8 銀と葡萄酒
夜空に浮かぶ澄んだ色の月を、リュシアンは自室の小さな窓から見ていた。
寝泊まりするために借りた、礼拝堂の一室だった。
もう真夜中だ。
人々は眠りに就き、リュシアンにようやく静寂が訪れていた。
とんでもないことになってしまった。
たとえ気が合わなかったとしても、かつての仲間と決闘になるなどとは夢にも思っていなかった。
ただ、余命いくばくもないだろう国王の傍へ戻り、恩返しがしたかった。
戦うことしか能のない自分には何もできないのかもしれないが、それでも離れたままでいてはいけないと思った。
それなのに――。
「誰だ」
こんな時間に訪ねてくる者など、まったく心当たりがない。
リュシアンは寝台に置いてあった剣を手に取った。
ここは戦場ではない。
自分の命を狙う者はいないはずだ。
だが本能が何かを告げていた。
「夜分遅くに失礼致します……ドミニク様の使いの者です」
「何っ」
リュシアンは剣の柄に手をかけた。
「今さら決闘の申し出を取り下げに来たのか」
嫌悪と苛立ちが相まって、つい挑発的な物言いになってしまう。
だが構わないと思った。
「いえ、そうではありません。実はドミニク様からリュシアン殿に、贈り物がございます」
リュシアンは戸惑った。
敵に贈り物とは、ずいぶんな余裕だ。
それとも、馬鹿にしているのか。
「帰れ。何を持って来たのか知らんが、拒否する」
「そう仰らずに、ここをお開けください。どうかお願いします」
あまりにも気弱そうな使いの者の口調に、リュシアンは気が進まなかったが、戸を開けてやった。
「ああ、ありがとうございます」
貴族然とした風貌の老人が立っていた。
彼には見覚えがあった。
ドミニクの家の使用人だ。
今まで言葉を交わしたことはなかったが、リュシアンも過去に何度か姿を見たことがあった。
「これでございます」
老人は、簡素な木製のテーブルの上に小さな瓶を置いた。
「なんだこれは」
「葡萄酒です。大変貴重な葡萄から絞られたものです。どうぞ、お納めください」
わけがわからなかった。
なぜ、こんなものをドミニクが寄越すのだろう。
さっきあれほど自分に対して激高していたはずなのに。
「そういう意味じゃない。なぜ、ドミニクが俺にこんなものを寄越すのかと聞いているんだ」
「ああ……そういうことでしたか」
合点がいったとばかりに何度も頷くその老人をリュシアンは訝しんだ。
おかしい。
不自然過ぎる。
「あれからドミニク様も、反省なさったのです。衆目がある場で、あまりにも大人げない言動だったと。ですが、一度申し込んだ決闘を取りやめにすることはできない。せめて正々堂々と戦おうと……その心を表したく、せめてこのような贈り物をと寄越されたのです」
リュシアンはもう疑わなかった。
黙って老人の置いた瓶を取り、中の葡萄酒をテーブルの上の杯に注いだ。
「早速お飲みくださるのですね。ありがとうございます。ドミニク様にもそのようにご報告……」
「待て」
リュシアンは低い声で老人の言葉を遮ると、首に下げた革紐を引き千切り、銀の指輪を杯の中に沈めた。
「おい、何だこれは」
杯をテーブルの上でひっくり返すと、葡萄酒の中から黒々と変色した指輪が現れた。
「こ、これは……」
言葉を失う老人に、リュシアンは詰め寄った。
「毒入りの葡萄酒か。ずいぶん気の利いた贈り物だな」
「い、いや、私は何も……」
「あいつに伝えるがいい」
怒りが噴き出しそうになるのを堪えながら、リュシアンは告げた。
「明日の朝は覚悟しているがいい、と」
がたがたと震える老人を部屋の外へ押し出し、力任せに戸を閉めた。
王女からの大切な贈り物を、まさか今こんなことで使わなければならないとは。
悔しさと自分の不甲斐無さに涙が出そうだった。
テーブルの上の指輪を、リュシアンは情けない気持ちで拾い上げた。
アデルの儚い笑顔と、必死で自分の人生に抗おうとする顔を思い浮かべた。
込み上げて来るのは悔し涙だろうか。
歯を食い縛って耐えた。
蒸し暑い部屋の中で寝台に腰かけ、黒くなってしまったアデルの指輪を握りしめた。
まさか毒を盛られるとは思わなかった。
本能は正しかった。
ただ心は認めたくないと叫んでいる。
気が合わない相手ではあったが、自分なりの矜持がある人物だと思っていた。
真に裏切られるとはこういうことを言うのだろうか。
ドミニクはもう騎士でも仲間でもない。
打ち倒すべき敵だ。
蝋燭の火を消し、リュシアンは寝台へ横になった。
清潔な白いシーツは、心地よい冷たさでリュシアンの感情を包み込んでくれた。
真っ暗な部屋でしばらくじっとしていれば、眠気の方から忍び寄って来てくれるはずだった。
だが、一度昂ぶった感情の波は、いつまで経っても引くことがなかった。
何度も寝返りを打っているうちに、すっかり目が覚めてしまった。
リュシアンは再び寝台の縁に腰かけ、途方に暮れた。
ひと晩のうちに、いろいろなことがありすぎた。
夜が明けてしまえば、命を懸けた勝負が待っている。
もちろん負ける気などなかった。
だが勝ったところで、晴れ晴れとした気分になれるとはとても思えない。
どうしてこうなってしまったのだろう。
いくら考えても、答えは出なかった。
控えめに戸を叩く音に、リュシアンはうんざりした気持ちになった。
誰であろうと怒鳴りつけてやろうと勢いよく立ち上がり、怒りに任せて思いきり戸を開けた。
「きゃっ」
小さな悲鳴。
「アデル様……」
目の前に立っていたのは、舞踏会で別れたままだった王女アデルだった。
「ご、ごめんなさい。こんな遅くに……」
リュシアンはアデルの姿を上から下まで眺めた。
頭まで覆う大きなマントを被り、音のしない布製の靴を履いている。
「……お戻りください、アデル様。あなたのような方がこんな夜更けに出歩いてはなりません」
優しく諭したつもりだった。
「そんな……そんなことを言わないで。お願いだから」
アデルは泣きそうな顔をしたが、涙はこぼさなかった。
「ごめんなさい。あなたを追い詰めてしまったのはわたしのせい……わたしが軽はずみなことをしたから」
声を震わせる王女にどう答えてよいかわからず、リュシアンは立ち尽くしていた。
「もうお気になさらないでください。こうなってしまったことは、誰のせいでもありません」
強いて言えば、自分が戻って来たせいなのかもしれない……リュシアンは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
アデルは俯いていた。
乱れた長い髪が彼女の顔を覆っているせいで表情はわからなかったが、ずっと胸の前で両手を握りしめている。
「アデル様……」
もう一度部屋へ戻るように言おうと身を屈めると、突然白い腕が伸びて来て、首に巻き付いた。
「ア、アデル様」
リュシアンはよろめいた。
「決闘なんてやめて」
切羽詰まったような声が耳を撫でる。
リュシアンは息を止めて、平静を保とうとした。
「いいえ」
絞り出すようにやっとそれだけを言うと、アデルの腕をそっと外した。
「決着はつけなければなりません」
「やめて」
アデルは顔を上げ、濡れた瞳で訴えて来る。
「決闘だなんて……殺し合うのでしょう。私のせいでそんなこと、耐えられない」
リュシアンは急激に深い悲しみに襲われた。
彼女は明日、きっと残酷な光景を見ることになる。
「決闘とはそういうものです。受けたからには、絶対に逃げることはできません」
アデルは唇を噛み、とうとう大粒の涙をぼろぼろ溢し出した。
「死なないで。お願い。そしてできれば……殺さないで……」
最後の方は消え入りそうなほど弱々しく、懇願する子供のような声だった。
リュシアンはたまらず、アデルの細い体を抱きしめた。
「アデル様……私は死にません。必ず、生きてあなたの元へ戻りましょう」
「……ああ、リュシアン……約束よ。私の伴侶になどなってくれなくてもいい。だからせめて、こうしてまたあなたに触れさせてね……」
リュシアンは声を殺して泣いているアデルを腕の中から放し、その白い額に口付けた。
「お約束します」
アデルが帰った後、真っ暗な部屋の中で、リュシアンは自分の心の中に生まれた激しい炎を感じていた。
勝利への決意と王女への激情が、忘れかけていた純粋な闘志を目覚めさせたのだ。
リュシアンは窓の戸を開け、夜明けを待った。
疲労が溜まってはいたが、それが日常だった頃を思い出せばいい。
敵はかつての仲間――仲間だと思っていた相手。
自分を毒殺しようとした。
断じて許すわけにはいかない。