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忍法血風録  作者: 瑞鶴寺鉄心斎
忍者武中八九郎
14/19

誰も知らない昔語

伊豫忍軍存亡の危機が迫っていた。各隊をまとめる7人の組頭のうち、田中次左衛門、忽那七郎、武中八九郎の3名がすでに囚われの身。祝六郎と鵜久森五郎兵衛はその生死がわからず、もし仮に生きていたとておそらくすでに捕らえられておるであろう。──山地三四郎に至っては、その行方すら知れぬ。


唯一無事に残っているは、『花忍』お千代のみと云ってよかろう。



そのお千代の身にも、絶体絶命の危機が訪れていた。



「うぐっ! こ、このぉ……」


この時代にては、お千代は背の高い部類に入る。身の丈5尺7寸──つまりおよそ160(センチ)。すらりとした細身にて、背丈の半分より上を足の長さが占めていた。


これよりわかる通り、お千代の強みはその足にあった。──云うなれば機動力。すばやく変幻自在の足捌きにて敵を惑わし、隙に乗じて忍法や、必殺の蹴りにて敵を倒すが、花忍お千代の基本戦法にあった。


だが今現在の状況はどうか。身体は地に縫い止められたかのごとくに、動けぬ。今やお千代は完全に、地に組み敷かれた状態にあった。──これでは強みたる足捌きを発揮することは、一切できぬ。


「──かはっ! ぐっ……」


樹上より見下ろせば、漬物石に潰されひっくり返った蛙のごときお千代の姿がみえたであろう。──左様。相手の身体は岩のごとくに重く、牛のごとくに大きなもの。その体格、かの巨漢武中八九郎と同等か──或いはそれを上廻るやもしれぬほど。


とても、お千代の体格にては撥ね返しようもない。


「うっ……くっ……」


そもそもが、重量でのしかかられているがため腹が、胸が、呼吸器官が圧迫されてまともに呼吸もできぬ。──これでは全集中の後に力を一点に集め、撥ね退けるなどとても叶わぬはおろか、たいした抵抗もできぬ。


いやそもそも、これはおそらく最悪の体勢にて組み敷かれていたと云えよう。


両の手首はすでに摑まれており、自由が効かぬ。いかに忍者なれどもやはりそこは女子(おなご)の細腕。丸太のごとき剛腕を相手としては、力がまったく足りぬ。


かと申して、自慢の足もまた役に立たぬ。敵は両腿の間にその身体を割って入るかたちにあった。これでは必殺の蹴りも、急所に当たらぬ。


「この……離せっ! 離さぬ……かっ!」


お千代とてただ黙ってなすがままされるがままの無抵抗に非ず。蹴りの当たらぬとみるや、足を曲げ、膝にての蹴りへと移行していた。膝の一点に力を集中させ、急所に打ち込もうというのである。


だが──それも叶わぬ! このように腰を地に押しつけられては腰の回転が利かず、たとえ急所に当たろうともそれは何ら威力のない、ただ当てているに等しきものとなり果てていたがため。衝撃は分厚い肉に阻まれ、骨まで、そして臓腑まで、届かぬ。


「くう……」


うめくお千代。呼吸を妨げられ息が上がる。──しかしそのような中でも彼女の脳髄は可能な限り冷静に、敵の何たるかを分析するに努めていた。


(敵の出方が……わからぬ)


なるほどこれは奇妙。敵は確かにお千代の身体を地に縫い止め、組み敷きたるも、今はただそれのみにて、それ以上攻めて来ぬ。


さてこれより20余年後に誕生することとなる講道館柔道に於いては、30秒の間押さえ込まれると負けとなる。──これは敵を組み敷き30秒あれば、首を掻くことができるという戦訓に由来すること。


その30秒が経とうとしていた。この、圧倒的に優位な状況にて、敵は一向に首を掻きに来る様子なし。──なるほど今現在のお千代は男装しており、また、忍者であることはすでに割れている。万一の反撃を警戒してのことと、とれるやもしれぬ。


(これは、もしや好機!?)


一縷の望みに、賭けるを選ぶか。敵が首を掻きにくる一瞬に、どうしても手を離す。その刹那を狙い、反撃を行おうというのである。──だがそれも容易にはゆかぬ。今、お千代が身に帯びておるは、帯に差した短刀ひとつ。それも、敵の身体の下。たとえどちらの手が自由となろうと、これを抜き放つは容易ならぬ。──否、限りなく不可能に近いと云える。


「ぐっ……はあっ……はあ……っ……」


敵はどれほどの重さか。30貫は超えておろう。40貫(約150(キロ))はあるかもしれぬ。そのような重量にのしかかられておるのであるから、お千代はもはや息も切れ切れ。どこまで、保つやらわからぬ。


「おお……おおお!?」


はじめて、敵が声を上げた。不気味なる声。体格に見合い牛のごとき野太き声なるも、しかしそれは途中にて甲高き裏返りをみせた。


それは──歓喜の声。不意に、道に小判の落ちているを見つけた際のようなものであった。


「お、おおおおお……女ぁぁぁ!」


敵が動いた。手を離した。待っていた好機が訪れたか。──否! お千代にそのような余裕などなかった。敵が身体をさらに密着させ、お千代の身体を押し潰さんまでに勢いを増したこともあったが、それよりもなお──


その両手はお千代の身体をまさぐりはじめたがためにある。


「ひいっ! ひっ……」


恐怖に、声も出ぬ。忍者としては些か情けないように思えるやもしれぬが──これは仕方ない。己より圧倒的な力を持つ者に押さえつけられ、かつ、己を女としてみている者に襲われる恐怖とは、余人には己が同じ目に遭うその瞬間になるまでわかるまいぞ。


着物の前がはだけられた。幾重にもさらし布を巻いて外よりはわからぬよう隠していた胸のふくらみが露わとなる。それを、汗むした手が摑む。布越しに生あたたかい体温を感じ、お千代の身体に怖気(おぞけ)が走る。


生理的な不快感! これは、「断じてこのような者の仔を孕むは御免被る」といった、本心からの最大なる拒絶! お千代はこの危機より絶対に逃がれねばならぬ!


「ひゃあ……ああっ!」


乱暴にさらし布が破り取られる。ものすごい力。細身の身体の割には大きめの胸のふくらみの露わとなるも、それを気にしている余裕は断じてない。


“手籠めに、しかねぬ。あれは、それをやってのける者──”


このままでは本当に、六郎の懸念が当たりかねぬ。──否、現在進行形にて今まさにそうなろうとしている。


そうなっては、ならぬ!


「くっ……くううぅぅぅぅ!」


敵が、乳を吸いに顔を密着させた瞬間、お千代は動いた。男の首を抱くように抱え込み、己の両脚を絡ませ、逃れるのとは逆に抱きつくかたちとなったのである。


觀念(かんねん)して、受け入れるを選んだか? 生き延びるために。──否! そのようなこと、伊豫忍軍頭領の娘たる誇りが許さぬ! お千代は死中に活路を求め、敢えて逆に懐へと潜り込むを決めたのである!


「ふぐっ! ふごっ! ふがごっ! ふごーーーーっ!」


男の口よりくぐもった叫びがもれた。歓喜の叫びなどでは断じてない。苦痛に起因する──苦悶の叫び声にある。


「ぐっ! ぐぽ! ぐぽっ! ぐぽぽぽ……」


お千代の胸がきたならしい唾液にまみれる。唾液はやがて泡を噴く。暗闇の中故によくわからぬが、しかしわずかに樹々の間より漏れる月光に照らされ、その泡がやがて色を帯びてゆくがはっきりとわかった。


血泡である。敵は血を吐いていた。


『胴絞め』! 柔術が奥義のひとつ! 両の脚にて相手の胴体を挟み込み締め上げるという単純な技なるも、その効果──絶大なり。なにしろ、足の持つ力は腕の3倍から3倍半。細腕の女子なれども、足ならば屈強な男にも充分に対応し得る!


ましてや、その強みを足に持つお千代ならば。──そもそもがこの『胴絞め』、後に講道館柔道にては禁じ手とされる技。締め上げ続けられれば肋骨(アバラ)は折れて肺腑に突き刺さり、肝臓や脾臓といった臓腑は圧迫され──ついには破裂圧壊し、内部より死に至らしめられるがためのこと。


「見た……か……っ! 我が奥の手を……くのいちお千代を舐めた不覚を……地獄で嘆……けっ!」


お千代、両脚のみならず両手に力を込める。臓腑を破壊するとともに、男の背骨、ならびに首の骨を折りにいったのである。


しかしながら──敵もさるもの。


「ふぎっ! ふぎゅっ! ふぎゅるるるるるる……!」


なんたる膂力(りょりょく)、なんたる脚力、なんたる全身の筋力か! 男はお千代を抱えたままに、大きく立ち上がったのである! 座った姿勢に非ず、うつ伏せに寝た状態から一気に!


「うっ……そ…………」


たとえ細身の、その重さ──いや、これは失礼つかまつる。女子(おなご)の体重を述べるは武士にあるまじき行い故に明言せぬが、しかしさほど重くはないとは申せ、仰向けに寝た相手を一気に持ち上げにかかるとは、並みはずれた剛力! さすがのお千代も度肝を抜かれ、締め上げる力がわずかにゆるむ。


「ふおごっ!」


「きゃあ!」


力のゆるみを突かれ、お千代の固めが解かれた。そのまま虚空にてさらに大きく持ち上げられるに至る。男の両手はお千代の両尻を抱えた。袴を穿いていなかったがため──白地に蒼い縞の入った下帯をつけてはいたが──むき出しの尻を(じか)に摑まれ、それを晒されるかたち。


そのような高さより、男は地へ向けて、お千代の身体を力まかせにたたきつけたのである!


「くは……っ!」


これはたまらぬ。受身をとったとは申せここは山深き森の中。一寸下には樹々の根が縦横無尽に走っており、硬い。地上に露出した太い根すらある。そのような地面に打ちつけられてはその衝撃たるやかなりのもの。ましてや、その露出した根に打ちつけられるかたちとなっていた。その根も割れ砕け、破片の散る勢いにて──これではさすがのお千代も息が詰まり、咄嗟には動けぬ。


「ふしゅ、ふしゅっ! ふしゅるるる……」


しかしながらそれは敵も同じ。臓腑を損傷しているのである。立ち上がりはしたもののその足元はふらつきをみせており、すぐには動くことはなかった。


(くう……この好機……なんとしてでも!)


今すぐには起き上がるはおろか転がることもできぬお千代にあったが、しかしこれが最後の機会であること、それを活かすに己がなにをすべきかを考えていた。


その答えはすぐに見つかった。


(敵がふたたび動く前に、息の根を止める)


それより他にない、唯一無二の手段にあった。


「うっ、うおっ、うごっ、おおお……」


男の呼吸が落ち着いてきた。巨漢故に頑丈であるのか、回復力がはやいのか。──もはや猶予はなさそうである。


「く……っ!」


しかしお千代の体力もまた回復をみせていた。わずかながら呼吸は落ち着きをはじめており、起き上がる力を取り戻すに至った。


「おおおおお……んんんんん……」


男の足がふらつきを止めた。ふたたび襲いかかる構えをみせる。


「見よ! 伊豫忍軍必殺の忍法、『霞斬り』を──」


起き上がりつつ腰の刀に手を伸ばすお千代の声が、途中にて止まる。


「はわっ!? なんで!? 刀がなんでェェ!?」


その腰に刀はなかった。否、その刀を留めていた帯すらない。見ればお千代の着物の前はすっかり開いており、ただ羽織っているだけの始末。──先ほど男が、さらし布とともに剥ぎ取っていたのである!


「ふおおおおおおおお!」


雄叫びとともに男が突進す。ふたたび押し倒し押さえ込みにかかる構え。またも倒されればそれが最後、望まぬ契りを無理矢理に交わされ──下手をすると孕まされてしまう!


そのようなことは真っ平御免! 生存本能がお千代を突き動かした。


「南無八幡大菩薩! 我が國の神明、日光の大権現、父上、歴代の頭領──願わくば、我にいま一時の力と幸運を授け給え!」


お千代もまた突進す。手にはなにももたぬ無手! その両腕は大きく後方へと伸ばされ、頭を下げ姿勢を低くしての体当たりの構え。


無謀とも呼べる。体格、体重ともに違いが過ぎる! もし双方激突すれば、下手をすれば生命がない。


辱めを受けるを恐れての自決か。否! 忍者はそう易々と、敵の息の根を止めずして死を選ばぬ。


ならば、己の生命と引き換えに敵と刺し違えるか。そのための死への神風突撃か。──否! 忍びの道は生きる道。いかにみっともなかろうと、いかにきたなく卑怯な手を用いようとも生き残るが忍者のつとめ。


「ふおおっ!」


男が手を伸ばし、同時に腰を落とす。お千代を抱き止め、そのまま押し倒す狙い。


「てやあっ!」


そこにお千代は飛び込みにいった。──だがその身は捕らえられる寸前にて敵の視界より消えた。男の両手が空を抱く。


「ふおっ!?」


よくわからぬ様子の声を上げる男の後方に、お千代は廻り込んでいた。激突の寸前に、前方回転。そのまま地を(まり)のごとくに転がり、男の股の間をくぐり抜けたのである。


はじめは、転がりとともに蹴りを放とうとした。骨法で云うところの『浴びせ蹴り』にある。だがその蹴りを放つ寸前にお千代は考えを変えた。体力の消耗具合、呼吸の乱れ、及び体格の差より、受け止められるを恐れたのである。


「ふおおおっ!」


男が振り返り、向きを変えふたたび突進をみせる。剥き出しの、毛むくじゃらの腹が月光を浴びて輝く。──その着物はお千代と同じく、羽織っているだけとなっていた。


帯はどこへ行ったか? お千代の手に握られていた。──転がりすれ違うその一瞬の時に、掏摸(スリ)取ったのである。


「ふば!?」


その帯を顔面めがけ投げつける。男の視界が遮られる。──もともと視界が限りなく(ゼロ)に近いとは申せやはり見えると見えぬとでは大きく異なり、反射的に男は帯を顔よりはずしにかかる。


「つえぇぇぇぇい!」


そこに、お千代はふたたび飛び込んだ。跳躍をみせるも、半端な高度。頭上を飛び越えるほどのものに非ず、腋下をくぐるように──


「受けよ、我が致命の一撃!」


お千代の右手が、男の首にかかる。その身は足より前に投げ出され、宙にて仰向けの姿勢のままに浮いていた。


「忍法『肱川あらし』!」


地響きが鳴る。鬱蒼と立ち繁る樹々が揺れ、葉が、花弁がひらひらと舞い落ちた。彼我一体となってともに仰向けにて倒れたる衝撃が、同心円状の波となって空を伝わったがためのこと。


それほどの余波を残すほどの衝撃を一点に、首に集中してかかるが、『肱川あらし』の忍法。己の走る勢いと、向かってくる相手の勢いとをともに利用し、首の骨を折るが、この術にあった。


「ふぐぐぐ……」


しかし悲しいかな。やはり体格、体重の差は如何ともしがたく、お千代の軽さにてはこの巨漢をただの一撃にて即死に追い込むは不可能にあった。──地に引き倒し、背と後頭部に痛打を与えたにすぎぬ。


「ふおおあ……」


男が起き上がる。しかし無傷とはさすがにゆかず、足元はふらつき、たたらを踏むがごとき有様にはあったが──しかし確実に、男は立ち上がったのである。


「……」


お千代は立てぬ。上体を起こしはしたものの、その踵、その尻は地についたまま。敵に背を向けたままにて、それ以上動かぬ。


「ふぐっ! ぎっ! あぐっ! ふがぐがが!」


だが男の様子がおかしい。首を押さえうめく。左耳の下、首の中ほどを押さえ、苦痛にあえぐ様子にあった。その指の間より、雫垂れ流れ落ちた。


「もはやそなたの生命は尽きた。──あきらめよ」


背を向けたままに、お千代は云う。だがその言葉が男の耳に届いていたかは定かではない。激しく、かつ鈍い痛みが、男の身体を襲っていたがために。


「ふがーーーーっ!」


男の首には何かが、深々と突き刺さっていた。これが苦痛の源にあった。刃物に非ず。手裏剣でも短刀でもないもの。お千代は最初から手裏剣をもっておらず、短刀もまた、周囲のどこぞに転がったままにある。


ではこれはなにか? それは『樹』であった。──先ほどたたきつけられ、砕け散り転がった樹の根の破片を、お千代は男の首筋へと、すれ違い様に突き刺したのであった。


なるほどかたちは『肱川あらし』の忍法なるも、その実は変型の『霞斬り』! 武中八九郎のあみ出した『逆手霞斬り』とは表裏一体となるほどに理合が異なるが、しかしその理屈そのものは共通するかたちのものにあった。


そもそもがお千代は花忍。ときにはお役目とあらば懐剣すら呑まぬ無手にて敵の掌の中に身ひとつで飛び込むをもよしとするを信条とするくのいちにある。──故に、『簪』(かんざし)『笄』(こうがい)、或いは『櫛』(くし)といった、本来は装飾品にて武器ならざるものすらもを暗器となして用い敵を倒すに長けているはおろか、むしろ得意とする部類の忍び。


“花忍を相手とする折は、たとえそれが筆であろうと楊枝の1本であろうとも持たせたくはない” が、忍者の合言葉とされるほど。──裂け割れ、鋭利となった樹の根は、お千代にとっては野太刀と同じほどにも、頼もしきもの。──先ほど丸まって地に転がった折に、拾い上げていたのである。


「ぴゅーーーーっ!」


怪鳥のごとき叫びが上がった。血の匂いが立ち込める。


「抜いたか。──だが同じこと」


振り返りもせず、お千代は云った。──刺突に於いては、刺さったを抜くは悪手にある。傷口が開き、そこより血が噴き出して止まらず──死に至るがためである。刺された際は刃物を抜かずそのままにしておき適切な処置を受けるが、後の世の医術に於ける応急処置の鉄則とされるほどには。


「ひゅーーっ! ひゅっ! ひゅっ! ひゅるるるる!」


お千代の刺突は頸動脈を切断するにまでは至らなかったが、気管に孔を開けるにまでは至っていた。そこより、呼吸音が漏れているのである。──しかしこれは正常な呼吸に非ず。じきに、酸欠死に至るであろう。


やがて、背後にて倒れし音のする。──振り返ることなく、歩みはじめたお千代はつぶやく。


「とどめを刺すが作法なれども、生憎と刀を失くした。故にあとは閻魔様にお任せ致す。──汝の魂に、災いあれ」



「ふい〜〜〜〜っ、いち時はどうなることかと思ったよぉぉ……」


しばしの後に、お千代は安堵の声をもらした。その眼には涙。無理もないこと。緊張の糸の解けているもあるが、やはり、齢16の娘には、相当なる負荷がかかっていたのである。──等身大の彼女が、そこにあった。


「はやく、はやくみんなのところへ行かなくちゃ」


しかしながら己の役目を見失ってはおらぬ。──すぐさま、彼女は走り出した。


だがその足はしばし後に止まる。


「──は、はえっ!?」


信じられぬ──否、信じたくない光景が、眼の前にあったがためのことにある。


「見つけたぞ伊豫忍者!──否、くのいちか」


「どちらでもよいわ! ともかく、もはや逃げられはせぬぞ!」


そこにいたはさむらい衆。鎧兜に身を包んだ重武装の者らが、ざっと20名はいたのである。


「それにしてもよい乳じゃ」


先頭の者がそのような感想を述べた後、


「はわっ!?──な、なにを無礼な! 不埒者!」


慌て胸を隠し、顔を真っ赤にして睨みつけるお千代。──しかしそれがふたたび、彼女を誇り高き忍びに戻すに至った。


「この『花忍』お千代、みすみす、そのほうらに捕まるつもりはない!」


すばやく背を向け、もと来た道を引き返す。敵のさむらい衆が重武装とみて、引き離すが目的。──いかに屈強なる落とす衆、生粋のさむらいとは申せ、軽装のお千代とではその身にかかる重量が、及びそれのなせる疲労度が激しく異なる。この差を利用し、敵の息の上がるを待つをお千代は選んだのである。


「ま、待ていっ!」


「逃げるか卑怯者!──汚い、さすが忍者きたない!」


そのような声が、鎧の鳴るがちゃがちゃ音とともにする。


「ふふ、笑止な! 卑怯もらっきょうもあるものかっ!」


敢えてお千代は挑発す。敵の頭に血を昇らせ、冷静で的確な判断をする力を失わせようとの狙いなのである。──そもそもがこの策がそれを前提としている。敵が追って来なければそれまで。ただ無意味に引き返しただけとなり果ててしまう。それを、避けんとするためのこと。


「むおおーーっ! なんたる無礼!」


女子(おなご)と云えど、容赦せん!──鉄砲隊! (まい)へーーっ!」


加速するお千代。その後すこしして、横を弾丸がかすめ、空を切る音のする。その後すこし遅れ、「ぱぁん!」「たぁん!」と、発射音が耳に届く。


「くっ……! 厄介なものを!」


忍者にとって鉄砲とはまさに天敵のようなもの。いかなる術をも無視して弾丸は飛んでくるがためにある。──無論それは弓矢も同じなれど、射手の腕に左右されるところの大小が異なる。威力が異なる。そして速度が異なる。銃撃を仕掛けられる前、初弾を放たれるまでに銃口の向きを目視できるならばともかく、このように見えぬ背後より同時に多数より銃撃を受けては、どうしようもないのである。


間合いの外に、一刻も早く出ねばならなかった。


しかし月光もかすかにしか入らぬ闇の中にては、敵も(ロク)に照準合わせもできぬとみえ、方向定めぬめくら撃ちにて銃撃しており、いづれの弾丸もお千代の身にふれることもできなかった。


樹々が盾の役割を果たしていた。びすびすと音を立てて幹にめり込み、ちゅいんと甲高き音とともに枝葉をかすめ撃ち抜くには至るが、目指す目標たるお千代には、ついに1発の弾丸も当たらぬまま。


そうこうしているうちに、お千代は安全圏──すなわち種子島の射程外へと出るに至った。


敵にとっては、鉄砲を用いたが仇となった。種子島銃は命中精度があまりよくなく、この距離にて当てようとするならばどうしても──すくなくとも発射の瞬間には──足を止めて撃たざるを得ぬ。それがため、もともと異なる速力の差が、さらに大きくなったと云う次第。


今や振り返った背後のいづこにも、さむらいらの姿はおろか、銃の発射炎の影すらも見えぬ。


「はあ……はあ……ここまで来れば」


後は身を隠しやり過ごすのみ。忍者ならばともかくさむらい衆にては、樹々に紛れたお千代を探し出すことは、たとえ陽が昇っても到底無理なことにある。


道を外れ、鬱蒼と生い繁る樹々の中へと踏み入る。これで、ひと安心にある。


あとは、どうにかして村へと向かうのみ──

次々と襲いかかる魔の手より、ついに己の身を守り倒したお千代。だが油断はまだできぬ。村へとたどり着き、その後に別働隊の仲間と合流するまでは、彼女の逃避行は終わらぬのである。


だが、まさかその頼るべき仲間がすでに囚われていようとは──


次回、『魔界村』

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