續・二番町夕霧楼
「やれのう、やれのう。もう夜になったがな」
八九郎と五郎兵衛が目的地たる三津浜に着いた頃にはすでに、辺りは闇に包まれていた。真っ暗な海の立てる波の音が、ただ響くのみの寂しい風景は、漁師どもで賑わう昼の光景とは、まったく違うものであった。
「まあ、距離が距離じゃからのう」
ふたりが先ほどまでいた二番町からは、おおよそ2里(約8粁)ほど離れている。飲み屋を出た際にはすでに逢魔刻がさしかかりつつあったから、いかに彼らふたりが忍者とは云え、こうなるのも仕方がないことであった。
「しかし参ったのう。これでは弥平とやらの家を訪ねて行くには遅いわい。人に家を尋ねようとも、誰もおらぬわ」
八九郎の云う通り、道を歩く者は彼らの他に人っ子ひとりおらぬ。まあ、これは時刻が時刻であるが故に、仕方がない。夜釣りをする者はとうに舟を出しており、沖合にて漁火を焚いている。余の者は皆すでに家へと引き上げ、明日の漁の備えをしておった。外を歩いておる者など──このふたりの忍者の他には、盗人くらいのものであろう。
「ん〜〜、まあ、なんとかなるやろ」
五郎兵衛は、そのように云う。なんとも頼もしい言葉である。すべてが行き当たりばったり、なにもかもが風の吹くまま気の向くまま、感情の赴くまま。──鵜久森五郎兵衛とは、そのような者であった。
「なんとか──のう?」
懐疑的な眼を五郎兵衛に向けながら、八九郎はそのように云った。
「ほうよ! なんとかならいしゃ!──ほうじゃのう……まずは人に尋ねてみようかいなあ?」
つい今しがた八九郎が申した言を、なにも聞いておらぬか、五郎兵衛はそのように云う。これにはさすがの八九郎も、
「こ、こら五郎兵衛。おぬしはわしの言をまふで聞いておらなんだか? 誰もおらぬと云うに、どう訊くと申すか?」
と、云うのであったが、
「むふう……まあ、見とれい! これでもわしには考えがあるんよ」
と、云うや、その場にて着物を脱ぎ、ふんどしひとつの裸となった。
──さて幾らも経たぬうちに、ついぞ先ほどまでさむらいの格好をしていた五郎兵衛は、今やすっかり坊主の姿となっていた。『早着替え』の術にて、その姿を変えたのであった。一種の、変装術である。
「むふう……どうじゃ! これなら夜遅くに人を尋ねても不審なるまいよ! ふはあ! なにしろ坊主ときたら、夜も昼もないからのう!」
五郎兵衛は、そのように云う。──まあなんとも、坊主の姿の似合うものであるな、と、八九郎は思った。
だがしかし、その姿は似合ってはいるものの、まさに異形の坊主であった。この、魚類めいた面をした鱗魚人が僧衣に身を包んだ姿は、まるで妖怪変化が一種、岩魚和尚である。
(妖怪変化と間違われ、騒ぎにならねばよいがのう)
八九郎は、そのようにも思うのであった。
編笠をかぶり、金剛杖を持った坊主と、大柄なさむらいとのふたりが、夜の港町を歩いていた。
「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経!」
夜分にもかかわらず、大声を張り上げて五郎兵衛は経を唱える。まこと、この男の辞書には近所迷惑と云う文字はないらしい。
だが、それは八九郎もまた同じこと。故に五郎兵衛を咎めることもせず、ただ連れ立って歩くのみ。しかしながら、岩魚和尚と若ざむらいの組み合わせは、なんとも奇異なものであった。
「どないや武中の! なかなかに様になっとろがいな!」
経を唱え終えた五郎兵衛は、そのように云った。
「ああ、そうじゃのう。先ほどの漁民も、まことおぬしを本物の坊主と信じて疑わなんだわい」
「ほうじゃろう、ほうじゃろう。わしはこれでものう、化けるにはちいとばかし自信があるんよ!」
八九郎に褒められ、にんまりと笑いながらそのように云う五郎兵衛の顔は、なんとも不気味なものであった。まこと、鯰か泥鰌の類が僧衣を着ておるようにしか見えぬ。
さて、しばらくの後のこと。ふたりは三津浜の港町を過ぎ、幾らか離れた場所にある漁村を歩いていた。先ほどまでの町並みとは比べるべくもない、寂れた漁村がそこにあった。
「しかしのう五郎兵衛。まるで収穫がないのう」
八九郎は、そのように云う。なるほどまさしくその通り。五郎兵衛らは漁民らの眼は欺くことはできたが、しかしながら本来の目的たる弥平の家を聞き出すことは、ついにできずにいた。
「そうでもないわさ。ちゃんとここらへんにある云うことは、さっきの漁民らも云よったろがいな」
──三津浜の港町にて、弥平について詳しくはわからなかったものの、しかしながら彼の棲家が、この寂れた漁村にあることはわかっていたのであった。
なるほど、大収穫である。これでおおよその見当はついた。だがどこがその家なのやら、まるでわからぬ。三津浜の漁民は、そこまでは知らなかった。
ただ、この寂れた漁村が陰杣村と呼ばれており、弥平がそこの生まれであること、他の漁村とはほぼ接触を持たぬこと、人別帳から漏れた者が多数暮らしており、近寄るべきではないところ。行った者の大半がふたたび戻ってくることがなかった、と云うことは、漁民らの口より得られた情報であった──
「そりゃあそうじゃが……この家々をひとつひとつ廻って行くつもりか? そのようなことをしておれば、朝になってしまうぞ」
八九郎は、そのように云う。しかし五郎兵衛は、
「何をーー? 今はまだ宵の口やぜ? 朝まではまだまだ間あがあるわい!」
と、云って、眼についた民屋へと向かう。
「頼もう! 夜分遅くにまことに済まぬが、実は拙僧は人を尋ね探しておってな! その者の家がここらにあると知り、こうして尋ね歩いておると云うことであるゥ!」
扉を開けるなり、五郎兵衛はそのように叫んだ。まこと、見事なる口上である。
しかしながら、返事はなかった。民屋の中には明かりこそ灯っていたものの、しかしながら人っ子ひとりおらぬ。
「ふわあ? 留守かのう?」
「こんな夜更けにか? 鍵もかけずに? むう……まこと、不用心な者じゃわい」
ふたりはそのように云うと、別なる民屋へと向かう。
「頼もう! 夜分遅くにまことに済まぬが──」
そこもまた、同じく明かりは灯れども、無人であった。ふたたび、ふたりは民屋を後にする。
「頼もう! 夜分遅くに──」
またしても、無人。
「頼もう──」
やはりここもまた、無人であった。
「ふわあ……どう云うことじゃいな?」
さすがにくたびれたか、五郎兵衛は民屋に上がり込み、畳の上に座り込んで、そのように云うのであった。
「なんとも、わからぬのう。まるでどこぞに消えてしもうたみたいじゃわい」
八九郎も上がり込み、そのように云う。
「脅かしなさんなや!──とは云え、その弥平じゃ云う者も不意に消えた云いよったわいな。これは……何かにおうのう」
五郎兵衛はそのように云うと、ふと何気なく民屋の中を見廻した。すると──
「お、おい武中の! ありゃあ──」
五郎兵衛がそのように云ったので、八九郎もつられてそちらを見た。すると、そこには床の間に掛軸のかかっているのが見えた。その掛軸の文面たるや──
“噴狂無狂 莫不九刀 流流家有 我殴双郡”
「ふおっ!?」
これには八九郎も大いに驚いた。あの謎の16の文字が、寸分違わずそこに書かれていたからである。ここへ来て、何と云う奇妙な符合であろうか。
「ちょい……ちょいと待てえやあ!」
五郎兵衛が立ち上がり、表へと向かう。八九郎も立ち上がり、その後を追う。
すっかり夜も更けた漁村は、なにやら不気味な気配に包まれていた。だがふたりとも、それに気づくどころではなかったのである。
五郎兵衛は、先ほど尋ねた民屋へとふたたび向かい、中に入っていった。遅れることすこしして、八九郎もまた、民屋の中へと入る。
「ふはあっ!?」
八九郎の見たは、立ち尽くし仰天の声を上げる五郎兵衛の背中。その視線の先にあるは、やはりあの謎の16文字。
“噴狂無狂莫不九刀流流家有我殴双郡”
それは、今度は襖に書かれていた。濃い墨にて書かれたその文字は──
「お、おい武中の。この字い、先ほど来た時にあったか?」
五郎兵衛はそのように云うが、八九郎は覚えておらぬ。いちいち、そこまで見ていなかったのである。それは五郎兵衛もまた同じ。故に八九郎に訊いたのであったが──見ておらぬならば、仕方がない。
「むふう……こりゃあひょっとして、経文かなにかやないんか?」
不意に、五郎兵衛はそのように云う。
「経文ん?」
そのように答える八九郎に向けて五郎兵衛は、
「そうよ。経文よ。わしがさっき唱えよった、ああ云うもんなんとちゃうんか?」
と、云うのであった。
「なるほど、のう。そう云われてみれば、お経のようにも読めるのう。──じゃが五郎兵衛、こんな一節はあったか?」
「ない」
五郎兵衛は断言する。坊主への変装を得意としていた彼は、ひと通りの経文をほぼすべて記憶している。その彼が知らぬと云うのであったから、これは──
「ならば……もしかすれば、『邪宗門』の経文か?」
八九郎は、そのように訊いた。『邪宗門』とは、幕府のお墨付きを得ておらぬ宗門のこと。すなわち、邪教の類である。これは人を惑わすものとして、厳しく取り締まられていた。──そしてこの忍者たちのお役目のひとつには、そのような取り締まりも含まれていた。
「おお……そうなれば、これは一大事じゃぞ八九郎。わしらの手には余るやもしれんぜ……」
五郎兵衛は、そのように云った。その時──
「がたり」
と、表の雨戸が鳴った。五郎兵衛と八九郎、ふたりの肝が一瞬にして冷えた。
──ぬるり。と、何者かが玄関より覗き込むのが見えた。しかしながら、その何者かからは、ただ無人の室内が見えるのみであった。
「……」
何者かは、じっと室内を見つめていた。その様子を、五郎兵衛と八九郎のふたりは、天井に張りついて窺っていた。
「……」
「……」
「……」
長い長い時が過ぎた後、何者かはあきらめたか、それとも何も見つからなかったことに、己の思い過ごしであったかと思ったか、やがて民屋を後にした。
「するり、ぺたり、つーー……」と、なにやら水音のごとき跫音が遠ざかってゆく。それがすっかり聞こえなくなってからしばらくの後のこと。ようやく、五郎兵衛と八九郎のふたりは張りついていた天井より床へと飛び降りるのであった。跫音の類は、一切立たぬ。
「あ、ありゃあ……なんじゃあ!?」
万一にも気取られぬよう、五郎兵衛は小声にて云う。
「わからぬ。わしにもわからぬ。じゃが五郎兵衛、あれは只者ではないぞ!?」
ふたりとも、顔面蒼白であった。無理もないこと。彼らふたりは確かに鍛えられた忍者なれど、しかしさすがにこのような、得体の知れぬ何者かを相手としては平静にてはいられぬ。それほどの、奇怪なものであったが故のことであった。
ふたりとも、その者の顔は見なかった。だが、出入口よりわずかに覗いたその影は、人間のものと云うには奇妙な姿をしていた。上体を曲げ、屈み込んだような姿。しかしその両の足はしっかりと前に伸ばされていたのである。彼らふたりは、それを見ていた。
それは、人間の足と云うには些か正しくないものに見えた。蒼白い肌をしたその足は、なにやら水に濡れたような、ぬめりを帯びたようなものに見えた。極端な蟹股で、漁民特有の、丈のみじかい着物の裾よりふんどしが覘いていたほどに開かれていたのであった。
──あまりにも奇怪な姿勢。しゃがみ込んだような低い姿勢であったその者は、ふたたび表へと向かう際に当然ながら振り向きをみせた。だが、その動きは常人のそれとは遠くかけ離れたもので、そのようなしゃがんだ姿勢のままに、膝をほとんど使わずに足先をちょこちょこと動かして右周りに廻ると云うものであった。
たいそう、不気味な動きであった。その奇怪なる様が未だ眼に焼きついたままにいるふたりは、それがいた跡を見る。するとそこには、なにやら透明なる液体が残っておるが見えた。
「ふわあっ! なんぞこれっ!?」
「くっ……くさいのう!」
その液体は、まるで脂のような粘りを帯びていた。それが、なんとも強烈な、鼻につく悪臭を放っていた。それはなんともなまぐさい──磯の匂いと魚類特有の匂いとに、若干の腐敗臭が入り混じったような──そのようなものであった。
「……」
「……」
思わず、ふたりとも外に出る。そのまま、声ひとつ、音ひとつ立てずに彼らの姿は消えた。──と、彼らは民屋の屋根の上にいた。これぞ修行の賜物。驚異的な跳躍を見せ、一瞬に屋根の上まで跳び上がったのであった。
「──よい、武中の。こりゃあどう云うことじゃあ思う?」
五郎兵衛がそのように訊けば、
「なんともわからぬ。じゃが、どうもわかりかけてきたわい……謎の経文、誰もおらぬ町、姿を消した弥平、あの怪しき者……これをつなぎ合わせれば、おぼろげながら見えてきたわい……」
と、八九郎は云うのであった。
「わしの見立てでは、ここの者らと弥平とやらには何ぞつながりがあったものと見ておる。それがいかなるものかはわからぬが──ともかく、そう云うことにしておくわい。して、その弥平とやら。あれが残した書きつけ。それは──」
「──あの経文。あれはここに潜む邪宗門徒どもを、わしらに知らせようとしてのことと云うか?」
「いかにも。わしはそのように見た。その弥平とやら、どのような経緯があったかはわからぬが、しかしながらあの玄人娘、夕霧の申すには、仕事をまじめにこなすよい男とのこと。そのような者が悪事をはたらくとは思えぬが故に──」
「そのように見たと。むふう……なるほどのう。武中の、われぇの云う通りやもしれんのう」
五郎兵衛は、感心したように云った。
「うむ……じゃが、向こうが一枚上手じゃったか、弥平とやらは拐われた。──おそらくは、先ほどのあれにのう。あれは……」
「間違いなく人ならざるもの」
「妖怪変化か……或いは、邪宗門徒どもの手の者──話に聞く、邪なる神の一味か」
そこで、にわかにふたりは沈黙した。それは何故かと申せば、彼らの耳は奇妙な物音を聞きつけたからであった。
「するり」
「ぺたっ」
「つーー……」
「するり」
「ぺたり」
「ついーー……」
──あの、跫音であった。それは、ひとつやふたつではない。幾つもの奇怪なる跫音が、村のあちらこちらから、聞こえてきたのである。
「……」
「……むおっ!?」
八九郎は思わず声をもらした。何故ならばそこにあった光景は、この世ならざるものであったからである。
数百名の、人、人、人! しかしながらそれを人と云うは、あまりに冒瀆的であるやもしれぬ。それらは腰を屈め、上体を曲げ、しゃがみ込んだままの姿勢にて移動していた。皆一様に、頭が異様に大きかった。その顎の下の皮膚は大きく弛んでおり──おそらくは呼吸に合わせ、風船が膨れ萎みするがごとくに動いているのであった。
それらは、飛び跳ねるように動き前へと移動していた。顎下が伸び縮みする様もあって、蛙のごとき両棲生物を、このふたりの忍者に思い起こさせた。
「な……なんや……? なんやこりゃあ?」
「な、なんなのじゃ……」
それらがどこから湧いて出たか、ふたりの忍者には想像もつかなかった。だが、それらが今ここに現実として存在しておるのは確かな、紛れもない事実であった。つまりは、今までどこぞへと隠れ潜んでいたこととなる。
「……」
「……」
ふたりは、恐ろしい想像に取り憑かれた。──あの両棲人どもは、もしかすれば我らがこの村へと入り込んだその時からすでに、決して気取られることなく物陰よりこちらの様子を窺っていたのではないか? 頃合いを見て、一気に押し包むために──
恐怖が全身を支配しつつあった。だが、これしきのことで身を凍らせては、とても忍者は勤まらぬ。彼らふたりは、その気配を消した。下からは決して見えぬ屋根の上にて、己の身をただの木石と化したのである。
──忍法『鶉隠れ』──己の身を縮め、気配を完全に消し、呼吸すらも最小限度しか行わぬ隠れ技がひとつ。これを最も得意としていた者らは、伊賀忍者たちである。彼らは時として、“伊賀の忍者は石と化す。槍で突かれても刀で斬られても声ひとつあげぬ” と謳われたものである。
その術を用いたふたりを、この両棲人どもはついに見つけられなかったものとみえ、永遠とも感じられるような長い長い間、ふたりの潜む民屋の周りをひとしきりにこれでもかと廻りまわった後のこと──ついにあきらめたとみえ、皆が皆一様に、海のほうを目指して歩き──飛び跳ねてゆくのであった。
「よい、武中の……」
すっかり周囲の気配が消え失せた後に、五郎兵衛がそのように声をかけると、
「ああ、五郎兵衛。これは只事ならぬ。なんとしてでもあやつらの正体を探らねばのう」
と、八九郎は云い、その身を起こすのであった。
「ほじゃのう……あんなもん、放っておけば必ずや天下に仇をなすわいな……時間はない……こりゃあいっちょ、わしらで退治するよりないわしゃ!」
五郎兵衛も立ち上がる。──ふたりは顔を見合わせてうなづくや、音もなく屋根より飛び降りた。粘液にまみれた地上にても、何ら滑ることもなく音ひとつ立てぬ。
「よっしゃよっしゃ……」
「後を追うかいのう」
金剛杖を手にした編笠坊主と、袴姿の若衆は、ふたり連れ立って夜の海辺を走った。忍法『忍び足』にて、一切の気配を消したままに音もなく走る。だが、その速度は抑えてある。相手は数百、数の不利は大きすぎた。下手に追いつけば、その数にて押し包まれかねぬ。故に、一定の距離を保ちつつ、ふたりは両棲人どもの後を追うのであった。
波音も間近に聞こえるような海のすぐ際まで、両棲人どもは来ていた。ここは浜辺ではなく磯辺。砂浜に非ざる岩場であった。滑りやすい岩がごろごろとしておる。そのような岩場を、両棲人どもは跳んで降りてゆく。──その先は……海であった。
「どぼん」
「どぼお」
「どっぼぉ」
「どぶん」
と、水音を立て、両棲人どもは次々と海中にその姿を消す。何十、何百と云う数のそれらが、規則的な──時に或いは不規則な水音を立てて飛び込んでゆく海を、しばし離れた高台の上より、五郎兵衛と八九郎は睨んでいた。
「くう〜〜……あかんねや……海ン中ではどうもこうもならんわい! 忽那か……祝のヤツがおったらのう……っ!」
五郎兵衛の云う忽那とは、『水忍』忽那七郎のことである。『水遁の術』を得意とする彼ならば、水の中はむしろ彼の領域であった。
対する祝とは、『金忍』祝六郎のことである。彼はもともとは、ここ瀬戸内の海に浮かぶ島の出であり、かつての海賊の血を引く男。やはり、水上、水中にての戦いはお手の物であった。
だが、そのようなことを今更悔いても仕方がない。しかしながらこのままではこのふたりのどちらにも、手が出ぬのは事実。
「むはあぁぁ……」
「ぐむうぅぅ……」
気味の悪いものより逃れられた安堵と、眼の前にて取り逃がしたる悔しさとの入り混じった声が、ふたりの口より漏れ出た。
だが、その後のこと。
その時、不思議なことが起こった。
ちょうど最後の両棲人が海中にその身を消してよりしばらくの後のことである。にわかに、海鳴りが響いた。それは次第に大きなものとなってゆき、響くと云うよりもむしろ轟くと云うが正しいような、そのようなものとなった。
「ふあぁ? なんぞこれは!?」
「むおおーーっ!」
ふたりは、思わずそのような叫びを上げた。眼の前に起きた事実が信じられなかったのである。
──真っ暗な海が、突如として青緑色の光をある一点より放ったのを見たのも束の間。その光の煌めくちょうど中心点より、白波の泡立つのが見えた。そしてそこを中心として、内より外へと同心円状に波が走ってゆくのを見た。津波である。押し寄せる海水は、やがてふたりのいる高台までも迫ってきそうな勢いにて、広がってゆくのであった。
だが、なんとも奇怪なことに、津波は浜まで押し寄せてこなかった。波は八九郎らの眼前にてふたつに分かれ、海を割って海底を露出させるに至った。──まるで摩西の十戒である。そしてその露出した海底は、道のように沖へと伸びていた。その先にあったものは──
「な、なんじゃあ?」
「島……のようじゃ」
砂州がごとく伸びる海底を経て、突如として現れた島と浜とがつながった。道は、にわかに開けた。八九郎と五郎兵衛は、吸い込まれるように浜へと駆け寄り、砂州を走る。島へ向かって一直線に──己の出せる最高速度にて走った。
島は、奇怪を極めていた。鼻が痛くなるほどのなまぐさい腐臭──先ほど両棲人どもの落とした粘液が放つと同じもの──に包まれており、そして何よりもその威容は奇妙奇天烈なるものであると云える。そこには、城のごとき建造物がそびえていた。だが、それはこのふたりの知るいかなるものとも異なった姿をしていた。
彼らが絵巻物でしか見たことのない西洋建築──いや、確かにそれと似た、石造りの建物には違いがなかったが、しかしながらその設計は、図面を引いた者が正気とはとても思えぬ姿をしていた。
幾何学が狂っているのである。無秩序に伸びる曲線がその基本設計となすこの建物は、見ているだけで足がふらつき、船に酔ったような感覚をふたりに覚えさせた。胸の悪くなるような腐臭も相まって、ふたりはたびたび吐き気を催したがそこは忍者。ぐっとこらえ、濡れた海藻の散らばる道を行き、奥へと進むのであった。
奥は、なにもかもがおかしかった。通常のものと比較すると建物の内部が斜めに傾いており、かつ、構造物のすべてがふたりの眼には天地逆とみえた。それは、まるで逆さになった鳥居のような、奇妙な柱がそう思わせていたのやもしれぬ。
その頂に──いや、至るところには奇妙な石像が鎮座していた。彼らふたりの見たこともない服装をした、人身魚足の像──それらがいくつも立ち並ぶ様は、平衡感覚と云うものをこの忍者から奪い取らんとばかりであった。
「不気味じゃあ……まさか竜宮城は、こんなものではあるまいよ」
五郎兵衛は、そのような感想を述べた。
「そうじゃのう。鯛も平目も、乙姫もおらぬわい」
八九郎は、それに答えて云う。しかしまあこのような軽口も、どこかよそよそしく聞こえるは、この謎の建造物の不気味な様が、そうさせておったのか。
やがて、長い回廊に行き当たった。その両端にそびえる壁には、一面に壁画が刻まれていた。
刻まれておる文字はふたりにはまるで読めぬ。だが、壁画そのものは絵であるため、なんとはなしに理解できた。──その内容たるや、恐るべきもの。どうも、八九郎らと同じ姿をした人より、あの両棲人どもと思しきものらが陸を追われたのであったが、しかしながら彼ら両棲人は海中にてその態勢を整え、期を狙ってふたたび陸へと攻め込み、これを取り戻さんとする気概が感じられた。
──これは、穏やかならぬこと。つまりは戦さをしかけると云うことである。これに、ふたりは口にこそ出さなかったが、かつて戦国の世にて起きた乱──島原の乱を思い起こさせた。あれも、切支丹と云う邪宗門徒らが、邪神を崇め奉り、徳川幕府に向けて起こした乱であった。
──それが、今起ころうとしている。ふたりはそのような予感にとらわれた。
長い長い回廊を、やがてふたりは抜けた。その先に広がっていた空間は、とてつもなく広い──まるで奈良の大仏様を収めた大仏殿のごときものであったが、しかしながらそこをびっしりと埋め尽くす数の両棲人どもを見た瞬間に、八九郎と五郎兵衛の全身の毛は逆立つのであった。
「くわあぁ!」
「ふほあぁ!」
その叫びは、とても大きなものであったが、しかしながらその叫びも、ほぼ時を同じくして両棲人どもの読経の大合唱の前にはかき消されてしまうのであった。
「噴狂い、無狂う莫不、九刀流流家有我殴る、双郡!」
──あの経文は、そのように読んだのか。狂乱を帯びる意識の中、ふたりはそのようなことを思う。
そのような中に幾重にも反響を重ね、読経の大合唱は続く。
「噴狂い、無狂う莫不、九刀流流家有我殴る、双郡!」
「噴狂い、無狂う莫不、九刀流流家有我殴る、双郡!」
「ふんぐるい、むぐるうなふ、くとうりゅう、る=いえー、うがなぐる、ふたぐん!」
「ふんぐるい、むぐるうなふ、くとうりゅう、る=いえー、うがなぐる、ふたぐん!」
「ふんぐるい、むぐるうなふ、クトゥルー、ル=イエー、うがなぐる、ふたぐん!」
『九刀流』──それは、五郎兵衛も八九郎も知るよしもなかったが、これは邪神の一柱にて、ここ八九郎らがいる場所とはまるで異なる、夜空に輝く星空の外より降臨したるまったくの未知なるものであった。
このなんとも名状しがたいものは、さながら大仏様がごとくに、両棲人どもの前方にて鎮座していた。しかしそれが仏像に非ず、正真正銘の生きた本物であることは、それがわずかに上下して動いており、閉じられた瞼が時折ぴくりと動くことからして明白なることであった。
その姿、蛸とも烏賊ともつかぬ頭足生物の頭を持った、蝙蝠のごとき翼を生やしたる魔龍! この異形なるおぞましき名状しがたいものを神として崇めるは、邪宗門徒──すなわちこの両棲人どもであった。
そして、『流家』こそ、ふたりが今ここに立っておる場所──遥かなる太古に海底に沈み去った、魔の都の名であった。
これら、両棲人どもが邪神を崇め奉る様は、先ほど回廊にて刻まれていた壁画と、まこと瓜ふたつであった。すると、この後のことも同じと見てよいであろう。
しかしそれは絶対に許されぬ。──なぜならばその後に刻まれておったものは──地上攻撃……そして、地上侵略の後に築かれる両棲人どもの千年王国の姿であった。
そのようなことは、断じて許されぬ。この日ノ本の國を治める、徳川幕府に弓引くことに他ならぬからであった。
八九郎と五郎兵衛のふたりは、これら邪宗門徒どもを討つ決意を固めた。
「お……おのれぇ邪宗門徒ども……」
五郎兵衛は、腹の底よりようやく絞り出したる声にて、そのように云う。右手に握る金剛杖を振り上げて、この両棲人の集団の中へとなぐり込む構えをみせた。
「……」
八九郎もそれに続き、左手にて抜刀の構えをみせる。──ゆっくりと、しかし息をひそめ、ふたりは邪宗門徒らの背後へと忍び寄る。ひとりでも多くのこの生かしてはならぬものらの生命を絶たんとのことであった。
無論、数の不利は明らかである。だが、もはやそれを気にしてなどいられぬ。壁画によれば──もうこの両棲人どもが祈りを終えるであろうことは必定であった。そうなれば、これらはすぐにでも陸に向けて奇襲をかけるであろう。
そのようなことが起きてからでは止められぬ。故に、ふたりは戦の起きる前に逆に奇襲をかけると云うにすべての望みをかけたのであった。
──事は、突然起こった。
「うおおおおおおおおおおおおおお!」
「くおおおおおおおおおおおおおお!」
雄叫びとともに、五郎兵衛と八九郎のふたりは祈りを捧げる最中にあった両棲人どもの背後より斬りかかった。粘液が、そして血液が飛び散り、臓物が、脳髄が刀による傷口から斬られ溢れ、或いは金剛杖にて潰れひしゃげて損傷を受けてゆく。たちまちのうちに、いくつもの生命がそこに奪われた。
「ぐげっ?」
「げえ?」
「ぐぼ?」
「がぼぼーーっ!」
出鼻を挫かれるは、誰でもが弱い。しかもそれが今まさに攻撃を開始せんと気運を上げておった最中ならなおさらのこと。抵抗らしい抵抗もせず、両棲人どもは死んでゆく。──その中にはあの弥平──二番町にある夕霧の店より姿を消した、あの弥平──の姿もあったが、しかしながら五郎兵衛も八九郎も、それには気づかなかった。
無論、ふたりが完全に戦闘体勢に入っており、倒したる敵に気を向ける余裕などなかったこともあったが──しかしその時すでに弥平の肉体は人のものではなく、この完全なる両棲生物のものへと変貌を遂げ終えた後のものであったからであった。
彼らはもはや人とは呼べぬ姿──硝子球を嵌め込んだような大きな眼、柱を失いふたつの孔のみとなった鼻、鱶鮫のごとき、列をなして並ぶ牙、鰭を生じたる手足、そして、たるんだ皮膚に切れ目のごとく刻まれた鰓──そのようなものを有したる異形の存在と化していたからであった。
これら数百名の者は恐慌状態に陥った。だがしかし、己らを害せんとするこの2匹の哺乳生物に、立ち向かわんとする者らも当然ながらいた。それらは、次第にその数を増してゆく。闘争心が伝播し、恐慌状態より立ち直らせていたのである。
やがて八九郎と五郎兵衛は、それら戦闘体勢にある両棲人の群れに囲まれた。周りは、すっかり十重二十重に固められた。もはやこれ以上討ち進むは不可能。──だが血路を開き、退路をつくるもまた、不可能であった。
万事休す。その時、それら両棲人の遥か向こうに鎮座する、『九刀流』の閉じられた瞼が動くを、ふたりは確かに見た。その瞬間、ふたりは悟った。何をか?──それは、“それが見てはならぬもの” と云うことであった。おそらく──それを見た瞬間に、彼らふたりの正気は一瞬にして失われ、精神は完全に崩壊してもう2度ともとには戻らぬものとなっていたであろうことを。
──そうなれば、もはや勝機は完全に消え失せる。ふたりの忍者は、ここ流家にて屍を晒すこととなる。
そのようなことは断じてあってはならぬ。それは、徳川の世が終わることと同義──否。徳川幕府はおろか、日ノ本の國どころか大清國を超えて露西亞、伊太利、英國、米國を含めた世界すべてが終わりを迎えることと同じことを意味するのであった。
故に、『雷忍』鵜久森五郎兵衛は、本来ならばその使用には頭領の許可を必要とする禁断の術──『禁止忍法』を使うことを決めたのであった。
「ふわあああーーっ! 頭領! お許しなされい! 今ここにこのわしは掟に叛く! くおおーーっ! 忍法封印いま破る! 禁止忍法『失封神雷』ーーっ!」
超高圧の雷流が、そこにほとばしった。神をも殺すと云われ恐れられる数千万伏にもなる電撃は、落雷のものを遥かに超えていた。両棲人らの発する粘液を伝い、それらは彼らを撃った。それは肉を焼き、骨を焦がし、脊髄、脳髄を含む臓腑のすべてを焼き焦がし、燃やし尽くした。その雷流は放射状に流れ、両棲人どものことごとくをほぼ即死させ、絶命に追い込むのであった。
その恐るべき雷撃は、両棲生物どもを超えてその後方に鎮座する九刀流にまで達した。肉の焼け焦げる匂い、血液の沸騰する際に生じる特有の蒸気。舞い上がるそれらとともに猛烈な臭気が漂い満ちる。狂気。狂気を帯びた叫びが、九刀流の口より上がる。恐ろしい。恐ろしい声。この世のいかなる生物の声とも違う、名状しがたき叫び。地鳴りのごとく鳴り響くその叫びを耳にした五郎兵衛も八九郎も、そこでその意識の糸をついに途切れされるに至った──
さて、この後のことは、詳しくは後世に伝わっておらぬ。わずかに、いくらかの文献が散見されるのみであった。それらのことごとくは、著しく信憑性に欠けるものである。そのいづれもが──憶測と予断と主観に満ちたものであり、客観的な視点より書かれたるものは絶無であると云えた。
しかしながら、それら書物に書かれたいくらかの断片より推測するに、その時瀬戸内の海にて変事が起こり、それが伊豫忍軍の手によって解決に至ったと云うことが、おぼろげながらに見えてくるのも、また事実であった。
その者2名の名は、文献によって異なるが、それら様々なる文献の発見されたすべてに眼を通した結果──それがどうやら武中八九郎と、鵜久森五郎兵衛と云うものであったとするが、おそらくは正しいのではないか? との、ことである。
そのような、忍者のひとりとされる八九郎の日記より、この件について触れているであろうとされる箇所を抜き出して、此度の事件の顚末と代えるものとする。
それは、次のようなものであった──
“万延元年八月十二日
わしは奇怪なる事件に巻き込まれ、ひどい目に遭うた。それもこれもすべては、女子の云うことを軽々しく聞いたからである。まこと、安請け合いはせぬほうがよいと、つくづく思う。
さて、あの後に夜が明けた時、わしと五郎兵衛は三津浜の港に横たわっておった。蛙人どもも九刀流なる邪なる神も、すでにどこにもおらなんだ。
あれは夢ではなかったかと、わしも五郎兵衛も時たま思うことがある。しかしながらあのような夢が、しかもふたり揃って見るようなことがあろうか? いや、ないのではないか? しからば、やはりあれは夢まぼろしのことならず、まこと現世のこととするより他になし。
しかし、あれがまことのことなれば、幕府に弓引く不届者どもは残らず、五郎兵衛が始末したこととなろう。わしらは枕を高くして寝ることができるようになったと、そのようになろう。
じゃが、最近になってわしは、時としてあの匂いを鼻にすることがある。魚と、腐り水と、磯の匂いと、汚泥とが混ざったような、あの胸の悪くなるような匂いを。
そのような匂いが、今まさにこの時にしておる。これは、いかなることか? あれらはすべてが死に絶え、あれは島ごとふたたび海に沈んだ筈じゃあ。もはやあのような匂いなど、しよう筈もない。
暑い。蒸し暑い。わしは障子をすこしばかり空かした。するとどうじゃ? そこにはあの胸の悪くなる匂いがしておるではないか。その匂いを運ぶなまぬるい風の向こうには、あの話を持ってきおった張本人、夕霧めが庭先に立っておるがみえたではないか。はしたなくもしゃがみ込み、魚柄の下帯がみえておる。まこと、嗜みと云うものが微塵もない。破廉恥の極みじゃあ。あのような者は、嫁にしとうない。
何故ならその顔はすでにあの美しきものではなかったからじゃ。ぎやまん球を嵌め込んだような、濁った魚のような眼が、こちらを虚ろに見ておるがみえる。笑ったような口からは、鱶鮫のごとき牙がひとすじに並んでおる。わしはそのような鱗魚人を嫁にする趣味などないわ。
すこしばかり、眼が合うた気がした。わしは静かに障子を閉めた。大丈夫じゃ。気取られてはいまい。ここにおる限り、ここに籠城しておる限り、わしの身の安全は確実なことじゃ。大丈夫じゃ、問題ないわい。わしはこのようなところでは終わらぬ。わしはここでは死ねぬ。あの者、あの忌々しき豆チビ、田中次左衛門めを斬るまでは死ねぬ。だいいち、あやつめがそのうち気づこう。わしが登城せぬを不審に思い、ここへ来るは当然の成り行きじゃあ。わしは死なぬ。ここにおる限りはのう。ここは、ただの長屋には非ず。ここは伊豫忍軍が築いたる、忍者屋敷と同じ造りじゃあ。この障子紙とてただの紙ではない。燃えず、斬れず、破れずの三拍子揃った特別製じゃあ。矢でも鉄砲でも大筒でも小烏丸でも小太刀でも持って参れ。大丈夫じゃ問題ない。ここにおる限り、わしは死なぬわい。そのうち次左衛門めが助けにくるわい。大丈夫じゃ、問題ないわい。
なにやら、奇妙な音がする。なにやらぬめりを帯びたものが、門扉にぶつかる音じゃ。水音が鳴る。あの匂いが漂い、こちらに近づいてきおる。もはやこれまでか。否。ここにおる限り大丈夫じゃ問題ない。わしは鶉隠れの術を用いておる。見つけられはせぬ。大丈夫じゃ問題ない。おお、神様仏様上様、じゃがあの手はなんじゃ! 障子に! 障子に!”
降りしきる雨の中、銃声が轟く。そんな大雨の中、伊豫松山のお城にて、伊豫忍軍の主力らが集結す。
しかし、そこに頭領の姿はなく、代わりに事を取り仕切るは忍頭の次左衛門であった。
不審に思う一同。そのような彼らに向けて、次左衛門とお千代の口より信じられぬ言葉が語られる。
次回、忍法血風録!「雨に撃たれるために」
──俺の種子島からは、逃れられん──