらぬが故に、正式な右剣を用いるは不可能なままであった。しかしながら右手を用いたる片手剣を使うことはできるに至った。
──『二刀流』である。かつて戦国の世にて伝説の剣豪宮本武蔵が至ったる境地。その流派たる二天一流は、かつて和右衛門が薬丸自顕流とともに持ち帰っていた。八九郎はこれを学び、すでに己のものとしていたのであった。
“ひとつの型にこだわらず、いろんなもんを混ぜるんや” との和右衛門の教えは、八九郎の中であの日よりずっと生きていたのである。その言葉を胸に抱き修行に生きたる結果──ここまでに至る次第となったわけであった。
かつて、その道を大きく踏み外しかけたもと天才剣士が、ここまでの忍者へと生まれ変わるに至った要因とは何か?──それは石崎和右衛門と云う偉大なる師の導きの賜物であることは事実ではあったが、しかしながらもっと大きな要因が存在していたのである。
それは、田中次左衛門の存在である。八九郎が嫌っておるこのちいさな男──この忌々しき豆チビをいつか必ず斬る──との思いが、八九郎を突き動かしていたのであった。
思えば、八九郎が忍びとして生きる道を自ら歩んだ発端は、まことこの小男にあった。この者が揉め事の果てに八九郎を往来に生き埋めにするなどと云う暴挙に出なければ、今頃八九郎は平忍者のままであったであろう。
かくのごとく、その動機は極めて不穏なものであり不純なものであったと云えるが、動機なぞ忍者にとってどうでもよい。いや、動機どころか手段すらどうでもよい。結果としてそのお役目を果たすことができさえすればよいのである。──いかなる手を使ってでも。
いづれにせよ、めきめきと日進月歩に頭角を現してきた八九郎。その活躍はめざましいものがあった。土組の『組頭』に抜擢されるや、人を惑わす妖怪変化、世を乱さんと企む不逞の輩らをことごとく退け、或いは討ち倒すなどし、ご城下の治安と平和を守るはたらきにひと役もふた役も買っていたのであった。
「やるのう、武中は」
「八九郎の腕は見事じゃ」
「わたくしも負けてはいられませぬ」
「やるな……」
他なる『組頭』、山地三四郎、鵜久森五郎兵衛、忽那七郎、祝六郎らは、そのように評した。あまり八九郎のことをよく思っておらぬ『花組』が頭お千代とて、
「私はあの者が嫌いです。人として許しておけぬ者です。しかし──あの者、ことお役目に於いてのみ云うならば、我が伊豫忍軍に欠くことはできぬ者でありましょう。──こと、人としては許せぬが」
と、その腕だけは認めているのであった。
さて、『忍頭』にて、火炎忍法を用いる『火組』が頭となっていた田中次左衛門は、八九郎をどのように評していたか。──これが、もう心の底より彼のことを買っており、
「八九郎たるや、伊豫忍軍の誇りにござる。──このようなことは云うものではないやもしれぬが、万一にも石崎殿が頭領の座を退くことあるとするならば、その後を継ぐは八九郎を於いてほかにおらぬであろう」
と、云う始末であった。──その八九郎が、内心己の生命を狙っておるなどとは、夢にも思っておらぬようにみえる。
さて、頭領を務める石崎和右衛門は、昨今ではあまり人前に姿を現わすことが減り、自らの屋敷にこもりがちとなっていた。本日もそのように、化粧部屋にて鏡の前に座っていた。髷は結っておらず、さらりとした長髪を後ろに垂らした状態にて、上眼遣いにて鏡に向けて頭を垂れていた。
「うむううぅぅぅ……いかぬ、いかぬのう……」
和右衛門はそのように云うと、そのまま鏡の前に座ったままに、1刻半(約3時間)ほど過ごしていた。昇っていた陽はやがて西の空へと降りはじめる。開け放っていた障子の隙間より西陽射し込みし頃、誰に聞かせるでもなく和右衛門は、
「わしも、そう長くはなさそうじゃ。──こうなれば、わしの後を継ぐ者を決めねばならぬのう……」
と、ひとりつぶやくのであった。
それより数日が後のこと。和右衛門は久々に登城した。殿より直々にお呼び出しがかかったのである。主君の命とあらば、断ることはできぬ。髷を結い、裃をつけて登城した和右衛門は、忍軍詰所に立ち寄ることもなく、まっすぐに殿のもとへと参った。
「おお! 和右衛門! 久方ぶりじゃのう!」
和右衛門が拝謁するや、御殿松平勝成公は、そのように云った。その厳つき見た目とは裏腹になかなかに気さくな人物であり、また異國趣味を持っており、外國の事情にも通じていた。
「殿、わしもそう長くは頭領の任を務められぬ身となりましたが故に、なかなか登城できなんだことを謹んでお詫び申し上げ申す」
そのように云いながら平伏し頭を下げる和右衛門。その総髪頭の頭頂部が、陽の光を浴びて輝いているのが、殿の眼にはみえた。
「よい、よい。余とそのほうの仲ではないか! 楽にせい和右衛門。堅苦しい挨拶はそこまでにして、ほれ、楽にせい楽にせい」
殿はそのように云う。建前や罠などでは断じてない。──そこは長い付き合い。和右衛門はそれを知っている。故に殿のお言葉に甘え、胡座をかいて殿の御前に座る。
「して、殿。此度のご用はなんじゃいな?」
和右衛門はいきなり本題に入る。
「それがのう……じつはちいとばかし困ったことになりよって、そのほうらの力を借りたい事態になりおったのじゃわ」
立てたる髷を右手にてさすりながら、殿はそのように申された。
「殿の “ちいとばかし” ならば、わしらにとっては “かなりな” 難事じゃな」
和右衛門は、そのように答えた。
「ふはは! 敵わんのう。──まあその通りじゃ」
「話を伺い申す」
にわかに、ふたりの表情が真剣極まるものと化す。
「和右衛門。そのほう、小窪村を存じておるか?」
唐突なる殿の問いに対し和右衛門は、
「はて──?」
と、答えるにとどまった。──そのような村は、松山藩のどこにもない。まるで覚えのない村である。
「ああ、言葉が足らなんだな。すまぬ、すまぬ。許せい。余の云うその小窪村は、ここ松山藩の村でなく隣の──大洲藩の村じゃ」
和右衛門の様子に、殿は自らの不明を詫びて補足した。なるほどそれならば、わずかに覚えがあった。──確か山深き田舎。谷にある寂れた村であり──
「碌でなしの巣窟。──そのように聞くが、その村のことかのう?」
和右衛門がそのように答えると、
「うむ。それじゃ! まことその碌でなしどもに、泰祉殿は手を焼いておるとのことよ」
と、殿は仰せになられるのであった。
殿の云う泰祉殿とは、大洲藩主たる加藤泰祉公のことである。此度の一件は、その泰祉公から殿へと直接持ち込まれたものとのことであった。なるほどこれは和右衛門の読み通り、かなりの大事であった。
「殿。小窪村にてなにが?」
身を乗り出して訊く和右衛門。そのような彼に向けて殿は、
「一揆じゃ」
と、答えるのであったが、どうもそれは和右衛門には信じられぬことであった。
「泰祉公の治世にて──一揆とな?」
不審そうに訊く和右衛門。それは殿も同様であるとみえ、
「うむ。余もそれが信じられぬこと。慈悲深き泰祉殿の治世にて、一揆などとはのう」
と、仰せになられるのであった。
これは、殿様であるが故に世事に疎いなどと云うことでは断じてなかった。泰祉公は家督を継ぐや藩の財政を立て直す再建政策にかかり、そしてそれは大いに成功を収めていた。またその一方で、領内の貧民を救済する政策にも同時に取りかかっていたのである。これはなかなかに難しいことではあったが、しかしながらかなりの成果を挙げており、真っ当な領民ならば感謝の声を上げることはあれど、決して不平不満など──ましてや一揆などと云う強硬手段に打って出ることなど、ありようハズもないことであった。
だがそれは現実に起きた。しかもその手段たるや、一揆の中でも武力闘争を用いるものであった。
一揆にもいろいろと手段がある。とかく誤解されがちではあるが、一揆とは何も皆が皆手に武器を取り、お城や奉行所を襲うような手荒なものばかりではない。──生きるや死ぬやの戦国の世ならばいざ知らず──こと泰平の世に於いては、云わば直接の団体交渉のようなもので、民百姓の代表たる者らと、奉行所若しくは藩主らとの話し合いの場を設けるといった、穏やかなるものがそのほとんどを占めていたのである。
かつては、一揆が起きるは藩主の不徳のなすところであり、その結末の如何を問わずして何かしらの処断が成されていたもののしかしこの頃になるとそのような処罰もほとんど起きず、また改易などと云う厳しいものが下ることもそうそうなかったのは、このためでもあった。この頃になれば筵旗も押し寄せる百姓集団も、云わばかつての形式を踏襲したるものにすぎず、一種の様式美であった。
だが、此度の件はそれとはまるで異なる。大窪村の民は百姓のみならずその他の者までもが一丸となって武装蜂起を行っており、徹底抗戦の構えを見せていた。寄らば斬るどころか、寄らば撃つ──小窪村の民は奉行所を襲い、何丁もの鉄砲を奪い取り保有していたのである。この一大事に、ついに大洲藩主加藤泰祉公はひそかに、ここにおわす松平勝成公を通じて、伊豫忍軍に出動を要請するに至ったのであった。
「事は一大事じゃ。相手はただの民百姓とは申せ、下手にかかれば返り討ちとなろう。──まあ、そのようなことも表立ってはできぬがな」
殿はそのように仰せられた。殿の言葉の真意は、いかに大洲藩とてそう易々と手出しは出せぬと云うことにあった。先ほど述べた通り、一揆起きるは藩主の不徳とされていた。いかに昨今はその処分も重くはないとは申せ、事ここまでの一大事とあらばそうはいかぬ。
民百姓とは、守らねばならぬものであったからである。
しかしながら、此度の一件にて一揆側はそれを逆手に取った。もし手荒な真似をすれば、藩主の首が飛ぶ。これは改易──つまりは藩主を馘にする処分のことを指してのことではあるが、しかしながら下手に表立って藩が動かば、“無辜の民をみだりに虐殺したるは何事ぞ。その罪、万死に値する” と、文字通り藩主の首が飛びかねぬ事態を招きかねぬのであった。
「──卑怯じゃのう」
和右衛門は、そのように云う。
「ああ。余もそう思う。じゃが、このまま捨て置くわけにもいかぬ。なんとかせねばならぬ」
殿はそのように仰せられた。
「なんとか──と、申すと?」
わかってはおるものの、和右衛門はそのように訊く。これもまた様式美がひとつ──今まで長い間、くり返されてきたことであった。
「できれば穏便に事を収めて欲しい。余とて民の血が流れるは好まぬ。それが例え碌でなしとは云えどのう。──じゃが……」
──「事がそれで済まぬなら、もしもそのほうらの手に余ることがあったならば」──そのように前置きした後に、殿は仰せられた。
「──すべてを、“雪が融けた” ようにせい」
これはつまり、“すべてを秘密裏に葬り去れ” と云うことである。──これを受け、和右衛門はうなづく。声を出さぬは、万一にも漏れることを恐れての用心のためであった。
その後、とりとめもない話をいくらかした後に、和右衛門は殿のもとより退いたる後に、詰所へとその足を向けた。──そこにいたは、田中次左衛門、山地三四郎、祝六郎、武中八九郎、そして和右衛門が娘、お千代であった。
(ちょうどよいわ)
和右衛門はそのように思うと、開口一番に命じた。
「一同、殿のご命である! 今すぐに支度をはじめ、直ちに大洲藩は小窪村まで行けーーい!」
平和な大洲藩にて一揆の企て在りとの警報に接し、伊豫忍軍は直ちに出撃、此れを撃滅せんとす。
本日、天気晴朗なれども波高し。
海沿いを行くは水忍忽那七郎──水の忍法を用いる彼に、海辺にて勝てる者がいようか?
次回、忍法血風録!「銃の手入れは暴発のおそれがあるので充分に警戒してこれに当たれ」