6 覚めやらぬ夢
城の中庭には、自分と同じように酔い覚ましの散歩と思しき人影がまばらにあった。
ここに植えられたたくさんの緑は、人々を夏の夜の蒸し暑さから遠ざけ、癒してくれていた。
リュシアンは噴水の縁に腰を下ろしていた。
酔いも夢も、ここで覚ましたいと思った。
――王女は……アデリーヌ様は、私の婚約者だ――。
懐にしまったままの指輪を取り出し、手のひらの上で弄びながらぼんやりと考える。
国王も既に認めていると、ドミニクは言っていた。
確かに、彼ならば武術ばかりでなく礼儀作法、家柄も、王女の結婚相手として申し分がない。
――あなたに持っていて欲しいの。わたしの……わたしの代わりだと思って――。
銀色の指輪は細過ぎて、リュシアンのどの指にも入らなかった。
あの時のアデルの胸中は、どんな風が吹き荒れていたのだろう。
今頃ドミニクとどうしているのか――。
そう考えた途端、苛つきと焦りが同時に込み上げて来るような、抑えきれない何かに心を支配されそうだった。
認めたくない。
厳しい世の中を生き抜くために封じ込めて来た自分の中の純粋なものを、こんなことで呼び起こしたくなどなかった。
あの幸せな夢は、確かに現実だった。
この指輪がその証拠だ。
だがその現実は、夢だった。
甘い痺れを伴う感覚は、重い痛みに変わっていた。
その痛みを、手離し難い大切なもののように感じる。
大広間のざわめきが、微かに聞こえる。
こんな夜はやはり苦手だった。
早く静寂を取り戻したい。
夜にも、心にも。
リュシアンはブーツの革紐を外して指輪を通し、首に下げた。
そして噴水の縁から立ち上がり、鬱屈した気持ちを発散させるように大きく伸びをした。
酔い覚ましの散歩でもしよう――今は少しでも、あのざわめきから遠ざかっていたい。
リュシアンは中庭の隅の木立の方へ向かって歩き出した。
普段は静かな中庭も、こんな宴の夜にはあちこちに小さな松明が灯され、歩くのに不自由がないくらい明るかった。
夜空へ向かって伸びる樹木が綺麗に並ぶ木立には、先客がいた。
「エミール様……」
物思いに耽る時は誰もいない場所がいいに決まっている。
そう考えるのは、何も自分だけではないのだ。
「リュシアン。あなたもああいう場は苦手だったよね」
涼しげな麻のシャツをゆったりと纏ったエミールは、涼やかな夜風の中で振り向き、微笑んだ。
「ええ……まあ」
エミールは気を許せる相手だとリュシアンは思っていたが、今は何も話す気にはなれなかった。
「ぼくも……でも、いつまでもそんなじゃいけないよね」
最後の方はまるでひとりごとのように、エミールは言った。
「ねえ、リュシアン」
「はい」
「ぼくには、本当に父上の跡を継ぐという道しかないのかな」
今まで見せたことのない、悩みを抱えたような表情だった。
「ぼくには何かが足りない気がするんだ。毎日たくさんのことを学んで、剣の腕も磨いて、強く賢い人間にならなきゃいけないって……努力はしてるつもりだけど……」
その微笑からは、昼間のような快活さが薄れていた。
リュシアンは陰鬱な気分も手伝って何と言っていいかわからず、黙っていた。
だがその言葉に秘められたエミールの本当の心を、もっと明確にするべきではないかと思った。
曖昧なままで進むには、この王子の行くべき道はあまりにも険し過ぎる。
「こんなところで悩んでいないで、行動を起こせばいいんですよ」
エミールは顔を上げ、リュシアンの顔を見た。
「行動……って」
「何か新しいことを始めるのです」
「新しいこと……」
「今まで興味のなかった種類の本を読んでみたり、行ったことのない場所……行く気もなかったような場所へ行ってみたり、何となく食べずにいたものを食べてみたり」
「でも……本はともかく、知らない場所や食べ物は危ないんじゃ……」
「ですから、危険な目に遭わないために、気を引きしめるのです。よく調べて、観察して、ひとつずつ覚えればいいんです」
「大変そうだけど……なんだか、楽しそうだね」
エミールは姉によく似た無邪気な笑顔を浮かべた。
「ええ。楽しいですよ、きっと」
リュシアンも微笑みを返した。
「ねえ、遠い異国には、不思議な衣装で踊る芸人や、想像もつかないような塩辛い料理なんかがあるって聞いたことがあるんだ。知ってるかい」
「知っていますよ」
「いいなあ……見に行ってみたい」
「俺が連れて行って差し上げましょう」
リュシアンは思わず声を上げていた。
それが実現できるかどうかなど、少しも考えていなかった。
ただ、なんとかしてこの少年をまた笑顔にしてやりたかった。
「え……でも、無理だよ」
急に頑なな表情になり、低い声音でエミールは言う。
「ぼくは王子だから、ここを離れられないんだよ。それにドミニクに叱られる」
「構うことはありません」
リュシアンは笑った。
自分で言っておきながら、ずいぶん大胆な発言だと思った。
すべては酒のせいだ。
そして、愚かにも感情を御することができないでいる自分のせいだ。
「この城から出ることもなく、真に民のための政ができますか。世の中のことを実際に見聞きすることは、きっとあなたを大きい男にしてくれます」
「……うん……そうだね。そうできたらいいな」
「きっと。約束しましょう。エミール様がご決心されたなら、その時には俺が必ずお供いたします」
「もし本当にそんな日が来たら、嬉しいな」
エミールは期待と諦めの入り交じった表情を浮かべた。
「諦めないことです。今はまだ」
エミールの未来は、まだ自分でいくらでも決められるのだ。
その生まれのために絶対に避けられない、王位継承という責務を除いては。
少年との約束を果たす日が来ることを、リュシアンは願った。
「ありがとうリュシアン。あなたはやっぱり、ぼくの師匠だよ」
軽やかな笑顔を残して、エミールは王宮へ戻って行った。
その後ろ姿を見送ったあと、リュシアンもまた大広間へ戻ることにした。
エミールとの会話が、気持ちを晴らしてくれたのかもしれない。
もう一度アデルに会って、指輪を返そうと思った。
これは自分が持っているべきではない。
少なくとも、王女の人生に男として関わることを許されない自分には、その資格はないのだ。