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忍法血風録  作者: 瑞鶴寺鉄心斎
忍者武中八九郎
6/19

雨に撃たれるために

「目標を照準に入れて引鉄(ひきがね)


降りしきる雨の中、平盆を天地逆に返したような編笠をかぶった男がそのように云った次の瞬間のこと。


「たあん」


と、でも形容したほうがよいか。そのような一種の炸裂音を立てた後、4町(約500(メートル))ほども先にある塀の上に立てられていた棒手裏剣が、ふたつになって折れ飛んだのである。


その塀の上に立てられた棒手裏剣は、ひとつやふたつではなかった。何本も何本も立てられている様は、まるで侵入者を防ぐ『忍び返し』のごとき、針鼠(ハリネズミ)さながらの様相を呈していた。


編笠の男は、そのような手裏剣の列をじっと表情のない眼にて見つめていた。笠を深々とかぶり、鼻の上から(アゴ)の下までを襟巻布で覆っているためか、まったく感情と云うものが読み取れぬ。


「目標を照準に入れて引鉄」


編笠の男は、ふたたびそのようにつぶやいた。その後やはり、


「たあん」


と、火薬の炸裂音が響き、棒手裏剣はまたしてもふたつに折れ飛ぶのであった。


「目標を照準に入れて引鉄」


「目標を照準に入れて引鉄」


「目標を照準に入れて引鉄」


「たあん」


「たあん」


「たあん」


編笠男の持っておるものは、『鉄砲』であった。種子島と呼ばれる、前込め式小銃の一種である。その鉄砲が、引鉄を引くとともに火薬を炸裂させ、音とともに弾丸を放っていたと云う次第であった。


「おほっ! たいしたものじゃのう!」


編笠男の後ろに立ち、射撃を見物しておった大男──武中八九郎は、若干のはしゃぎをみせながら、編笠男の腕の見事さを褒めるのであった。


「目標を照準に入れて引鉄」


編笠男は、ふたたび銃撃を放った。そのとき、男の指は5回ほど、引鉄を引いた。するとそれに従って、


「たあん! たあん! た、た、たあーーん!」


と、連続して銃声が鳴り響く。そのようにして放たれた幾つもの弾丸はすべて、一本の棒手裏剣へ向けて次々と命中する。そのような銃撃を受けた棒手裏剣はもはや棒と呼ぶにはふさわしくない、ただの金属片となってばらばらに飛び散るのであった。


「──なんだ……簡単ではないか……」


編笠男はそのように云うと種子島の構えを崩し、銃より手放した左手にて編笠を外した。針鼠のごとき短髪が露わとなる。長さは2寸(約6(センチ))ほどであろうか。長髪を束ね(マゲ)を結うが平常なるこの時代の者としてはめずらしい。


編笠を脱いだ男はそのまま左手にて、顔に巻いていた襟巻布をとった。細面(ほそおもて)の、面長な顔面が露わとなる。──そこより表情と云うものは、まるで読み取れなかった。


「おほーーっ! 見事じゃ見事じゃ見事じゃあーーっ! この距離で的を1発も外さぬか! 百発百中じゃあ! さすがは『金忍』祝六郎(ほうりろくろう)の腕の見事さと云うたところじゃわい!」


まるで己の手柄のごとく、手にした番傘を振り廻して喜びはしゃぐ八九郎に対し、編笠男祝六郎はただ己の右手に握る種子島を見つめながら、


「俺の腕が優れているのではない。こいつが優れているのだ」


と、答えるのであった。


『雷火銃』──それがこの銃の正式な名前である。もっとも、祝六郎は単に『種子島』と呼ぶが──これは、所謂種子島式火繩銃とは一線を画す最新鋭の銃であった。


まず、発射装置が異なる。火繩銃とは読んで字のごとく火のついた繩を用い、その火をもって火薬へと点火させて弾丸を放つ仕組みとなっている。──が、これはこの時点に於いてもすでに旧式の、過去のものとされていた。


この万延元年の時点にて、普及型の最新型としては、燧發(すいはつ)銃が挙げられる。これは火薬への点火装置に火打石の立てる火花を用いるものである。これならば、繩の火が消えぬよういちいち火の番をせずともよい。


しかしながら、この燧發銃にも弱点があった。火打石が濡れ湿るとそこよりの火花が散らず、不発を生じるのである。これでは、雨の中では使えぬ。高温多湿にて雨の多い日ノ本の國にては、これは困ったことであった。


だが、この『雷火銃』は違う。点火装置に雷管と云う便利なものを用いておるがため、雨の中であろうが雪の中であろうが一切の関係なしに、引鉄を引けば弾丸はその銃口より放たれるのであった。これは、まことに便利な代物(シロモノ)である。


この便利な雷火銃。それを発明したるはさすがは伊豫忍軍──と、云いたいところではあるが、残念ながらこれは完全なる伊豫忍軍の独創と云うわけではなく、外國(とつくに)よりの舶来品なのであった。



──万延元年現在より遡ること6、7年前のこと。遥か米國(メリケン)諾福克(ノーフォーク)より江戸は浦賀の港へと遠路はるばる海路一万五千余里を越え、黒船を率いてやってきたぺるり提督来航の際のこと。最新型の蒸気式軍艦、最新型炸裂弾を搭載したる巨砲の前に、さすがの徳川幕府もついに折れ、鎖國の禁を解いた──


と、されているが、しかしながらあのひと筋繩ではいかぬたぬき親父……もとい、神君家康公が築いたる幕府が、そのようなことで簡単に折れるようなタマとは思えぬと考えるが、自然なことであろう。そう──この、全国津々浦々のさむらいらを、“腰抜け外交” と激怒させたるこの行いには、実は隠された裏が存在していたのであった。


ひとつは、相手の要求を受け入れて気勢を削ぐことであった。先ず無茶な要求を突きつけ、もし断られればそれを口実として攻め込むが、当時の欧米列強のやり方であったが故、その要求を敢えて飲み、開戦の大義名分をなくさせてしまうが、この策の骨であった。



──これは余談ではあるが、この際に幕府にしてやられた米國はたいそうくやしかったとみえ、これより約80年後の昭和16年には、絶対に飲むことができぬ無茶を極めた条件を突きつけ、ついに開戦にこぎつけるに至る。



さて話を黒船来航時に戻すと、この開戦回避の大奇策の裏にあったが、ふたつめの策である。その立役者となったが、徳川幕府お抱えの忍者集団、御庭番衆と伊賀忍軍であった。彼らは、最新型兵器を多数有するぺるり艦隊に向けて、夜昼を問わず気づかれることなくひそかに侵入を行っていた。目的は、向こう側の肚を探ることもあったが、しかしながらもうひとつ。相手方の保有するそれら最新型兵器の数々を、盗み持ち帰ることにもあった。


そのうちのひとつが、スプリングフィールド銃であった。祝六郎の持つ雷火銃のもととなった銃である。


伊賀忍軍と御庭番衆は、御國の一大事に今までに至る確執のすべてを横へと放り棄て、一丸となってこの新型兵器の研究にあたった。寸法を測り、分解し、ふたたび組み立て、部品を複製し──などを行い、この新たなる兵器を多数量産せんと試みたのであった。


──しかし結論から云うと、これは失敗した。複製にではない。量産についてである。これほどの最新技術の用いられた、緻密にて精密なるものを、かつての種子島のように量産することは、ついに不可能となったのであった。


故に、幕府方は別なる方向へとその舵を切った。量を増やすことができなければ、質を高めんとしたのである。改良型銃の発明が、その戦略目標となったのである。


さて、しかしながら質を高めるには、様々な者がそれに関わるが望ましい。故に幕府は複製したスプリングフィールド銃の何丁かを、親藩大名のもとへと遣わした。何故親藩に限られたかと申せば、理由は云わずもがな。倒幕の機運高まりつつあったこの折に、みすみす敵方となろう藩に最新型兵器を呉れてやるものが、どこにいようかと云うものである。


そのようなスプリングフィールド銃の一丁は、徳川家の一員たる松平家の治めるここ伊豫松山藩にわたった。そして、実に6年の歳月をかけ、ここに最新型國産雷管式小銃が誕生するに至ったのであった。



さて、ここに祝六郎の用いておるこの雷火銃であるが、諸性能そのものは特に飛び抜けたものではなかった。性能そのもので云うならば、信州松代藩にてつくられた傍装雷火銃のほうがよほどすぐれたものである。


しかしながらこの伊豫松山式雷火銃には、様々な改造が施されていたのである。


ひとつは、銃口の下に匕首(ドス)を取りつけたこと。所謂銃剣の類ではあるが、刺突効果のみを考慮した銃剣とは異なり、斬撃を放つこともできた。


もうひとつは、銃身の上に遠眼鏡(とおめがね)を取りつけたことである。遠眼鏡に嵌められた透鏡(レンズ)には墨にて目盛が書かれており、これをもってして遠くの標的をも見通すことができた。先ほど六郎が申しておった『照準』とは、この目盛を見てのことであった。


しかしながらもっとも大きな改造は、旋条を廃したことであろう。雷火銃のもととなりたるスプリングフィールド銃の銃身には螺旋状の(ミゾ)、すなわち旋条が切られており、この溝によって撃ち出されたる弾丸の軌道は安定し、命中精度が著しく上昇するのであった。


しかしながら、これは使用できる弾丸を選んだ。専用の弾丸でなければ溝が合わぬのである。そこで思い切って、六郎はこの溝を廃するに至った。これならば、弾丸はなんでもよい。極端なことを云えば、銃口に嵌りさえすれば小石であろうが丸めた紙屑であろうがなんでもよいのであった。


だが、命中精度は恐ろしく下がる。しかしこれを、六郎はその腕前にて補強することを考えた。常人の域を超えた修行の果てに、六郎はついに旋条を刻んだ銃に負けぬほどの命中率を有するに至った次第であった。


──八九郎は、それを知っていた。故に六郎の腕を褒めるに至った。六郎の腕があってこそ、このような百発百中の命中率をたたき出すことができたのである。


だが、六郎はそうではないと云う。あくまでも、銃あってこその腕。そのように彼は考えていた。己に厳しい孤高の男──まるで荒野の1匹狼のような者──それが、祝六郎と云う者であった。



半刻(約1時間)後のこと。ひとしきり弾丸を撃ち終えた六郎は、ふたたび編笠をかぶりご自慢の雷火銃を肩にかつぎ、八九郎とともに城へと取って返した。降る雨は次第にその雨足を強め、土砂降りとなろうとしていたからであった。


「それにしてもよう降るのう」


番傘を畳みながら云う八九郎に対し六郎は、


「ああ……」


と、編笠を脱いで云うのであった。傘からも笠からも、雨水が滝のごとく流れ落ちる。なかなかの雨量であるとみえた。


さてご両人は懐より取り出したる手拭にて身体や着物を拭くと、玄関先に設けられた竿へと手拭、そして羽織を掛け、足袋と草履を脱いで中へと入ってゆく。──そして廊下を抜け、彼ら伊豫忍軍らの屯する詰所へと向かうのであった。


「おお! 六郎! 八九郎! 来たか!──いやいや、このような雨の中わざわざ済まぬでござる。いや、まことにご足労をかけて申し訳ござらぬ」


入ってきたふたりの姿を見るや、『忍頭』(しのびがしら)田中次左衛門はそのように云った。


対する八九郎はこの次左衛門のことを好いておらなかったが故に、


「うむ……」


と、うなるのみにて返事と代え、そのまま座布団の上に座るに至った。対して六郎もただ、


「ああ……」


と、ただのひと言を申したのみにて返事と代え、やはり座布団の上へと座るのであった。


部屋の中にいた者は、忍頭たる田中次左衛門を筆頭に、それぞれ上手側より、山地三四郎、石崎お千代、鵜久森五郎兵衛、忽那七郎、祝六郎、そして武中八九郎といった、後に伊豫忍軍を率いて立つ錚々たる面々であった。


「さて、このような雨の降りしきるなかわざわざ各々方に集まってもらったのは、他でもないことでござる。実は昨今、にわかにご城下が不穏なる気配に包まれつつあってのう。そこで、この件について拙者ら伊豫忍軍も調べに当たれと、殿より頭領たる石崎和右衛門殿に仰せがあったが故、ここに皆を呼び集めた次第にござる」


次左衛門は、そのように述べた。それに続き、忍頭補佐を務めたる山地三四郎が、


「これにつき、何か質問はおありか?」


と、皆に向けて訊くのであった。


八九郎は、口を開かんとした。此度の件につき、常日頃より気に入らぬ相手たる次左衛門が仕切り役を行っておるが、癪に障ったからである。


八九郎は、このように考えていた。


(殿より頭領が承ったならば、頭領が仕切るが本筋ではないか。何故に忍頭ごときが仕切るか。それは己の領分を大きく逸れはずれたことではないか)


と、普段の己の行いは丸ごと棚に上げ、上役下役の領分の件について次左衛門を責め立てんとしたのであった。


しかしながら、八九郎の口を開くより先に、六郎が言葉を発す。


「忍頭殿。貴殿の言によれば、此度の件は頭領たる石崎殿が仕切るが筋ならぬか? それを、忍頭殿が仕切るはまことに出すぎた行いと、それがしは見るが?」


──まこと、我が意を得たりとばかりに、内心で八九郎は小躍りした。八九郎の云いたいことを、六郎が云ってのけたのである。


さあ、己に代わりて先陣を切ってくれたるこの者に乗らんと、八九郎は口を開きかけた。口舌の刃にて援護せんとしたのである。


しかしながらまたしてもその口の開かれる前に、


「口を慎め六郎!」


と、八九郎の出鼻を挫くひと言が発せられるのであった。


その声の主は、石崎和右衛門が娘、『花忍』お千代であった。彼女は凛とした声にて、言葉の先を続ける。


「そのほう、事情も知らず手前勝手なことを申すでない! なるほど、そのほうの云うことまことにもっともなこと。それには相違ない。しかし、それは事情が許さぬのだ!」


烈しさを帯びるお千代の声にも、六郎は怯んだ様子も見せず、ただ表情のない眼にて彼女を見据えたままに、どこかしらまぼろしの明石原人じみたのっぺり顔にて、


「──聞こう。その理由とやらを……」


と、答えるのであった。


「──これは、些か私情を挟むが故に敢えて語るまいと思っていたが、父上……和右衛門は、つい先日敵方の忍びの手にかかり……伏せているのだ」


お千代の言葉に、五郎兵衛、七郎、三四郎の3名は衝撃を受け、


「何ゃあ! お頭がやられたやぁ!?」

「なんと! 何奴(なにやつ)にか?」

「そのようなことは初耳なるぞ!」


と、口々に云うのであった。八九郎も言葉こそ発さぬまでも、その心はこの3名と同じであった。


しかし六郎からは、表情の変化が読み取れぬ。


「──父上を倒したるは、長州忍軍……ううっ……」


いかに、“使命のためなら親兄弟も関係ない” との掟に生きる忍者なれど、やはりさすがに肉親の情と云うものは絶ち切り難いものとみえ、ついに耐えきれずお千代は涙声となり、その眼より雫をたらす。


「よい、お千代殿。後は拙者が代わりて申す──各々方、今の言の通り、我らが頭領石崎殿を打ち負かしたるは、憎っくき相手長州忍軍の者に相違ないでござる。これは、町方の手により調べがついており、万にひとつも間違いなきことと聞き及んでおるにござる」



次左衛門の云う長州忍軍と、こちら伊豫忍軍とは、宿敵同士の関係にある。ここ伊豫國は、かつて主家が河野家であった頃より、長州を支配していた大内家と敵対関係にあった。これが、後々までの宿命へとつながってゆく。


さて大内家は家臣の謀叛もあって没落し、代わって毛利家が台頭して来たのであったが、この毛利の勢いたるやすさまじく、今現在の領地たる長門、周防の二國のみならず、その版図は石見、安芸、備後、出雲、伯耆(ほうき)、備中、美作、但馬、因幡の11ヶ國にまでまたがっていたのであった。


この絶大なる毛利家の前に、伊豫國など吹けば飛ぶような存在であった。だが伊豫國を預かる河野家は負けなかった。隣国土佐國の主、一条家と協力し、毛利家の侵攻を必死となって喰い止めていたのであった。


だがその風向きもやがて変わり、河野家は最後の最後まで持ちこたえたもののついにしかし、一条家に代わって台頭したる長宗我部家の猛攻の前にその領地を取られてしまうのであった。


だがそれも一過性のこと。かねてより『第六天魔王』信長公より西国平定の命を受けていた秀吉公率いる大軍勢の前に、さすがの長宗我部家もひとたまりもなく降伏するに至る。


その後、長宗我部家に代わりて伊豫國を治むる任を受けたるは、こともあろうに毛利が一族、小早川家であったのであるから、これはもう伊豫忍者にとってこれほど、悔しきものはない。──後の伊豫忍軍のもととなる伊豫忍者どもは、捲土重来の機会を待って河野家の遺臣たる平岡家と行動をともにし、野に伏するのであった。


さてしかし、秀吉公の世は盤石にて、その信を受けし小早川家の守りも堅く、伊豫忍者もその主家となった平岡家も、裏では暗躍していたもののしかし、表立って特になにも有効な手は打てないでいたのであった。


しかしながら、運命の時来たる。忘れもせぬ慶長5年9月頭のこと。太閤秀吉公の世を去りし後に生まれた神君家康公と、治部少輔石田三成との確執は、ついに戦となって衝突したのであった。関ヶ原の戦いである。この天下分け目の大戦にて、石田方──所謂西軍の総大将を務めたるは毛利家が当主、輝元公であったものであったから、これはもう天の助けか。西軍敗北の後に、家康公の主導によって行われたる戦後処理の結果、毛利家はその広大なる領地のほとんどを失い、残りたるは長門、周防のわずか二ヶ国となった次第であった。当然ながら、伊豫國からもおさらばである。さらば小早川家。うぬらが治世の見事さは忘れぬ。


さて長州へと追われたる小早川に代わり、伊豫國を治むるに至ったは、関ヶ原の大戦の折には松山藩が隣の松前にて布陣し、東軍の後方の守りの任にあたっていた加藤嘉明(よしあきら)公であった。じつは関ヶ原での戦に呼応し、伊豫忍者らは主家率いる平岡軍団とともにこの嘉明公へと奇襲をかけており──ものの見事に返り討ちにされていた。それほどの剛の者である。『賤ヶ岳七本槍』がひとりの名は、やはり伊達ではなかった。


さてたぬき親父家康公の手腕は見事なもので、伊豫國と云う云わば対毛利最前線基地に、この剛の者嘉明公を配置し、睨みを利かせる策に打って出た。嘉明公は後に蒲生家と交代し会津へ去るものの、しかしながら蒲生とて嘉明公に負けぬ劣らぬ剛の者。しかしながら、蒲生家は世継ぎに恵まれず断絶の憂き目に遭う。そこに、ついに徳川家の一族たる久松松平家が筆頭、松平定行公が幕府の命を受け乗り込んできたのであったから、もはや毛利家はなにひとつ手出しができぬ。伊豫松山藩と長州藩の力関係は、ここに完全に逆転したのであった。


だが、長州藩はあきらめぬ。あきらめたらそこで終了である。彼らは今なお徳川を討つべく──すなわち倒幕の意志を未だなお持ち続け、表裏一体となって暗躍を続けていたと云う次第である。



そのような、宿敵長州忍軍がついに動き出した。敵は、はじめからこちらの頭領を狙ってきた。これは、敵方が動き出す日が近いと云うことを意味する。表たる戦力、すなわち長州正規軍──後の維新軍──が動き出す前に、必ずや邪魔となる伊豫松山藩の力をあらかじめ削いでおくがため、いきなり伊豫忍軍頭領のお生命を縮めんと動いたと云うことであった。


「各々方。敵は強うござる。あの石崎殿をただの一撃にて沈めたるは、並の者にはござらぬ。皆一同充分に注意し、警戒を厳にせよ。──細かなことはそれぞれの判断に任せるでござる。──以上!」


次左衛門は、そのように締めくくった。云ってしまえばただの注意喚起である。しかし、電話も無電もないこの時代にては、いかにこのようなつまらぬ些細なことでも直接会って伝えるが必要であり、肝要であった。云わねば、伝わらぬのである。


従って、この集まりには充分な意義があった。その証拠に、ここに集まりし(ロク)でなしどもの顔つきは先ほどまでとはまるで異なるものとなっていた。──あの八九郎ですら、任に臨む忍者の顔となっていた。


そう、本人は未だ気づいておらぬようであるが、今現在の八九郎は身も心も忍者となっていた。未だ剣士の戦い方を用いており、変幻自在の忍法も使えぬ身ではあるもののしかし基礎的な忍術、身を守るための術の類はすっかりその身に備わっていたのである。


しかしながら、忍者の顔とは申せ、例えば伊賀者らのような、どことなく世を捨てた気配漂う忍者特有の陰気さを感じさせぬのは、この瀬戸内の穏やかな気候故のことか。


さて、集まりは終わった。一同はそれぞれ立ち上がるなり座ったまま他の者らと話をするなりと、各々が好き勝手に動いていた。そのような弛緩した雰囲気に満ちていた時である。にわかに、六郎は編笠をかぶると、不意に窓の障子を開けた。静かなゆっくりとした動き故に、それに気づく者はなかった。


すこしの間、六郎はぼんやりと外を眺めていた──すくなくとも他の者には、そのように見えた。表情のない眼にて、土砂降りの外を見つめる六郎。その片眉が、不意に動いた。


その次の瞬間である。眼にも止まらぬ動きにて、六郎は右手に持った雷火銃を構え、窓の外へ向けて何らの前触れもなく発砲したのであったから、これはもうたいへんなことである。狭い室内にてぶっ放したものであったから、先ほどのような「たあん」と云う乾いた小気味よい音などではなく、


「ずがああん!」


と、でも形容しようか、まるで間近にて落雷したか、或いは地雷火でも炸裂したかのような轟音が鳴り響いたのである。これはもう、いかに一同が鍛え抜かれた忍者とは云えどさすがに肝をつぶしてブッ魂消(たまげ)、たちまち詰所の中に蜂の巣をつついたような大騒ぎを引き起こすのであった。


さてこのような、お城の屋根がブッ飛びそうな轟音が鳴り響いては、忍者軍団のみならず城勤めのさむらい衆の耳にも当然ながら入る。いったい何事であるかと、『侍大将』佐竹麟太郎弘政が、供の者どもを引き連れて自慢の槍を手にやって来て見てみれば、それはもう混迷を極めた光景が彼の眼に映るのであった。


鵜久森五郎兵衛は何故か双肌脱いで上半身裸となって天井へと張りついており、忽那七郎は眼を丸く見開いた状態となって、座ったままに固まっていた。石崎和右衛門が娘お千代は純白の下帯も露わに、裾を乱して倒れており、武中八九郎は左逆手にて抜刀を終えていた。田中次左衛門は何故か座布団を手に戦いの構えをとっており、山地三四郎に至っては座ったままの姿勢にて宙に浮き、ぐるぐると廻りながら気を失っていたのである。


「こ、これはいかなることか、祝六郎、説明せい!」


佐竹麟太郎の問いに対し、未だ硝煙立ち昇る雷火銃を手にしたままに、六郎は答えて云うには、


「いや、宿敵長州忍軍を相手とするにあたっての、景気づけの祝砲を撃ったまでのこと」


との、ことであった。その顔は彼にしてはめずらしく、にこやかな笑みが浮かんでいるのであった。




さて、この雨が上がりたる後のこと。お城より100町(約1(キロ))離れたる場所にて、ひとりの男の屍体(おろく)が上がった。頭を撃ち抜かれており、ほぼ即死であったであろうと、町方の者らはみた。


町方の調べによれば、これを撃ちたる弾丸は城のほうより放たれたとのことである。この報告を受けた佐竹麟太郎は、先日の祝六郎の件を頭に思い起こした。しかしながら堀を挟んでこの距離を、届く銃弾などあろうものか。そのようにも一度は思った麟太郎であったが──町方より上がりし報告書の最後に眼を通すと、やはりそれは六郎の手によりてのことと知る。


何故ならば、屍体の正体は、前原燐慶(まえばらりんけい)と云う名の長州忍者であったからである。


それは、先日に伊豫忍軍が『頭領』石崎和右衛門を打ち負かし、手傷を負わせたる憎っくき者であった。

不穏な気配を放ち出したる世の乱れに乗じ、長州忍者らが暗躍をはじめた。徳川幕府を倒さんとたくらむ長州の野望を挫かんと、決意を固める伊豫忍軍であった。


決戦の日は近い。そのようにみた『頭領』石崎和右衛門は、ある方針を固めつつあった。


その方針とは、なにか?


次回、忍法血風録!「邪法剣」


──ひとつの型にこだわるんやのうて、いろんなもんを混ぜるんや──

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