第18話 露見
それは異様な光景であった。妙な気配に満ち満ちていた。ふらりと入ってきた寝所蜜右衛門の身体よりその気配は発されていた。
鬼気迫る表情。眼はやや虚ろな様子は見られどもはっきりと見開かれており、身体の軸もゆらめいてはいるもののしっかりと芯が通っていた。──三四郎や六郎、辺天坊や午訶坊といった手練の面々が一切動かなかったも、「このまま打ち込むには隙がない」とみたがためという理由がひとつにあった。
異様なるは、気配や体軸というもののみに非ず。その見た目もまた異様。身体は汗と埃と、そして煤にまみれており、それらが混ざり合って斑模様を描いていた。
「老翁」
そうした中、蜜右衛門は先ほどの言葉をくり返す。
「いまの話、本当のことかと訊いているのです」
蜜右衛門の問いに、
「あ、兄者、それはのう……」
必死にごまかさんとする鷹蔵にあったが、
「いかにも、本当のことよ。ここにおられる若は──紛うことなき、そこなフランチェスコの血を分けた息子よ」
ギ老は無情にも、ただ真実のみを述べた。
「そうなのですか」
やや震えを帯びた声。起因するは怒りか、それとも悲しみか。だがその顔からはどちらも読み取れぬ。──表情というものがないのである。ただ眼を見開いておるのみにて。
「あ、あ、兄者……」
鷹蔵の様子より、普段の素行はともかく教えについては彼が真っ当で敬虔な切支丹であるは明らか。──ギ老の言葉を否定せぬがその証。今ここに於いて老を否定するは教えを否定するも同じであるがためである。
故に、ごまかそうとはすれど否定はしなかった。──つまり肯定に等しい。だが、ごまかそうとしたは確かである。無理もないこと。認めてしまえば彼は兄嫁に対し不貞をはたらいた大罪人となるがため。──そうなればこの村で生きてゆくは不可能。否、生きてゆくほうがよほどつらい扱いを受ける者へと一気に顚落してしまうやもしれぬ。
それは断じて避けたかった。
──故に。
「兄者がこのような場所に来られるハズがない!」
さらなる罪を、重ねんとした。
「者ども! 出合え! 出合えーーい!」
兄殺しの──大罪を!
「どうしたフランチェスコ!」
「おおっ、うぬらは松山忍者ども!」
「瑞山殿も! いかがした!」
さむらい衆が押しかけた。──これらも切支丹。鷹蔵とギ老とは信仰の力をもって、これらさむらい衆の上に立ち彼らを己の手駒としてまとめ上げるに至ったのである。──さながら、島原の乱に於ける天草四郎と森宗意軒のごとくに。
「兄者を騙る曲者じゃあ!──兄者は残る伊豫忍者どもをしっかりと見張っておるハズじゃからな。おそらくそのうちの1匹でもが化けておるに違いない!──瑞山もその一味よ! 忍者どもと手を組み、我らの教えを根絶やしにしようと企んでおった!」
「鷹蔵、お前んンン……!」
瑞山はうなるが、だが彼が切支丹に与する気が毛頭ないも、また事実。そして己の策を台無しにした鷹蔵とギ老とを除かんと企んだも、また事実にあった。故にやはり彼もさむらい衆に対し鷹蔵の言葉を否定することをしなかった。
くり返しになるが、否定せぬというは肯定も同じである。それがため、
「なんと、瑞山殿が!」
「ええいやはり異教徒は異教徒!」
「神の敵は、斬り捨てるより他になし!」
などと云い、さむらい衆は瑞山と蜜右衛門に刀を向けるに至った。これに蜜右衛門大いに驚き、
「ま、待ちなさい! わたしが偽者ですと!?」
と、云うに至った時である。
「そやつが偽者であろうハズもない! そやつこそ本物の庄屋じゃあ!」
と、叫びながら、障子戸を思い切りぶっ壊して入ってきた者があった。
その名、武中八九郎!
「は、八九郎、わりゃあ、生きとったんか!」
五郎兵衛の声に、
「勝手に人を殺すでないわ!──おぬしこそ無事に生きておったようじゃな」
などと返した八九郎もまた、蜜右衛門と同じく汗と埃と煤にまみれていた。とくに煤は一段とひどく、半身が真っ黒に染まっていたほどである。
「待てえい庄屋!」
「逃しはせぬぞ!」
後に続いて入ってきた田中次左衛門と忽那七郎など全身が真っ黒にて、眼の開いた影法師にしか見えぬ始末である。頭の先から爪先まで煤まみれ。──そればかりか燃えた炭の匂いのすさまじさたるや、たちまちのうちに屋敷の中へと充満するほどにあった。
「うわっぷ! 炭くせえ!」
「どうしたというのだうぬらは!」
その声を発したは鷹蔵か、さむらい衆か、或いは忍者どもか。──わからぬがそれに対する返答は、
「そ、そうでした。──蔵屋敷が燃やされました!」
と、蜜右衛門の口よりなされた。
「なにい? 蔵が燃やされたァ?」
それは容易ならぬ事態であった。あってはならぬ事態であった。鷹蔵にとって──それ以上に、ここに暮らす者にとって。
「は、話が違うやないか!」
それはさむらい衆の傍、側を固める百姓兵から上がった声である。
「一揆はやるが、蔵屋敷には手をつけへん云う話やなかったんか、こら!」
「わしらが必死こいて育てた米のたくわえを、燃やしてしもうた云うんか、こらあ!」
「おどれら、わしら騙くらかしたんか!」
口々にそうした声が上がる。──そして血飛沫も。己の守るべき相手であるさむらい衆の首を背後より脇差にて刺し貫き、或いは鎌にて頸動脈を斬り裂くなどの行いによる。
「ま、待てい、待て待てぇい!」
それらを静止するとともに、ようやく現れた菊地文之進が問いにかかる。──彼もまた煤まみれ。衣服の半分は焼け落ちており、上半身なぞ裸にあった。
「そのほうら、今、“話が違う” とか申したな?──どういうことじゃ、話してみいっ!」
それに対する返答は、
「庄屋殿が云うた!“一揆は起こすがそれはあくまで、これは藩との交渉じゃ” とな! 年貢の量を減らすよう頼むための!」
「すべては『やらせ』! やり合うふりをして話をうまいこともってゆくための! そのためにこいつらさむらい衆がやってきた! あらかじめ決まった戦い、決まった結果の話を持って帰るため!」
「じゃからたとえ派手にやろうと田んぼや蔵屋敷には手を出さん云う話じゃった!──じゃがこいつらはそれを破った! 反故にした! じゃから殺す!」
との、恐るべきものであった。
「なんじゃこれは、わやくそじゃ」
三四郎がそのように述べたも、無理もないこと。
「瑞山とやら、ともかくもうぬは御國のために兵を挙げんとここに眼をつけた。そして村の有力者たる蜜右衛門に話をつないだ──直接か、或いは誰ぞ人を介したか──おそらく介したな? じゃが、おそらくそれがすべての元凶……」
「ああ。そこから話が漏れたは間違いないわ。──じゃが、それは別にええんじゃ」
瑞山の言葉に三四郎は小首を傾げる。
「別によい──とな?」
「ああ。はじめはな。──そのおかげで根来衆に繋ぎができたからのう。──一介の、いや土佐忍者のなり損ないのわしではとても、こやつらと対等に話はできんかったからな」
「うむ……う……」
三四郎はうめいた。先日、百姓の襲撃を許したことを思い出した。なるほど攻めの筋はまるでなっておらぬ素人丸出しとても、手傷を負うまで気づかなかったほど接近を許したは紛れもなく根来流忍法によるもの。──根来衆にて百姓を鍛えることができたは、大きな功績にあった。
「さむらい衆を連れてきたも、まあええ。戦の本職云うんは必要じゃからな。──じゃが、問題はそこからじゃァ……」
問題の全容が三四郎にはわかりつつあった。
「そのさむらい衆が、よりによって『切支丹』であったと申すか」
「うむ。それよ。──それは、いかん。一向衆の例もある。島原の例を挙げるまでもない。一揆と特定の教えが結びつくいうんは、どうしてもいかんとがじゃ」
教えと結びついた一揆勢は、厄介を極める。話し合いによる交渉の余地はなくなり、戦火を交えての殺し合いもしくは滅し合いとなるがため。──故に瑞山はなんとしてでもこれを避けたかったのであるが、すべては後の祭り。
「じゃがのう、問題はそれだけではないとがじゃ」
「さむらい衆の中に庄屋と、密約を結んだ者がおったと」
「そうじゃ。──今しがた吐きおったように、百姓らをおとなしくさせるよう『やらせ』の約束を結びおった。──わしはなんのためにここへ来たんじゃ? わしは、御國のための兵を挙げるため育てに来たのであって、やらせの一揆も切支丹軍団を作りに来たのでもないわ!──それも、無料働きでのう!」
この時点で、もはや事態はどうにもならなくなった。瑞山の育て上げた勢力は乗っ取られたのである。ここ小窪村の民どもに。──後はもはや、どうしようもない。切支丹勢力、庄屋、さむらい衆らといった者どもらが皆それぞれ好き勝手に戦力を私物化してしまったというわけであった。
原理としては、公金横領に近い。これは新撰組基準では『切腹』となる大罪である。──つまりここ小窪村の勢力の頭どもは皆すべて、死に至る罪を犯したこととなるのである!
「さて──それではどうするぞ菊地殿」
ここで三四郎は話を菊地文之進に振った。──見事な策略。三四郎も瑞山もただ無駄話をしていたに非ず。事の次第を簡潔にわかりやすく、文之進へ聞かせていたのである。
この場にて決定権を持つは、大洲藩より殿の命を受けた文之進ただひとりなのであった。
ゆっくりと、文之進は息を吐いた。──そして、
「知れたこと。首謀者、及びそれに類する者。つまりは鷹蔵とそこな老人に与する者……そのことごとくを──捕縛する!」
怒りに震えわななく声にて、そう告げたのである。
「──な、な、なんじゃと!?」
さむらい衆のひとりが驚きの声を上げる。するとたちまち、
「わ、わしらを捕縛するじゃと?」
「莫迦な! 血迷ったか文之進!」
「同じ大洲藩の拙者らを捕縛するなど──うぬは、いつから松山藩の手先となりおったか!」
さむらい衆は口々に抗議をはじめた。
「そう熱くなるな文之進。考え直せい。な、頭を冷やせい。冷静になってもういち度考えてみい」
小具足のみの軽装のさむらいがそう云うも、
「なにを云う。わしの頭は冷えておる。──だからこそ捕縛せいと申した。本来ならばうぬらすべての首を取れと告げておったわ!」
凍てついたがごとく冷たい眼にて、文之進は答えた。声もまた冷たく、寒気すら感じられた。
冷徹なる──激しき怒り!
「ぬうっ──もはやこれまでかっ」
さむらいが刀を抜いた。だが──それは腹を切るために非ず。その刀は高々と振りかぶられ構えられた。文之進の首を取ろうというのである。
「死ねいっ! 異教徒!」
基督の教えを守るため。
「そりゃあーーっ!」
見事な斬撃であった。踏み込みと同時にその刀は渾身の力をもって振り下ろされた。──それもただの力まかせに非ず。卓越した剣の技術のなせる業、相当な修練に裏打ちされた正確無比さを併せ持った太刀筋にあった。
「ぬうん!」
「うおあち!」
だがその斬撃は文之進を捉えることはできなかった。──狙いをはずしたのでも、文之進の術によってはずされたのでもない。斬撃は途中にて止まった。──否、止められたと云うべきか。
それも、相手たる文之進の手には非ず。
「ぬう……っ! おのれ邪魔立てするかっ!──豆チビぃっ! 戦場の倣いも知らぬかっ」
「ふはははーーっ! そなたこそ戦場の倣いを知らぬとみえるわ!──いきなり大将首を狙いに来る者があるものかーーっ!」
それは田中次左衛門の手によるものであった。得意の忍法『火遁の術』にて、顔面めがけ火炎を横より投げつけたのである。
「ぬう──? その術……よもや蔵屋敷を燃やしたは、うぬか!?」
「燃やしたとは人聞きの悪いことを申される!──あれは拙者が燃やしたにござらぬ……蔵が勝手に、燃えおっただけにござるわ!」
事の次第は、次のようなもの。文之進、次左衛門、八九郎、七郎の4名が、居並ぶ蔵屋敷のひとつに押し込められていた時のこと。
「ぬう、忌々しい繩よのう」
武中八九郎はうめいた。その身は繩により縛られちいさく畳まれ、完全にその力を封じ込まれている状況にある。さしもの巨体も、こうなってはまったくの無力であった。
意図的に力が入りにくい姿勢で固められているのみが、彼を無力化している理由ではない。特殊な縛法が用いられており、簡潔に云うと、両腕を胴に縛りつけた上で、さらにもう1本の繩が両腋の下を通して1本目の繩を固く繋ぎ止めていると云うもの。──こうなれば、いかに八九郎の怪力とても繩を引きちぎるどころか、結び目は小揺るぎもせぬ。
無論、『繩抜け』の忍法も通用せぬ。なにせ彼らを捕縛したは同じ忍者である。それを見越した上での、この縛法であった。
大洲忍法『本繩縛り』! 決して人ひとりの力では逃れることはできぬ。その恐ろしさを同じ大洲忍者である菊地文之進は、ようく知っていた。その骨身に深く刻み込まれていた。──故に、
「まこと、この縛法よりは逃れられぬ。下手に動き力を失うより、じっと助けを待つが肝要」
と、無駄な努力も抵抗もせず、ただその場に横たわっているに終始していたのである。
「じゃが、その助けが一向に来ぬのう」
しかしまこと、田中次左衛門の申す通り。すでに夜が明けて幾久しいと云うに、助けはおろか様子見の見張りすら訪れる気配はない。──無論、差し入れの握り飯など微塵もない。
「助けは来ぬでも、飯くらい持ってきてもよかろうに。──このままでは4人揃って飢え死にしてしまうぞ」
「まったく八九郎の云う通りにござる。気の利かぬ見張りじゃ。こんなことではいつまで経ってもせいぜいが下忍止まりにござるぞ」
大小の伊豫忍者は、口々に文句を垂れた。──だが残りひとりの伊豫忍者、
「次左衛門殿も八九郎も、そんなことを云ってる場合でござりますか! そのようなことでは、飢える前に咽喉が渇いて死に申すぞ!」
忽那七郎は冷静に諭すのであった。
「其某は水忍故に渇き死にはしませぬが、そなた方はそうではござるまい」
忍者らはふたたび沈黙した。──まこと七郎の云う通りで、渇きはこの場にて最も恐ろしきもの。飢えはある程度まで我慢できるものとても、渇きはそうはゆかぬ。
ましてや今閉じ込められているこの土蔵、壁は堅固なれど屋根は安普請もよいところであるとみえ、未だ残暑の漂う陽光の熱を、じわじわとこもらせてゆく最中。
下手をすると今夜を待たずして、よっつの乾いた骸を晒すことになりかねぬ。
「──のう豆夜叉殿。刀を持ってきてはくれんか?」
八九郎は、次左衛門に向けて云う。──彼はひとつの手を思いついたのである。
なるほど文之進の云うように、この『本繩縛り』はいかなる技術、いかなる怪力をもってしても逃れることはできぬ。絶対に不可能である。──だが繩そのものはどこにでもある藁編み繩にすぎぬ。そこに八九郎は眼をつけた。
つまり縛法と立ち向かうのではなく、繩そのものを切って逃れるを選んだのである!
「すまぬな八九郎。刀はここへ放り込まれる前に取られてしもうたでござる」
「ならば手裏剣でも錣でも、なんなら寸鉄でもええわい。ともかく刃物を寄越してくれい」
八九郎の脳髄は極めて冷静であったと云える。刀身のみじかい手裏剣とても、たとえ己の縄は切れずとも次左衛門ら仲間の繩を切るは可能。
──それを充分に見越しての言葉にあったが、
「残念ながら、それもござらぬ。──あやつら、寸鉄どころか衣嚢の塵芥ひとつまでも残らず抜き取っていきおった」
次左衛門の返事は非情なものであった。
「ぬうう……万策尽きおったか」
次左衛門への失望を隠しもせぬ声にあったが、
「待たれい八九郎。まだ策は尽きておらぬぞ」
との、次左衛門の声。
「なにがあると云うんじゃあ?──刃物が無うてはこの繩より逃れることなぞできようか!──それも、剣術が下手糞から上のおぬしでは」
それに対し次左衛門、笑いを含んだ声にて、
「刀が無うても、繩からは逃れられようものにござる」
と、返したので、八九郎は呆れた。
「どうやってじゃ? まさかちいさなおぬしが、力で引き切ろうとでも申すか?──阿呆じゃ。愚か者の言葉じゃ。この暑さでついに脳が煮えおったか」
「そう、熱さにござるぞ八九郎!」
ふたりの言葉には若干の違いがあった。
「暑さァ?──まさか繩を煮溶かす気か? それこそ、阿呆の所業じゃ。わしらのほうが先に煮えてしまうわ」
「煮る?──ふははは! 煮るのではなく、焼くのでござる」
八九郎の脳髄は、一瞬の間停止した。
「──焼く、う?」
「そう、焼くのでござるぞ八九郎」
次の瞬間、闇に包まれていた土蔵の中が紅く染まった。──次左衛門の手より、炎が発せられたのである。
忍法、『火遁の術』! その炎は手を伝い、次左衛門を縛る繩へと走り燃え移った。繩を焼き切ろうというのである。──奇しくも眼のつけどころは八九郎も次左衛門も同じであった。異なったは、繩を切る手段というただひとつのみ。
剣に頼るか、忍法を頼みとするかの違い。──この、ほんのわずかな違いが、本繩縛りからの脱出を可とするか不可とするかの分かれ道となったのである。
「ぬう……」
八九郎はうめいた。普段より気に入らぬこのちいさな男がいとも簡単に繩より逃れたことへの不満、その手を思いつかなかった己への怒りによる──しかし同時に、次左衛門その手並、及びその発想の見事さを、素直に認めたものでもあった。
(これが、『忍び』か。用いられるならば猫の手でも親の位牌でも用いるという──わしはただ刀で斬ることのみを考えておった。刀にしか眼が向いておらなんだ。それを、こやつは──刀の他に向けられる眼をもっておった!)
「ふはははーーっ!」
繩が焼き切れ、次左衛門の両の手は自由となった。続き、両の足も。己の全身を炎に包み、一気に焼き切るに至ったは、適切な判断と云えた。──事は一刻を争うがためである。
「ようし八九郎、次はそなたじゃ」
駆け寄りし次左衛門の両手より炎走り、八九郎の身を縛る繩もまた炭と化し、ここに虜の半数が自由の身となる。
「次は──文之進殿じゃな」
「ではわしは、七郎を」
両手さえ自由となれば、八九郎に不安はない。たとえ刀はなくとも、彼の巨体から産み出される力さえあれば──
「ふんっ!──ふおおおおーーっ!」
七郎の身を縛る繩は、引きちぎられるに至ったのである!
「くおっ!──こ、こりゃ八九郎。助けてもらい礼より先にこんなことを云うはなんだが、そなたもうすこしそれがしの身を労らんか! 骨が折られるかと思うたぞ」
なるほど全身を固く縛られていたのである。結びも解かず無理矢理に繩を引かれては、小柄にて細身たる七郎の身体にかかる負担は相当なものであった。
「うるさい! 事が事じゃ! 我慢せい!──わしとて燃える炎の熱さに文句ひとつ云わず耐えたのじゃぞ!」
そう、次左衛門の放つ『火遁』の炎の高熱たるや、なかなかに耐え難きものであった。だが八九郎はその耐え難きに耐えた。──長男であったから、ではない。そもそも彼は四男坊──そんなことはどうでもよい。彼が耐えられたは次左衛門への意地もあったが、その巨体──分厚い肉と脂肪の防御があったがため、燃える炎を耐えることができたのである。
さてしかし、長身の部類に入るなるも細身の菊地文之進にては──
「うあっ! ちっ! ちいいいいいっ!」
耐えることはできなかった。熱さにのたうちまわり、それが逆に炎を繩よりその身にまわらせ、さらなる熱さを産む悪循環に陥ったのである。
「こ、これ文之進殿! 動かれるな!──そう動くと火に焼かれ申す!」
そのように云う次左衛門であったが、しかし彼は知らなかった。その身を繩より解き放つため全身に放った炎──その残り火が己の背より勢いを取り戻していたを。
「ふおおーーっ!」
やがて次左衛門の背より火柱上がる。その頃には文之進の身体も燃える炎に包まれていた。
この異常自体に、炎のかたまりと化した忍者ふたりは、一時的な恐慌状態へと陥った。
慌てふためき、走り出したのである!
「ふおおーーっ!」
「くおおーーっ!」
さてこの土蔵、構造こそ頑丈なるも所詮は木と土と藁と紙という──すなわち可燃物によって構成されていた。内部にあったは忍者らの他、木箱や米俵といった、やはり可燃物のかたまりにある。
それらにぶつかりながら燃える忍者らはやみくもに走るにまかせたのであったから、火はたちまちそれらに燃え移り──瞬く間に火災を発生させたのである!
「ふおあっ!?──こ、こりゃ文之進殿! 次左衛門殿! お、落ち着きなされい! 火事じゃ、火事になりますぞ!」
「ええい七郎なにを悠長なことを云うておるか。火事になるのではない、もうなっておるわ!」
なるほど八九郎の云う通り。すでに米俵のことごとくは発火して火柱を上げており、導火線のごとく類焼の最中にあった。木箱も同様にて、もう幾らもせぬうちに土蔵は炎に包まれてしまうは明らかにあった。
「火を消せい七郎。今こそ『水忍』たるおぬしの出番じゃろうが!」
伊豫忍軍水組頭たる忽那七郎、彼の得意とするは水忍法にある。その技の冴えたるや、次左衛門に並ぶもの。『水遁』の術ならば、この大火をも消し流すに充分であろう。
しかし七郎の返答たるや、
「それは、無理なこと」
との、信じられぬもの。
「な、なにを莫迦なことを! おぬしの腕前ならばこのくらい造作もなかろうに!」
「月代が乾いて力が出せん。──咽喉の渇きを潤すに力を使いすぎた次第」
どういった作用原理によるかはくわしくはわからぬが、ともかく水忍法の要は月代の水分にあるとみえる。事実、このような熱波の最中にても、七郎の月代には汗のひとつもなく、カラッカラに乾ききっていた。
「ええい、河童かおぬしは。──この大事な時に役に立たんのう」
まこと、水中に於いては河童のごときすさまじさをみせる七郎も、この大火の中にては陸に上がった魚も同じに手も足も出ぬ状況にあった。
だが、魚と七郎との間には明確な違いがあった。
その、違いとは──
「それがしが役立たずなら、そなたが役に立てい」
「むう?」
よくわからぬ顔をする八九郎に向けて七郎は、
「水遁が使えぬなら、『土遁』じゃ。──八九郎。そなたの忍法にて血路を開けい」
との、言を述べた。──これこそ、魚との違い! 七郎には知恵があった。知性があった。次左衛門以上に周囲を見、活路を見い出す頭脳があった。
「そ、そう云えばそうじゃった。わしにはこの術があったわい!」
そう云うや八九郎は手刀をつくり、指先にて床を突いた。手刀はそれこそ文字通り刀の刃先のごとく、ぞぶりと入り込んでゆく。踏み固められた土の中へと。手首が、肘が、肩口が床下へと消えてゆく。続いて頭が、上半身が、まるで飲み込まれるかのごとくにその姿を消してゆく。
隧道を掘っているのである。後へ続く者どものために。八九郎の掘り抜いた後を、すぐさま七郎が追う。
「次左衛門殿! 文之進殿! ここより出られまするぞ!」
これ以上ないかとの大音声は、次左衛門と文之進とを恐慌状態より引き戻すに至る。
「おおっ、出口とな?」
「七郎とやら、でかした!」
実際には八九郎の手柄にあるが、文之進にそのあたりの事情は知ったところではない。それどころでもない。火炎はすでに柱を燃やし、土蔵の支えは軋みを生じていたがため。──崩落まで、もう余裕がないのであるから。
「ふおおーーっ!」
4名の忍者が穴に飛び込んで後、幾らかして土蔵は焼け落ちた。隣、また隣へと、その炎の手を広げて。
「──と、云うわけよ。後は簡単なこと。火事を見てたまげおった庄屋の後を追って、わしらはここへ来たという次第じゃ」
「正しくは途中で先まわりしたわけじゃがな。──行先さえわかってしまえば造作もござらん」
事の次第を説明した八九郎と次左衛門にあるが、
「それではつまり、うぬらが燃やしたことに変わりはないではないか!」
兜のさむらいは、真実に基づいた返答を述べた。──しかしこれは、忍者とは解釈に相違あったようで、
「なにを申されるか。そなたらが拙者らを捕縛さえせねば、拙者は『火遁』を用いることはなかった。それは確実に云えることじゃ。つまり──そなたらのせいに相違ないでござる!」
「だいたい、わしらの正体もなにもおぬしらにはわかっておったのじゃろう? ならば、火忍を放り込んだおぬしらの手落ちじゃ!」
「己の手落ちをそれがしらのせいにするとは、さむらいの風上にも置けぬ者!」
七郎までもが、己らの非を認めぬどころか、一揆勢のせいにして憚らぬではないか。──無理もないこと。彼らは本心よりそう思っているがため!
己らを放り込んだがために、その結果、蔵屋敷が燃えて消し炭になり果てたのだと!
「ば、莫迦なことを。──そもそもうぬらがここへ来ねば、捕縛されもせなんだろうが!」
なるほどさむらいの云うことはもっともなことと云えるやもしれぬが、しかし。
「おぬしらこそ一揆なぞ企てねば、わしらが来ることもなかったのじゃ!」
と、そもそもの起源を掘り起こせば逆に掘り返されてしまうのみ。──延々と、果てのない水掛け論がくり返されるに陥るのみである。
こうなれば、もはや──
「ええい、これ以上の問答は無用!」
「互いに、死合おうぞ!」
口舌にての解決は不可能! 双方、武をもって勝敗を決するのみ!
「おおおーーっ!」
どちらともなく鬨の声を上げ、決戦の時が来た。──双方ともに主立った者らが歩み出るとともに、陣形を組みはじめる。
さむらい衆の中より、特に屈強な、腕の立つ者らが3名、歩み出た。ひとりは鎧兜に身を包んだ、面頬にて顔の見えぬ者。ひとりは鎧のみを纏いし者。残るひとりは軽装の──小具足のみをつけし者。
「うぬら3名のみは、是が非とも許しておけぬ」
「己が手にて仕留めねば、こちらの気が収まらぬ」
「一騎討ちにて──いざ尋常に勝負」
さむらい衆が指名したは、蔵屋敷を燃やしし張本人ども。──蔵を燃やしたはよほど、腹に据えかねたとみえる。無理もないこと。もはや一揆は失敗に終わるを、決定づけた所業であったがため。
「よかろう! その勝負、御受けし申す!」
次左衛門の言葉とともに、八九郎、七郎もまた前へと歩み出て構えをみせた。
「──わしは塙千樫右衛門」
小具足のさむらいが名乗る。長太刀を持っている。──剣術が得意とみえる。
「わしは、武中八九郎」
相手にとって不足なし。剣術勝負を挑まんと、八九郎が名乗りを上げた。
「それがしは忽那七郎。──小兵とて甘く見るな」
「我こそは原重治──ひと揉みに揉み潰して進ぜよう!」
鎧のみのさむらい。横幅の厚みが七郎の倍ほどもある。体格の差は明らかにあった。
だが、次左衛門の相手はそれ以上。
「ぬおああーーっ! 我は大江山健三郎! うぬだけは殺しても飽き足らぬ!」
上背は6尺どころか、7尺つまりは2米に迫らんとする、姓のしめす通りまこと山のごとき大男。それが鎧兜に身を包んでいるのであるから、これ以上ない鉄壁の備えと云うより他になし。
だがそれに臆することなく、
「ふおおーーっ! 拙者は田中次左衛門! いざ、尋常に勝負!」
5尺ないこのちいさな忍者は真正面より躍りかかってゆくのであった。