霞色の夜桜
明けて次の日のこと。刻限を守り登城した八九郎の顔面には、大きな痣がついていた。これは、昨日の昼中に次左衛門の忍法によって土中へと埋められた際には、断じてなかったものであった。
「お早うござりますな、武中殿」
八九郎に向けてそのように挨拶をするは、伊豫忍軍がひとり、忽那七郎であった。八九郎よりは背は低いが、しかしながら次左衛門のような小男と云うわけでもない。麗しき美男子にて、世が戦国の時ならば衆道の相手方として、引く手数多であったであろう。
「ああ、七郎か。お早うござる」
挨拶を返す八九郎。挨拶は忍者の基本である。これを怠れば、例えその相手が上様であっても、身も凍るような恐ろしい罰が待ち受けている。この掟は鉄の掟であり、例え征夷大将軍であっても破ることは許されぬ。
「相変わらず、おぬしは朝が早いのう。ふわあぁぁ…… う〜〜ん……わしなどこんな早くになぞ起きられぬぞ……何故このような朝も早うからお城勤めなぞせねばならぬのじゃ……」
八九郎は、碌に寝ておらぬものとみえ、欠伸を挟みながらそのように云った。
「何を申すか。陽はすぐに暮れる。すこしでも長く修行をせねば、立派な忍者にはなれぬぞ!」
七郎は笑みを浮かべながら、爽やかなる声にてそのように云った。水のように澄み渡る瞳は、朝陽を浴びて輝きをみせていた。
「ふん……わしは別に、忍者になどなりとうないわい……」
八九郎はそのように云うと、不意にこちらのほうを向いて云う。
「む? これか? むう……この顔の痣、そんなに気になるか?」
七郎もこれに続き、
「まあ、気になりまするわいな。こんな大判のような痣が顔の真ん中についていては」
と、やはりこちらを向いて云う。
「ふははは! そうか、そうか! そんなに気になるか〜〜! ならば、特別に教えてやろうわい。わしも、誰ぞに話さねば気が済まぬからのう……じゃが、決してあの豆チビには云うでないぞ、だいたいあやつのせいで、このようなことになったのじゃからのう……」
時刻は、昨夜のこと。とっぷりと暮れた町の中を離れ、田の並ぶ道を行き家路へと向かう八九郎は、提灯すら持っていなかった。
徳川時代の夜は暗い。放電燈やガス燈が夜の街を照らすようになったのは明治時代、文明開化の後のことである。そのようなものの存在せぬこの時代にては、間隔を置いて設けられた常夜燈、及び月の光のみが街を照らす明かりであった。
今宵は、生憎と雲が出ており、しかも新月が重なっておったがために真っ暗闇であった。提灯も持たずに夜道を歩くは、莫迦の行いであると云えよう。
だが、これも仕方のないこと。八九郎はつい先ほどまで土中に埋められておったがため、とてもそのような明かりを手に入れる暇はなかったのであった。その時、すでに逢魔刻。陽が落ちるまでもはや間がなかった。急ぎ家へと帰らねば、いよいよ間に合わぬ。そこで八九郎はそのままの手ぶらにて家路へと向かう羽目に陥っていたのであった。
「いかんのう……まるで何も見えぬのう……」
そのようなひとり言を云いながら、闇夜の道を歩く八九郎。どうにも眼が慣れぬ。これは、普段では考えられぬことではあったが、しかしながらこれも本日の疲れのためかと、八九郎は思っていたのであった。
「それにしてもなんじゃあ……蕎麦屋の屋台すら出ておらぬか。むう……淋しいものじゃわい」
腹が減ってきた。いよいよ家が恋しい。自然と足を速める八九郎であったが──やがて何物かに蹴つまづき、前のめりに転ぶのであった。
「むおっ! くはっ! だ、誰じゃあ? こんなところに塵芥を捨ておったのは?」
倒れたままに、そのように叫ぶ八九郎。しかしながら地面近くに眼を遣れば、さすがに真っ暗闇ではないとみえ、次第にうすらぼんやりとものが見えて来だすのであった。
「──むう! これは……」
そこには、男が倒れていた。髷のかたちから推測するに、どうやら町人であるらしい。眼を見開いたままに、仰向けに倒れている。──一見、死んでおるようにも見えたが、しかしながら八九郎が頸に手を当ててみたところによると、脈は打っていた。生きている証である。
「こらあっ! こんなところで寝ておるヤツがあるか! 起きいっ! 起きんか!」
八九郎はそのように云いながら男の身体を揺すり動かすがしかし、男はそこに硬直したままに、まるで起きる様子もみせぬ。
奇妙な匂い──栗の木が放つような、蒸れたような匂いが漂っていた。八九郎はそれを、混ぜ物の多い安酒の匂いととった。
「ええい! 酔っぱらいが……仕方のないヤツじゃ」
八九郎はそのように云って立ち上がる。起こすことを放棄したのである。だが、このまま打ち捨てて帰るには些か寝醒めが悪い。そこで八九郎は引き返し、医者をたたき起こして連れて来んと、もと来た道を歩き出すのであった。
行けども行けども、町へはつかぬ。道を行く者の提灯はおろか、常夜燈の火すら見えぬ。
──これは、奇怪なこと。そのように八九郎が思ったその時すでに、彼はこの妖しき術中へと、はまっていたのであった。
(これは……只事ではない!)
八九郎は腰に差した刀を抜いた。得意の逆手抜刀にて瞬時に露わとなった刀身に、なにやらきらりと反射する光があった。
「む?」
それは、火の光。いつしか八九郎の左後方には、宙に浮き蒼白く燃え盛る火の玉が、ゆらゆらと揺れていたのであった。
「くうっ? 人魂!?」
怪光を放つ火の玉を見て、八九郎はそのように云った。途端、八九郎の顔面には汗が噴き出流れ出し、背筋には冷たいものが走る。まるで氷の芯を背骨に突っ込まれたような、そのような感覚が彼を襲うのであった。
──妖怪変化! 徳川時代とはそのような恐るべきあやかしどもが跋扈する時代であった。日輪の天に輝く刻は人の時間なれど、ひと度陽が落ちるや、そこは物の怪の類の支配する時間となる。逢魔刻とは、そのようなあやかしが活動をはじめる刻のこと。云わんや、辺りが闇に包まれてより後の時刻は、それらの領域と化すのである。
「ぐぐぐぐ……」
このようなことは、初体験である。噂には聞いてはいたものの、剛の者たる剣士八九郎はそのような妖怪変化の噂を一笑に付していた。しかしだからこそ、いざそのようなことが己の身に降りかかると弱い。──人は皆、想定外の事態に極めて弱いものなのである。
恐怖が身を包む。決してぶれぬ剣先がわずかな震えを見せた。堪えようともそれは収まらず、膝までもが笑うように震えをはじめる始末。断じてこのような様は人には見せられるものではない。
そのためか、そのような己の情けない様を客観的に見て悟ったか、八九郎は不意に弾かれたように飛び出して、澱みなき動きにて人魂へと斬りかかるのであった。
「くおおーーっ!」
見事な斬撃であった。燃え盛る炎は空中にて縦にふたつに割られ、そして消えた。
「──ふう……ふう……驚かせおって……」
しばし、残心の構えのままにて固まっていた八九郎であったが、やがて安心を取り戻したか、肩を上下させながらそのように声を発するのであった。
だが、驚くのはこれからであった。正眼にて構えられた刀身が、ふたたび輝きを放ったのである。反射光──刀身が輝いているのではなく、何かしらの放つ光を浴びているのである。
ふたたび、振り返る八九郎。その眼に映るは──
「おおおおおおお!?」
そこにあったは、火! 火! 火! 10や20ではきかぬ、蒼白き燐光の群れ! それは、恐れ慄く八九郎の左右へと分かれ広がり──やがて周りを取り囲んだ。ゆっくりとしかしゆらゆらと、不気味に揺れ動く人魂は左廻りにて、不気味に廻り出すのであった。
「──くうううう……」
八九郎の身体は、嫌な汗にまみれていた。髷を整える油は汗にて流れ落ち、犬の尾のごとくに乱れた髷が月代に貼りついていたが、それを直す余裕など、今の八九郎にはなかった。
不気味な感覚に、肝を冷やされていたのである。
その感覚の不気味さの根源は、光にあった。火の玉の群れの放つ光は、刀には反射していたものの決して八九郎の身を照らすことはなかった。己の身体はまるで影絵のごとく真っ暗なままであったのだ。さらに、照らされた地面には、影がなかった。火の玉の影はそこに存在せず、己の影もまた奇怪なことにそこにはなく、ただぼんやりと光を反射する地面が円形に広がるのみであった。
「ぐぐぐぐ……」
常人ならば、とうに発狂しているであろうこの光景に、しかし八九郎は必死に耐えて正気を保っていた。今にも上げてしまいそうな悲鳴を、懐紙を咥えることによって堪えていた。もし叫べば、たちまち狂ってしまいそうな予感がしたからである。──そしてその予感は、的中していたのである。
「火〜〜ッ火ッ火ッ火ッ……」
物陰より、かすかにそのような声が漏れ聞こえた。この恐るべき事態を引き起こしたる張本人である。
「帰ろうかとも思うておったが、やはり胎に当たらぬは不満足と、残っておればこれは、これは、素敵な殿方……良き種を持っていそうな」
その者、白無垢の婚礼衣装を身につけたる女子。白粉を振った顔には紅が引かれ、妖しくも美しい様をその蒼白き光に照らしていた。
「2匹目の泥鰌などおらぬと云うが、まんまとふたり目が来おった! ほっほほほ! 妾はトンだ果報者よのう!」
女子は、爛々と輝く瞳にて、遠くに見える八九郎を眺めていた。そのような彼女の足元には、しっかりと影が存在していた。ここは、八九郎のいる場所とは異なり、れっきとした平常世界。なれど、今現在八九郎がいるその場所は、この世の理の通じぬ、一種の亜空間──擬似空間の類のひとつなのであった。
「さて、さて? 妾を満足させる者か、否か? 妾に仔をなさしめる相手なるか? おほほほほ……」
女子は、じつにうれしそうな、嗜虐心を帯びた声にて、そのように云うのであった。
さてしかし、そのような黒幕がいるなどとは露知らぬ八九郎は、ともすれば失われてしまいそうな正気を己自身へと留めおくことに終始していた。恐怖。己が己でなくなってしまうことへの恐怖! それが、狂気への序曲であることを本能的に理解していた八九郎は、半ば無意識のうちに、己の生き残る道を探りはじめていたのであった。
「…………」
八九郎の眼が、閉じられた。正眼に構えられていた剣が、不意に鞘へと納められた。──觀念し、戦いをあきらめたのか? 否。八九郎はそのような男ではない。この男はこと生き残ることにかけては、見苦しいほどに貪欲なのである。
では、何故このような暴挙ともとれる行いに出たのか?──それは、彼自身にもわからぬであろう。何故ならばこれは、無意識のなせる業──彼自身の意志の介在せぬ、反射的な行動であったからであった。
「むむむぅ???」
だが、それ故に、八九郎の行いは理解できぬものであった。己にもわからぬのであるから、云わんや余の者にわかるハズもない。この異常行動を眺める女子は、眼を見開き身を乗り出し、爛々と輝くその眼を八九郎に注いだのである。
すべての意識は、八九郎に注がれた。
そう──この女子の集中力はすべてが八九郎に注がれたのである。一瞬のことではあったが。だが、そのようなほんの一瞬の出来事を、研ぎ澄まされた八九郎の感覚は逃さなかった。わずかな気のゆるみ、わずかな呼吸の乱れ。それによって生じる、この擬似空間のゆるみ、揺らぎを、八九郎は感じ取ったのであった。
──そこかっ!
その乱れの方角を、汗に濡れた地肌──月代の部分に触れる風の冷たさに感じ取った八九郎は、眼を閉じたままに振り返り、その方角へと一心不乱に走り出した。
その行く先には、揺れる火の玉。だが、眼を閉じた八九郎には、それはわからぬ。たちまち双方の距離が近づく。10間(約18米)、5間、1間──
八九郎の身体が、火の玉と触れあった。しかしながらそれはほんの瞬き一瞬のこと。すり抜けるがごとく、双方はふたたび離れた。みるみるうちに、距離が開く。しかしながら、ほんの3間(約5米半)も行かぬうち。
「ぬえぇぇい!」
と、気合いも一閃。野太い声とともに、ぎらりと一瞬刃が蒼白き光を浴びて鈍く輝いたのであった。
──それが、まるで合図であったかのように、
「ぎええぇぇぇぇぇぇぇぇぇあ!」
と、甲高い、しかしながらどこか濁りを帯びた叫び声が、八九郎の後方にて上がるのであった。
後には、女子が倒れていた。その術の一瞬のゆるみを気取られ、自らの位置を察知された彼女は、その身を翻す前に八九郎の逆手居合を受けて一刀のもとに斬られたのであった。
その傷口からは、啾々と云う音とともに、なんともなまぐさい匂いが立ち昇っているのであった。
「くうう……くさいのう……わしの刀、錆びはせぬかのう?」
刀身を見つめる八九郎。未だ蒼白き光を浴びて輝くその刀身は、べっとりと血に濡れていた。それは人の血ならざる、まこと異な血糊であった。
「なんじゃあ? これは……」
そのように八九郎が云った、次の瞬間のこと。
「それは、あやかしの者にござりますのう」
そのような声が、八九郎の背後にて響く。
「何奴!」
前を向いたままに、逆手に握ったままの刀を自らの背後に向けて突き放つ八九郎。その剣先は正確に、声の主をめがけて突き出された。
しかし──
「かつん」と、何とも云えぬ音とともに、明らかに人体へと突き立ったものではない手ごたえが、八九郎の左手へと伝わった。
その剣先が突き立ったそれより抜かれる前に、
「わたくしでござります。そなたが同役、忽那七郎にござりまする」
と、声の主は名乗るのであった。
「忽那……七郎……おお! そう云えばそのような者がおったのう!」
八九郎は振り返り、そのように云うとともに確かに突き立ったハズの剣先を見る。すると、これはどうしたことであろうか。その剣先は七郎の開かれた右手へと刺さっていたではないか。
──いや、正確には刺さってはおらぬ。七郎の手には暗器の一種たる『手甲鈎』が嵌められており、そしてなんとも奇怪なことに、その右手には水がまとわりついていた。まるで、水飴に手を突っ込んだ後のごとく。
「なんじゃ? それは?」
思わず、そのような珍妙な質問をする八九郎。しかし七郎はそのような珍妙なる問いにもまじめに答え、
「忍法がひとつ、『雨細工』にござりまする」
と、云う。『水遁の術』がひとつにて、水を自在に操り、あらかじめ補給しておいた雨水をまるで飴のごとくに粘化させておき、自在に変化させて柔軟に用いる忍法であった。
「それにしても、見事なる腕前。さすがは、ご城下いちの剣の腕と謳われただけのことはござりますな。──わたくしが助勢する暇ものうござりました」
七郎がそのように云うと、
「なに? 助勢? くわあ! おぬし、何故もっと早うに来なんだんじゃあ! わしは危うく死ぬかと思うたぞ!」
と、八九郎は云う。
「うむ、危ういところにござりました。しかし、ひとつ弁解させて頂くならば、わたくしもついぞ先ほど、ようやくこやつめの放つ妖しき気配を感じ取って参上致した次第にござりまして……いやはや、面目もござりませぬ」
どこまでが本心か、八九郎には量りかねた。まったくの暗闇にて、七郎の表情は窺い知れぬのである。
「ふん!──ん? おぬし、今 “ようやく” と申したか?」
七郎の言葉に、何か思うところあったかそのように訊く八九郎であった。七郎がそれに答えて云うには、
「いかにも。実はわたくしは『頭領』の命を受け、城下にて世を騒がす妖怪変化どもを追っていたのでござりまする。今しがたそなたが斬り申したその者も、その中のひとつ──いやはや、しかし、なかなか尻尾を出さぬ難敵であり申したが、汝が活躍にてこの件は解決と相成り申した!──まこと、かたじけのうござりまする」
と、云うものであった。
礼を云われては、悪い気はせぬ。八九郎は刀を納めると、今しがた己が斬ったものを見下ろすのであった。
啾々と音を立てるその妖しき屍は、やがてその姿を変えた。屍を包む黒い影はじわじわと縮み、人のかたちから獣のかたちへと変化する──そして、怪しき匂いがすっかり弱まった後には、1匹の獣の屍がひとつ、転がっているのであった。
「これは──?」
「狐にござりますな」
「──きつねぇ?」
懐疑的な声を上げる八九郎に対し七郎は、
「左様。そなたも聞いたことはござりましょう。長く生きたる獣は時にあやかしに変ずると。こやつもそれがひとつ。昨今、ご城下にて若き男子衆がたぶらかされ、精気を吸われて腑抜けになる事件がひそかに起こっておりましてな。その下手人が、こやつめであったと云う次第にござりまする」
と、答えるのであった。
「腑抜け……とな?」
「左様、左様。危ないところでござりましたなご同輩。もし万一こやつめの罠に落ちれば、もはや玉は萎び、一物は2度とふたたび役に立たぬ腑抜けとされておりましたぞ!──まあ、それと引き換えに、人たる女子とは比べ物にならぬ快楽がただ1度、腑抜けとなる前に得られるとのことであるが──わたくしは御免被りまするな」
そのような恐るべき結末が待っていようとは。八九郎は、身震いした。
「ぶるるるるっ! わ、わしだって御免被るわい!──だいたい、なぜわしが狙われたのじゃ! わしは狐に嫌われるようなことはしておらぬぞ!」
八九郎がそのように云うと七郎は、
「いや、逆でござりましょう。おそらく、好かれたのかと」
と、答えた。
「好かれたぁ? 何故じゃ? 好いた男子を腑抜けの役立たずにするような女子がどこにおるか。せっかくの一物、どうせなら長く愛しく何度でも楽しみたいものではないのか」
「それは、あくまでも我ら人の理。こやつらあやかしの理は、その外にあり申す。──例えば、蟷螂。あれらは交合をただのいち度しか行わぬ。ひと度快楽の渦に落ち果てたる牡は、そこで精とともに生命も果て、やがて仔を産むため牝の餌食となる。──この化け狐……『妖狐』も、そのような理にて生きておる者と、わたくしは見ておりまする」
「…………」
「或いは、嫉妬深いのやもしれませぬな。考えてもみなされい。たとえ一夜限りの相手とて、それが後日他の者と仲良くしたるを見るは、なかなかに妬ましきものにござりましょう。そこで──腑抜けとするのやもしれませぬ。いち度身体を重ねた愛しの殿方が、2度とふたたび、他なる女子とふたたび交われぬように……」
「ふはあっ!」
そのようなゆがんだ愛情に、背中にうすら寒いものを感じる八九郎。そのような彼に向けて七郎は、
「おそらく、これらあやかしの巷にも、おぬしの名は轟いておったのでござりましょう。なにしろご城下にて、そなたの名を知らぬ者はおりませぬぞご同輩。女子遊びはほどほどになされい。このように白粉の匂いを夜中まで漂わせておれば、10町(約1粁)先からでも嗅ぎつけられ申すぞ」
と、云うのであった。
「むう……その匂いが故に、嗅ぎつけられたと申すか」
「いかにも。先ほどそこにて倒れておったあやつめも、色街の常連にござりました。──『女狐』とは、百戦錬磨の妖女の別名でもござりまする。おそらくは玄人好みの男子の種を好むものと──わたくしは見ておりまする」
「…………」
にわかに吹きはじめた冷たい風が、田の稲を揺らすのであった。
かくして、城下に於ける妖狐騒ぎは、こうして幕を下ろした。伊豫忍軍のはたらきによって、数名の犠牲者を出しただけにとどまり、世を必要以上に騒がすことなく、事件は解決したのであった──
「さすがの八九郎殿も、やはり懲り申したか。まあ──腑抜けになるよりは、まじめに修行することを選ぶは必定でありましょうか? くふふ……」
早朝の城内にて、七郎はそのように云うのであった。
「うわっははは! そりゃあのう! なるほど確かにただのいち度で腑抜けになるほどの女狐と一夜を所望したいとは、一瞬頭をよぎったが、しかし、人生は長い。残る人生を枯れ朽ちて生きるは、やはり嫌じゃからのう! うわっはははあ!」
八九郎は、そのように笑った。顔には、大判のような痣がひとつ、額から顎の上のあたりまでにまたがってついていた。
「んふふ……おお、そうじゃ、そうじゃ。この痣についてじゃったのう。いや、これはのう、あの女狐の仕業ではなくてのう……」
──八九郎が女狐の術中にはまる前。未だ次左衛門によって埋め込まれた地面にはまっている間のことであった。逢魔刻の迫る中、地面に突き立てた刀を両手にて摑み、体重を前にかけてうんうんとうなり続けていた八九郎に向けて、声をかけるものがいた。
「そなたが、武中八九郎か!『忍頭』の命を受け、助けてやりに参ったぞ!」
凛とした声。若き女子の声であった。なるほど、眼を刀の前にやってみれば、そこには細身の白い足がふたつ、八九郎の前に立っていた。
足の持ち主は、髪を後ろ手に束ねた娘。裾のみじかい着物を着ており、そこより伸びる足には甲から膝上にかけてが、藍色の脚絆にて包まれている。この装束は──女忍者たる『くのいち』のものであった。
「む……おぬしは?」
顔を上げる八九郎。そのような彼を見下ろして、くのいちは、
「私の名を忘れたか!? どうしようもない者だなそなたは……私は、そなたの上役たる『頭領』石崎和右衛門が娘、『花忍』お千代だ! どうだ思い出したか?」
と、名乗るのであった。齢の頃は15〜16と云ったところか。八九郎より齢下であるのは確実であろう。
「私は、そなたなど放っておいてもよいと云ったのだがな、『忍頭』が “反省の色あらば助け申せ” と云うので、仕方なく助けに参ったのだ。──どうだ? 心を入れ替えてまじめにはたらく気にはなったか?」
お千代は、そのように訊いた。しかしながら八九郎は返事をせぬ。
「こらっ! 返事をせぬか八九郎! 何を呆けておるかっ!? そなたが心を入れ替えたか、私には未だわからぬ。復唱せい八九郎っ! 私の名を呼んでみろっ!」
ぼんやりと上を向く八九郎は、
「霞色の……夜桜……」
と、答えるのであった。
しばし、時が止まる。しかしながらそれは単なる錯覚にて、実際には時間は相も変わらず流れ続けていた。その証に、まるで水桶に落ちた墨が広がり染めてゆくがごとくに、お千代の顔が赤く染まってゆくではないか。
「この…………痴れ者があっ!」
「くおあああーーっ!」
強烈なお千代の前蹴りが、八九郎の顔面に炸裂した。何故このような無体な行いに出たのか?──それは仕方のないことである。八九郎の発した言葉、“霞色の夜桜” とは、お千代が穿いておる下帯の柄を述べたものであった。土に埋まり、見上げる姿勢の八九郎からは、お千代の着物の下は丸見えであった。それ故に、このような言葉が口より漏れたのであった。
「最低っ! 最低人間だそなたはっ!──くううううっ! このような……このような辱めを受けるとは……っ! 知らぬっ! 知らぬ知らぬ、知らぬううっ!」
両手にて裾を押さえ、お千代はそのように云う。恥ずかしさのあまり涙声となっており、口はわなわなと震えていた。
「知らぬううっ! そなたなどどうなろうと私は知らぬっ! そこで死に、朽ち果て、骨となってもなおそこに埋まっておるがよいわああああああ!」
そのまま、お千代は走り去っていった。
しかしながらその前蹴りの威力たるや本物にて、24貫(約90瓩)なる巨漢の八九郎の身体を、ただの一撃にて穴より膝下までを蹴り出すに至っていたのであった。
かくして八九郎は、穴より抜け出すに成功することができた次第であった。
しかしながらその強烈な蹴りを受けた顔面には、お千代の履いた草履の痕がしっかりと、痣となって残ったと云うわけであった。
「くふふふふ……つ、つまりはこう云う次第よ! いやはやまったく、女子と云うものは、あやかしじゃろうが人間じゃろうが、恐ろしいものよのう。おぬしも、重々気をつけるのじゃぞ? うわっははははあ!」
自らの顔に残る大きな痣を指し、八九郎は高らかに笑うのであった。
世を騒がす妖怪変化との戦いに、苦戦の末に勝利を収めた八九郎であった。
彼は、己が今まで信じて疑わなかった道──この世の理に則った道──と、まるで異なる、この世の理がまるで通じぬ者がこの世に存在することを知る。
それは、妖怪変化にとどまらぬ。今は己の同輩となった、忍者どももそれらと同じく、別の理にて生きておる者らであった。
そのような者らの中へと、知らぬうちに引き込まれて行く八九郎。
それは、己を救う道か。或いは、地獄へと続く顚落への道なのか──?
次回、忍法血風録!「二番町夕霧楼」乞う御期待!