滅されるべき村
「ぐうう……まったくひどい目に遭うたわい」
暗闇の中でうめき、文句を垂れたは武中八九郎にある。直新陰流、二天一流、薬丸自顕流、久世流剣術のことごとくを修めしこの天才剣士も、その両の手を封じられては、この始末である。
「まったく、不甲斐ない誰ぞやのせいでのう」
これは同輩たる田中次左衛門に向けての言葉であった。──八九郎は次左衛門のことを快く思っておらぬ。過去の因縁もあり、また、頭領となる際の眼の上の瘤以外の何者でもなかったがためにある。
「ううう……拙者が情けない未熟者なばかりに皆に要らぬ苦労をかけて……すまなんだあ! すまなんだあ〜〜!」
まことなによりも、八九郎が聞きたかった言葉。──しかしながらその言葉は、次左衛門の口より放たれたものに非ず。
「文之進殿、そなたのせいではござらぬ」
詫びの言葉を涙とともに垂れたは、大洲藩御庭番衆三番隊隊長たる菊地文之進にあった。彼もまた伊豫忍軍とともに、捕縛されここへと放り込まれた次第にある。
「拙者らもまったく気づかず不覚をとるに至った次第。──いやはやまこと、敵ながら見事なものじゃ」
次左衛門がそう云うと、文之進の気分もすこしは落ち着いたか、
「あれらは皆すべて手練。以前よりいろいろと、役に立ってくれた者らでありました」
とぞ、普段の落ち着きを取り戻したる声。
「しかし、なんでござりましょう。彼の者らは菊地殿の子飼いにこそないにせよ、仕事を世話した恩義はござりましょうに──何故、このような真似をなされたか?」
七郎の問いに対し、
「それが、どうにも拙者にもわからぬこと。──なるほど村につながりある者ら故に、事と次第によっては敵対するは覚悟の上でありましたは確か。しかし初手からこちらを罠にかけ捕らえにくるとまでは──この文之進の眼をもってしても見抜けなかった」
と、文之進も腑に落ちぬ様子にあった。
「おぬし、あれらに怨みでも買っておったのではないか?──たとえば雇いの銭をちょろまかし懐に入れていたとか」
「ば、莫迦な! 断じてそのようなことはないはおろか、藩より出された銭がすくないと思えば拙者が身銭を切って出しておったほどにありますぞ!」
八九郎の問いは、云いがかりにも等しきものであったとみえる。
そうこうしているうちに、皆の眼が暗闇に慣れてきた。次第にぼんやりと、ここがどこであるかがおぼろげながら見えてくる。
「どうやら、土蔵の中のようじゃのう」
「おそらくは、寝所の蔵の中にありましょう。──しかし参った。ここは厚壁にて、我らの声も外には届きますまい」
「完全に袋の鼠にござるか」
「いや、敵の掌中に落ちたと云うが正しいにござりましょう」
いづれにせよ、手も足も出ぬ状況下に置かれたは確実なことにある。
「万事休すか」
嘆くように、八九郎は云う。
「しかし、拙者らをこうも容易く捕らえてみせたほどの手練が相手とあらば、お千代殿らのほうも気がかりで仕方ないのう」
次左衛門、そのように云う。
「向こうも、我らと同じ4名。──むう……」
文之進の知る限り、ここには40名を超える忍者がいる。──まことこれでは、多勢に無勢であった。
「三四郎、五郎兵衛、六郎──お千代殿をたのむ」
七郎は、祈るように云った。
「──む」
閉じられていた三四郎の眼が不意に開かれた。──それと時をほぼ同じくして、五郎兵衛は片膝上げて立ち上がり、六郎は傍に置いてあった金剛杖を手にとった。
「なんですか、皆の衆?」
お千代は未だ気づいておらぬ様子にあったが、しかしほか3名はすでに、付近に忍び寄るあやしい気配を察知したようにあった。──さっ、と、三手に分かれそれぞれが、壁に耳を当て床に手をつき、壁板の隙間や節穴より外を覗きにかかる。
「──おかしい。姿が見えぬ」
六郎がそう云えば、
「ありゃあ? 跫音も聞こえやせんな」
と、五郎兵衛が云い、
「息づかいの風も通っておらぬ。──我らの思い過ごしであったか?」
と、三四郎が云うのであった。
「──あやしき気配なぞ、先ほどからしておりませぬが?」
お千代は首を傾げる。
「いや、確かに先ほどはっきりと──」
三四郎は途中でその言葉を飲み込んだ。──お千代がいかなる術の使い手かを、思い出したのである。
彼女は何もできぬか弱き姫君などでは断じてない。手練の『花忍』にある。──すでに、周囲に蔓や蔦、麻の繊維や蜘蛛糸にて一種の結界を張り巡らせていた。
あやしき者が触れれば即、その気配は振動となって伝わり、お千代に察知される次第にあった。──云わば一種の、『鳴子』のようなもの。
「うむ、そうであったな。──お千代殿がそう申すならば、確かなこと」
ふたたび、3名は腰を下ろす。
「しかし……なんじゃな。わしらが揃いも揃っておかしなるんも無理もないわ。──なんじゃあ、この襤褸寺はァ! 今にもなにか、亡霊でも化けて出てきそうじゃわいな!」
五郎兵衛がそう云うも無理もないこと。まこと、妖怪屋敷か亡霊の巣窟がごとき、荒れ果てた古寺。建てつけは悪く、柱も朽ちて歪んでおり、屋根も床板も穴だらけ。──その板も木目が浮いており、屋内というのに色は褪せて灰白色となっていた。
「ああ、ここにいると気が滅入ってきそうだ。──こんなことははじめてだ」
六郎がめずらしく、そんなことを申す。
「そうですね──なにかがおかしい」
そのなにかがわからぬ。それがなんとも不気味にて、お千代の眉間に皺が寄る。
「なにがおかしいのか──すこし調べてみるか」
三四郎そのように云い、立ち上がり奥へと向かう。──しかしさすがは、次期頭領候補としていの1番に名の挙げられる山地三四郎。このような床の上にても、跫音はおろか床の軋み音もまったく出さぬ。
「おう、あまり離れるなよ山地。いかに我ェが手練とて、ひとりに多数にかかられてはひとたまりもあるまいよ。──また、不覚をとりかねんぞ?」
揶揄しておるのか気遣っておるのか、どうも五郎兵衛の言葉はわからぬところがある。
「ふっ……安心せい鵜久森。──忍びたる者、同じ手は2度は喰わぬものよ」
しかし気にした風もなく、三四郎は答えるのであった。
山地三四郎が奥へと消えた後、後に残されたる3名であるが、どうも、普段の落ち着き消え失せたとみえ、そわそわとしきりに、身体を揺すり動かしていた。
「なんでしょう……この胸騒ぎは」
「ああ……なんとも腰が落ち着かん」
「けっ……卦体糞が悪いねや」
不気味な風がどこかより吹いて、足元から上がり裾へと昇ってゆくような感覚。
どこか四方八方上下左右より、覗き見られているような感覚。
冷気にあてられているような、なまぬるい熱風に曝されているような──奇妙な感覚。
それは、一種の違和感に起因するものにあった。──だが、それがなにかわからぬ──
いづれにせよ、気持ちのよいものでは断じてない。
それは3名より平静を徐々に失わせているようであった。──それも当然であるか。このような感覚の中に身を置いて、落ち着きを保てと云うほうが誤っている。
「山地のヤツ、遅いねや……何しとるんや? 野糞でも放りよんか?」
年頃の娘の前で云うべきではないことを、云うが五郎兵衛にあるが、
「いくら山地でも糞放りの中を襲われてはひとたまりもあらへんわ。かの謙信公かてそれで討たれたんやからな──」
と、にわかに立ち上がるや、
「見てくるわ」
と、奥へと向かいはじめたではないか。
「おっ」
六郎、後を追って立ち上がり背後より五郎兵衛の肩を摑み止める。
「おい五郎、待てよ。──なるほど三四が気にはかかるが、それは俺も同じ」
引き寄せて正面を向け、
「だから、ここは待て」
と、そのように云うも、
「いや、これは敵の策かもしれんぞ?──ひとりひとり誘い出し、多勢でかかり各個討ちとってゆく算段かもしれへん。──そうなりゃあ、山地が危ないわ」
と、五郎兵衛、退かぬ様子をみせる。
「三四とてそれは覚悟の上で行ったろう。──いいか五郎、ようく聞け」
六郎は云う。
「うぬが今自分で申したろう。ひとりひとり誘い出すと。──これが、それでなくて何だ? 待て。ここは待つんだ」
なるほどまさしくその通り。今自ら己の申した敵の策に、わざわざ己からかかりにゆく愚行。それを、五郎兵衛自らやろうとしているに他ならぬ。
だが五郎兵衛、やはり退かぬ。
「山地が討たれてからでは遅いんねやぞ?──おう祝、おどれ、さっきの誓いわすれたんか? 何があってもお千代殿を守るて」
「そうだ。お嬢を守るためだからこそ云うんだ。──三四に続いてうぬまで行っては、誰がお嬢を守るんだ。俺ひとりでか?」
それは、無茶がすぎる。
「莫迦云うなや! おどれひとりで守れるかいな!」
「だから残れと云っているんだ!」
「山地を見捨ててか?──かァ〜〜ッ! 見損なったわ糞祝! お千代殿の色香に惑い果てたか? 女子に惑い、男の誓いをわすれたか?」
常軌を逸した物云いであった。
「何をッ」
さすがの六郎も、これには黙っておれず、
「ホゲ〜〜〜〜ッ!」
つい反射的に手が出てしまった。いかに細身とて、6尺越えの長身である。背丈だけならかの八九郎をも上廻る。そのような者が怒りまかせの力まかせに、不意をついてなぐりつけたものであるから、これはたまらぬ。──珍奇な叫びを上げながら五郎兵衛、勢いよく宙を舞い飛んでいってしまうに至る。
「あ……すまん五郎、つい手が出た。──許せ」
しかし詫びの言葉は五郎兵衛の耳にはおそらく届かなかったであろう。彼の身体は御堂の奥──御本尊の鎮座する場所へと激突していたのであるから。
「うわっ」
みじかい悲鳴をお千代が上げる。無理もないこと。めりめりばきりと爆音を立てて壁が崩壊し、それとともに黴くさい埃が煙のごとくに濛々と立ち昇ったのであるから。
その衝撃たるやすさまじく、御堂を揺るがす大振動。まるで地震の起きたがごときものにあった。
「──!」
そのとき、お千代に電流走る。
「御本尊が! 御本尊がありませんわ!」
「なにっ」
ここに入ってよりの不気味な気配の根源──違和感の正体に気づいたのである。
「莫迦な! いかに荒れ果てた寺とて、本尊がないなどと云うことがあってたまるか。──どんな生臭坊主の寺とても、本尊はちゃんとあるものだ」
寺荒らし、仏像泥棒が跋扈する後の世ならばいざ知らず、神社仏閣の権威も高きこの時代、そのようなことはまずないこと。──もしあれば、それは神仏をも畏れぬよほどの罰当たりの所業。
「銭に困って売り払ったとて、贋物くらい置いていよう」
そうでなければ格好がつかぬ。それが寺というもの。──しかしそうではないという事実。
まこと、ここは異常空間であった。
「──む」
「──うっ」
六郎とお千代が同時にうめく。あやしい気配を察知したのである。
今度は、本物にある。──周囲を取り囲む、重苦しく物々しい気配が肌を刺す。
「まずい……これはまずいぞ……」
「五郎兵衛が余計なことをしたばかりに!」
苛立つお千代。無理もないこと。五郎兵衛が壁にブチ当たった衝撃にて、その一瞬鳴子の術が途切れをみせたが故に。──しかしその一瞬にて、敵はこうも近くにまで押し寄せたか。
「お嬢。俺が敵を引きつける。──あんたはいち度退き、八や次左のところへ行くんだ」
金剛杖をそこらへ放り出し、六郎は雷火銃を取り出した。
「いち度退いて──立て直すんだ。すべてはそこからだ!」
構えるや、六郎は引鉄を引く。激しい炸裂音が辺りに轟いた。
「──うおっ!」
遠くより声ぞする。未だ多少の距離はあるとみえた。
「ようし……」
銃声が続け様にひびく。連発式である。夜の闇の中を正確に、弾は敵を撃ち抜いていた。
「鉄砲だ! あの坊主ども鉄砲を持っているぞ!」
「ぬうぅ! こっちも鉄砲を出せ!」
遠くよりそのような声ぞした。
「む……これはまずいな」
六郎、すこしばかり後退す。──すると、背に何ぞやわからきものぞ当たる。
「あ──?」
振り返ればお千代がいた。
「あんた、まだいたのか!──はやく退けっ!」
しかしお千代は退かぬ。
「あなたを見捨てて、自分だけ逃げるわけにはいかない!」
伊豫忍軍のひとりとして、最後まで戦う構えをみせる彼女にある。──しかし、
「莫迦、誰が逃げろと云った! 退くんだ! 転進だ! こいつらを倒すため明日に向けての前進なんだ!」
六郎は云う。
「俺たちだけでなくあんたまで死んだら──いや、死なぬまでも敵の手に落ちたらそれで終いだ! 誰が、この危機を八たちに伝えるんだ! あんたしかいねぇんだ!」
ふたたび構え、鉄砲を乱射する六郎。──7連発を撃ち終えると、新たなる弾丸を込める。
朱色に塗られた太く長い、奇妙な弾丸。
「わたしは残る! あなたこそ次左衛門様たちのところへ行きなさい!」
「そんなことが云えないように、今からしてやる」
六郎が発砲す。狙いは敵よりすこし前方──すなわちこちらから見るとやや手前側にあった。敵の前進速度からの偏差にしても、やや手前。
つまり虚空を撃ち抜いて地面に着弾したこととなる。
すると──
「おわーーっ!」
「火じゃ! 火攻めじゃ!」
「いつ、火矢を射掛けられたか!?」
『三式弾』である。火炎弾の一種──『焼夷弾』の先駆けともよべるもの。硝子でできた弾丸内部に仕込まれた油脂が、火薬によって燃え上がるというからくりにある。
燃え上がってそれで終いではなく、油脂とともに鉛の粒──子弾とでも云うべきものが多数入っており、それらが燃え上がりながら飛んでゆくというもの。
つまりは、燃える炎の散弾とでも云えよう。そのような危ないの極みたるものを、壁越しに射出したのであるから、硝子の弾丸は壁に当たり砕け、燃える炎の子弾の幾らかはめり込むかたちにてそこに留まっており──
朽ち果てた御堂はまたたく間に、煽りを喰らって燃え上がったのである。
「これでもまだ残るなどと云うつもりか!──行けっ! はやく行けい!」
これではさすがのお千代も前言を翻し、六郎の言に従って退かざるを得ぬ。
「ええ、行きますっ!──六郎、あなたは度し難い大莫迦者ですっ!」
それを聞くや六郎うれし気に、
「ああ……俺は大莫迦者よ。種子島に魅入られ取り憑かれた……どうしようもない莫迦な男よ」
と、燃える炎の中にて雷火銃を構え、引鉄を引くのであった。
お千代は走った。夜の闇の中を。──ここは村の奥に位置しており、それ故に草木深き山の中。鬱蒼と繁った樹々が月明かりを遮り、忍者の眼をもってしても視界百米もない漆黒の闇の中。燃え盛る御堂の火も、ここを照らすことはない。
(ああ、六郎──それに五郎兵衛と三四郎! どうかご無事で!)
3名を残し、ひとり逃げたかたちとなっていたが故に、仲間を思うは当然と云える。──だが残った3名、覚悟の上でお千代を逃したもまた事実。たとえ炎の中に死そうとも銃弾の雨の中に倒れようと、それをよろこびこそすれお千代を怨むは決してないであろう。
それ故に、お千代の心は傷んだ。──だがそれに引き摺られ、引き返すなどという愚行をする彼女ではない。彼女とて忍者。くのいちお千代は仲間を思えども断じてその遺志を無に帰すような者では断じてなかったのである。
故に走った。いち度退き、別働隊と合流して態勢を立て直すために。これは敗走に非ず、転進──捲土重来の期、輝かしき明日への前進なのである。
その証が、この針路。お千代は村の方角ではなく奥へと向けて進んでいた。──賢明な選択である。村の側は、先ほどまでいた御堂があり、そこに敵の大軍が詰めているは確実。すっかり焼け落ちて火が消える朝までは、十重二十重の囲みを解くことはせず、厳戒態勢を敷いたままにあろう。──そのようなところへ単身飛び込むは、なるほど勇ましきなれども今このときすべき行いではない。
安全な場所へと一旦向かい、そこより、敵に見つかることなく迂回して村へと戻るが策として上の上。──その定石に従って、お千代は動くを決めたのである。
月光も通さぬ樹々の中を、深く静かに潜行す。──さながら西欧の伝承に謳われる、森に棲まう長耳族のごとき、見事なる進軍にあった。
(月は、どっちに出ている?)
いかに夜眼の効く忍者とて、何らの目印もない視界零の闇の中にては常人と変わらぬ。雪山の何も見えぬ吹雪の中にて遭難し凍死した忍者は過去に幾らもいる。これは視界零の乳白色の闇に包まれたがためのこと。ほんのわずかでも方角を知るための目印は必要なのである。
ここでお千代は2択を迫られた。
(樹に登る? それとも地を進む?)
通常ならば、樹上1択である。忍者にとって樹上は安全地帯と云える。常人ならば樹上に敵を見つけたる際、矢でも鉄砲でも射掛けるか、樹を切り倒すか、或いは樹に登りて捕らえるものであるが、その間に忍者は樹々を跳び伝って遙か彼方へと去っている、そうしたものであるが故。
だが、
(此度は事情が違う)
そう、敵は同じ忍者。この場合、樹上は完全なる安全地帯とはとても呼べぬものとなり果てる。
基本的には五分の状況。──よくて五分と云ったところか。これは忍者それぞれの特性により有利不利の割合が変化するがためのこと。たとえば鉄砲を用いる祝六郎ならば高所の有利があるがため迷いなく樹上を選んだであろう。
だがお千代は事情が違う。彼女は樹上にての戦いは不得手にあった。山岳地帯を庭とし、飛猿のごとく樹々の間を自由に跳び駆け廻ると謳われる大洲忍者を樹上にて相手する自信は、彼女にはなかったのである。
故にお千代は地を行くを選んだ。──忍法『忍び足』! 修練を積めば天より無数に降り落ちる雨粒のひとつひとつをも濡れずかわし、かつ、跫音も立てず気配すらも気取られることなく、誰にも気づかれることなく高速にて移動できる術にある!
だが相手は手練の忍者。まず、気づき気取られるとみておくもの。──故に立ち止まり息を潜め隠れると、忍び足の忍法にて走り抜けるとを巧みにお千代は使い分けるを選んだ。
そしてそれは、大正解であった。
「──いたか」
「いや、どこにもおらぬ」
「あの寺小姓、どこへ行きおったか?」
そのような声が樹上よりかすかにひびく。──やはりお千代の読み通り、敵は己の土俵たる樹上を行くを選んでいた。
「いかに忍びとて、このわずかな間に我らを振り切り遠くまでは行けまい」
「探せ、木の股掻き分け、葉の繁りの中まで探すのだ!」
敵はお千代が樹上にいると思い込んでいた。──なるほど忍びの定石に沿ったものとも呼べるが、しかし彼らとて定石を絶対とする頭の硬き連中に非ず。
彼らには彼らなりの考えがあった。その考えに基づいたもの。──簡単に裏の掻ける相手では断じてない。
「ふふ……大洲忍者から逃れられると思うな松山忍者。──地にはさむらい、樹上には我ら、この、2段構えの戦法より……未だかつて逃れた者は誰ひとりとしておらぬ」
そのような声ぞする。お千代の顔より血の気引く。──すでに己が袋の鼠、敵の掌中にすでに落ちたも同然というを、悟ったがためにある。
「……」
だがお千代はあきらめぬ。──掌中に落ちたも同然にはあるが、未だ、掌中に落ちてはおらぬも、また事実。
知恵と力を振り絞れば、もしや活路を切り開き逃れることのできる可能性は、零に非ず。わずか、ほんのわずかちいさきなれども、存在しているは確かなことであった。
わずかであろうとも可能性残っている限りはあきらめぬが忍者。──世の中には潔くあきらめるをよしとする者らも増えているが、それは産まれながらの敗北者の戯言にすぎぬ。産まれたときからすでに終わってしまっておるから、そのような世迷言をもっともらしい顔をして云う──あきらめたらそこで終いなのである。
(ゆっくりと、しかし確実に。大地と、樹々と呼吸を合わせ──)
敢えて動くを、お千代は選んだ。しかし走り抜けるのではなく、ゆっくりとした歩みにて。
「いたか」
「おらぬ」
「さむらい衆から報せはないか」
「まだじゃ」
大洲忍者どもの声は、時にお千代のすぐ頭上近くから聞こえてくることすらあった。──だが、今や大地に溶け込み樹々に寄り添うように、森に呼吸を合わせ一体となったお千代の気配を感じとることが、敵には極めてむずかしいこととなっていた。
これぞ『花忍』の境地。花とはくのいち特有の美しさ艶やかさをしめす言葉であるは事実なるも、こうした、大自然の象徴たる植物の意味も併せ持つ。──樹上が大洲忍者の土俵ならば、この山深き森の中は花忍者の土俵と云えた。
「ええい、どこだ、どこにおる……」
(どこか、活路はどこにある……)
互いが互いの土俵にて、みえぬ刃にて鎬を削り合う。──これはもはや神経戦の一種。双方ともに研ぎ澄まされた神経にてのせめぎ合いをなしている。
気持ちの途切れたほうが、負けとなる。
そうした中幾らの刻が過ぎたであろうか。半刻(約1時間)は経ったであろうか。──いや、それはわからぬ。張り詰めた神経戦とは時の流れが加速するもの。じつのところ四半刻(約30分)も経っておらぬのやもしれぬ。
そのような中、動きがあった。
「散れいっ! 散開し多数の眼をもって、広く探し出すのだ!」
樹上より号令が走るが、
「いや、合流だ! 皆ひとかたまりとなって一体で当たれ!」
と、すぐさま正反対の令が飛ぶ。
「固まるな!」
「散開せよ!」
なんとも理解しがたい状況。──見つからぬに痺れを切らし、ついに集中力が限界を迎えたのであろうか。──もしそうであるならば、お千代にとってこれほどの好機はない。
だが、
(油断はできない。そのまま信用してよいものか?)
お千代は慎重である。未だ集中力を切らしておらず呼吸も乱してはおらぬ彼女は、樹上よりの言葉を「揺動ではないか」と踏んだのである。
つまり聞かれているを承知にてわざと虚言を用い、油断して出てきたところを一斉にかかると云う大掛かりな策。
そうした大胆な手に出てきたということは、なるほど敵の集中力が限界に近いというは確かなのであろう。
(博打に出た──か。これは油断ができない!)
お千代は、そのようにみた。──敵の最後の賭けに出た一手ならば、これは生半可なことではない。全集中の大博打は、とかくやぶれかぶれのめくら打ちとされるところあるが、それ故に──油断がならぬのである。
いかに運を天に任せたやぶれかぶれとて、それ故に当たったときの効果は絶大なものとなる。また、めくら打ち故に読みがきかぬ。定石に沿えば沿うほどそれとは大きく異なる理への対処がむずかしくなるは、ここへの道中に山地三四郎が素人相手に不覚をとったを見ても明らかなること。
「……」
歩く。歩く。樹々に溶け込み歩く。
「見つけたぞ!」
「行けいっ!」
「捕らえよ!」
声が飛び交う。虚言なのか真実なのか、或いは極限の状況がみせた幻をみたが故の向こうにとってのみの真実なのか──もはや判別がつかぬ。それほどの気迫。
しばらくの後、お千代の遙か後方にて、
「うおっ! こやつ!」
「手向かい致すか!」
「ええい! 殺さず捕らえよとの仰せにあったが已むを得ん!」
「斬れ斬れい! 斬って捨てい!」
などと、声の調子が大きな変化をみせた。
「──まさか!」
一瞬、お千代の集中が途切れた。──背後の声を、行方が知れぬ山地三四郎と敵とが遭遇したとみたのである。
「──っ!」
だがすぐにふたたび歩む。後髪を引かれる思いを絶ち切って。
“我ら、生命に換えてもお守り致す”
“どうせ、失敗れば生命が無うなるんじゃ”
“明日に向けての転進なんだ!”
仲間たちの言葉が、お千代を抑えたのである。
「必ず……行きます。あなたたちを助けるため。──若しくは、仇を討つために」
そうつぶやいた、次の瞬間。
「きゃあ!」
背後よりものすごい衝撃を受け、お千代は悲鳴を上げ倒れた。──野生の猪にでもブチ当たったかのごとき衝撃の前にはさすがの忍者もひとたまりもない。
「ぐっ……な、何奴」
すぐさま身をひねり、仰向けとなり起きあがろうとするお千代にあったが、しかし右足を挟まれるかたちにて捕らえられていたがため、逃れることができなかった。
「ええいっ! 離せ! 離しなさい無礼者っ!」
お千代、自由な左足にて蹴りにかかる。この非常時にも、父和右衛門が嘆く足癖の悪さは健在にあった。──あの武中八九郎をも昏倒に追い込む強烈な蹴り。
それを、人体の急所たる右側頭部に向けて踵を当てるかたちにて放ったのであるから、これはもう必殺の一撃にある。直撃すれば、頭蓋を割られ脳髄を破壊されてほぼ即死にあったろう。
「うっ!?」
だが蹴りは空をきった。敵は命中の直前にて身を屈め、死の一撃をかわしたのである。──同時に回避の動きが攻撃となっていた。
「むぎゅ」
敵はそのままお千代の身体の上に覆いかぶさるかたちとなり、彼女の身体を押さえ込んでしまったのである。
仲間たち決死のはたらきにて辛くも危機を脱したかにみえた花忍お千代にあったが、しかし突如として敵の襲撃を受けた。──この、予想だにしていなかった出来事に、彼女の頭は混迷をきわめる。
果たして、お千代は無事に逃れることができるのか?──否、逃れたとてその先に、目指すべき仲間はすでにおらぬ。皆、枕を並べて囚われの身となっておる!
次回、「誰も知らない昔語」