5 語らい
そこは、小さなバルコニーだった。
屋内の熱気が嘘のように、気持ちのいい夜風が通り抜けて行く。
リュシアンはしばらくそこに佇んでいた。
ここは、王女のお気に入りの場所だった。
天気が良ければ日光浴をし、嫌なことがあればまたこっそりやって来て、長いことその話を聞かされる。
穏やかな光景がリュシアンの胸中を通り過ぎて行った。
「ここよ」
リュシアンのいる場所からは、声の聞こえる方は真っ暗で何も見えない。
だが声だけで充分だった。
大広間への出入り口に掲げられた松明の炎が、艶めかしく揺らいでいる。
その松明の仄かな明かりは、バルコニーの縁までは届いていない。
それでも、リュシアンはすぐにアデルの姿を見つけた。
「アデル様。よいのですか、こんなところにおられて。お姿が見えないと皆が心配するのでは」
「大丈夫よ」
そう言って笑う王女は、三年前と何も変わっていないと思った。
明かりの届かない場所だったが、夜空には大きな満月と無数の星が散らばり、お互いの顔を確かめるのに問題はなかった。
リュシアンはアデルにあまり近付き過ぎないようにして立つと、改めて彼女の容姿を見直した。
彼女は想像通り、美しい姫君に成長していた。
豊かな髪を銀の櫛で飾り、細い肩を覆う光沢のある布地の下には、しなやかな上半身が脈打っているようだった。
長いドレスの裾が花びらのように広がり、彼女が動く度に軽やかに揺れている。
細く長い指が清楚な曲線を描きながら、小さな唇に添えられている。 明かりの届かない場所だったが、夜空には大きな満月と無数の星が散らばり、お互いの顔を確かめるのに問題はなかった。
「よかった……本当はずっと、あなたに声をかけたかったの。でも、お父様やドミニクの目があったし……やっとお話できるわね」
ドミニク――今のリュシアンにとって、不穏な響きを持つ名前だった。
「あなた全然、変わってないわ……三年前と同じ」
嬉しそうに話し続けるアデルの、飾り気のない態度でも隠せない気品は、以前とは比べものにならないほど洗練されている。
「あなたも……いえ、あなたはとても……」
上手い言い回しが見つからない。
リュシアンは話題を逸らした。
「……なぜ、ドミニクの目が気になるのです」
アデルは途端に沈んだ表情になった。
「あの人……ずっとわたしを監視しているみたいなの。わたしがいつどこで何をしていたか全部知っているし、わたしが少しでも砕けた格好をしたり、城下へ行こうとしたりすると、いつも止めるの」
「それはあなたの身を案じてのことではないのですか」
リュシアンがたしなめるように言うと、王女は唇を噛み、瞼を伏せた。
「違うわ……なんだか、とても落ち着かないの。早くあの視線から逃れたくて仕方なくなるの」
王女は自分の両腕で自分の体を抱きしめ、呟くように言った。
「アデル様。あなたは王族なんですから、特定の誰かを悪く言うのはあまりよくありませんよ」
苦笑いしながらやんわりと諫めると、アデルは渋々といった顔をしながらも頷いた。
「三年前、あなたのご機嫌を損ねたまま旅に出てしまったこと、ずっと胸に引っかかっていました」
知らず知らず、言葉が口をついて出た。
アデルは驚いたように両目を見開いた。
「あの時はごめんなさい。とても驚いたの。それから、なぜか悲しくなってしまって……旅立ちの朝はひどい顔だったわ。だからあなたを見送ることができなかったの」
「それは……」
――泣いてくれたのだろうか。自分との別れを惜しんで――。
リュシアンは頬が緩んでしまうのを止めるのに苦労した。
素直で純真な彼女を愛おしいと思った。
それに気付いた瞬間、言葉を失った。
傭兵上がりの粗野な自分とは、生まれも育ちも天と地ほどの差がある王女。
何を夢見ているのだろう。
目の前の少女は、近くて遠い――遠すぎる人だった。
「陛下のお加減はいかがですか」
話題を変えようと、リュシアンは気になっていたことを切り出した。
「……あまりよくはないの……あなたも見たでしょう。近頃はご自分で歩かれることも減ったわ」
「そう……ですか……」
リュシアンは諦めと寂しさと、その両方を感じていた。
生きている者はいつかは死ぬ。
それが早いか遅いかの違いはあるが、嘆いたとしても仕方のないことだと悟ったような気持ちでいた。
だが、ずっと元気でいて欲しい人がいることも、決して間違ってはいないのだと思った。
「でもね、エミールが最近、ちょっと頼もしくなったの」
気を取り直すように、アデルは明るい声で言った。
「エミール様……ご立派になられましたね。驚きました」
「あなたと過ごすようになってからは活発な子になって行ったけれど、お父様の体調が優れないようになってから、あの子なりにもっとずっと頑張っているのよ。剣の稽古だって……いいえ、この話はいいわ」
最後の言葉だけ、アデルは切り捨てるように言った。
「ねえ、旅に出ていた時のお話を聞かせて」
アデルはわざとらしいほど、無邪気に目を輝かせながら身を乗り出す。
彼女なりに、心を保とうとしているのだろう。
リュシアンは微笑み、頷いて見せた。
決して楽な日々ではなかったが、だからこそ彼女に知って欲しかった。
「この王都は豊かで治安もいい方ですが、辺境の村なんかはみんな、生きるのに必死でした。畑を荒らす獣達を追い払ったり、収穫の時期を狙っては作物を奪いにやって来る山賊団を討伐したり……もちろん俺一人ではできません。夜中ずっと畑の見張りをして、自警団を作って襲撃に備えて、やることはたくさんありました。自分達の村は自分達の手で守らなければなりません。それぞれの領主達もなかなか細かいところまでは手が行き届かないんです」
アデルは静かに聞いている。
退屈させてしまっている気がして、リュシアンは少しでも王女の気を引いておけるような話をしようと焦っていた。
「嵐が近付くと、皆で協力し合って家を補強するのを手伝いました。病人が出れば遠くの街まで医者を呼びに行かなければなりません。でも道中はとても危険だから、たいていは行くのを躊躇います。そしてそのまま死んでしまうことも多かった……そんな顔をしないでください。辛いことばかりじゃなかったんです」
暗い顔をさせたいわけではないのに。
そう、どんな話だって、明るく喋ればいい。
話題は何だっていい。
会話を交わす。言葉を、声を交わす。
「春は野原いっぱいに綺麗な花が咲いて、秋になれば収穫祭で食べ放題……王都にあるような娯楽なんかとは違いますが、満たされた気持ちになることもありました」
「楽しそうね……でも、あなたがそんな場所に一人でいるなんて、とても想像できないわ。それに……」
リュシアンにはアデルの言いたいことがわかった。
「……そんな人はいませんよ。色恋沙汰なんて、俺には無縁のものですから」
――どんな生活をしていたって、心にはあなただけが――。
本当の言葉を飲み込んで、リュシアンは続けた。
「縁談を勧めて来る人はいましたけどね。でも断りました。俺なんかが相手じゃ幸せになんてなれっこないから」
「……わたしも、そういうお話は頂いているの」
遠慮がちにアデルが言った。
リュシアンは「そうですか」とだけ答えた。
気まずいような沈黙が流れる。
先にそれを破ったのはアデルだった。
「あなたが帰って来てくれてよかった」
弱々しく、だが心から嬉しそうな声でアデルは言った。
「でもまた、旅立つのでしょう。まだあなたの助けを必要としている人達はたくさんいるのよね……」
「はい。そのつもりです。ですが今は……お父上のお体の具合が良くなるまでは、またお二人のお傍にいることを許してくださいますか」
「もちろんよ」
アデルは何度も頷いた。
「お父様も……あなたのこと、気に入っているもの。だからきっと喜ぶわ」
同じ言葉を、以前も聞いたことがある気がした。
アデルは少し考え込むような素振りの後、自分の指をそっと撫でた。
「ねえ、これを……」
差し出された白い手のひらに、銀色の輝きがあった。
「これは……」
「あなたに」
リュシアンは恐る恐る手を伸ばし、指の先でそれに触れた。
「王族の紋章が……」
――冷たい輝きを持つ、銀の指輪。
丸い輪郭の内側に、繊細な紋章が彫られている。
「受け取って欲しいの」
「い、いけません。こんな貴重なもの……」
リュシアンは慌ててその指輪をアデルに突き返した。
「あなたに持っていて欲しいの。わたしの……わたしの代わりだと思って」
アデルの声は掠れてしまっていたが、はっきりと聞こえた。
「ねえ、踊りましょう」
アデルは早口でそう言った。
「い、いや……しかし」
腕を引っ張るアデルに、リュシアンは焦った。
だがそれも僅かの間だった。
「……わかりました。俺でよければ」
アデルの顔が、ぱっと明るくなる。
リュシアンは覚悟を決めた。
王女の願いを拒むことなどできなかった。
彼女と自分との身分差を考えれば、断るべきなのだろう。
だが、もし本当に自分と踊りたいと思ってくれているのなら、その手を取ってやればどれほど喜んでくれるだろう。
嬉しそうな笑顔が見たい。
その誘惑に勝てなかった。
「ありがとう……じゃあ、行きましょう」
アデルに腕を掴まれ、リュシアンはよろめくように歩き出した。
アデルの高く結い上げた髪の艶やかさを見つめながら、リュシアンは手の中で熱を放っている銀の指輪をそっと懐にしまった。
大広間では相変わらず、優雅なざわめきと音楽が溢れていた。
アデルは人波に紛れるようにして進む。
壁の燭台の明かりがいくつか消され、舞踏会は終盤を迎えていた。
皆、酔いに任せてそれぞれ想い想いの相手と組み、しっとりとした音楽の中でゆっくりと踊り始める。
アデルが手を差し伸べて来る。
リュシアンはその手を恭しく取り、王女と向かい合う。
星を宿した瞳が、間近から自分を見上げている。
肩に置かれた白い指の感触が、服越しであってもはっきりと伝わって来る。
護衛役として傍にいたことはあっても、こんな風に触れたことなどない。
リュシアンは落下するように強くなって行く自分の鼓動に混乱しそうだった。
アデルの動きに合わせて、なるべく不自然にならないようについて行くのがやっとだった。
ぎこちない足捌きは暗がりで上手く誤魔化せているだろうか。
王女が纏うドレスの裾や小さな足を踏まないように、リュシアンは必死だった。
だがなんという幸福なのだろう。
こんなに大勢いる中で、アデル以外目に入らない。
世界のすべてが、まるで自分達のためにあるようだった。
貧しい村で生まれ雑草のように育った自分が、傭兵として殺伐とした世界を生きて来た自分が、この世で最も高貴な女性と手を取り合っている。
夢だ。これは夢。
さもなければ、酒が見せた幻。
どちらにせよ、すぐに覚めてしまう仮初めのもの――。
音楽が止むと、リュシアンはすぐに王女から離れようとした。
「待って」
引き留めるように、アデルがしがみついて来る。
「アデル様」
胸に顔を埋めようとする彼女を、それでもリュシアンは、名残惜しい気持ちを隠して押し返した。
「お探ししました、アデリーヌ様」
息を切らしたような声が、王女の背後から飛んで来た。
その声を聞いた途端にアデルは顔を曇らせ、俯いてしまった。
「貴様は……何をしている」
王女の背後に立ったドミニクの声が、刃のように険しくなる。
「踊って頂いただけだよ」
「なんだと」
ドミニクはリュシアンに対する敵意を隠そうともせず、アデルを自分の後ろへ押しやると、詰め寄って来た。
「調子に乗るな。今夜は貴様の宴だと思って我慢していたが……人の婚約者に手を出そうとするとは、騎士の風上にも置けん奴だ」
「……今、なんと言った」
血の気が引いて行く。
リュシアンはドミニクを凝視していた。
「王女は……アデリーヌ様は、私の婚約者だ」