1 懐かしい木漏れ陽
三年前、リュシアンは王宮を護る騎士団の長だった。
同時に、王子エミールの剣術指南役としての役目も、国王より仰せつかっていた。
「……さすがです、エミール様」
王子は手合わせの度に確実に上達して行く。リュシアンはそれを肌で感じていた。
元々、エミールは男子にしては幾分か華奢な体つきで、武術よりも学問を好むような性格だった。
だが決して、剣の才がないわけではなかった。
「ありがとう、リュシアン」
エミールは肩で息をしながら言った。
「どんどん腕を上げられますね。俺などすぐに追い抜いてしまうでしょう」
「そんなこと……でもいつもあなたが稽古をつけてくれるおかげで、ぼくは前よりずっと強くなれた気がする。体も丈夫になったし」
「エミール様が頑張られたからですよ。俺はたいしたことはしてません」
「王国一の騎士と言われているあなたがぼくの師匠でよかった。剣の稽古の他にもいろんなことを教えてくれるし」
「……王子のお耳に入れるのに相応しくない話は控えていたつもりだったんですが」
懐いてくれる王子につい心を許し、出過ぎた振る舞いも多々あったことは自覚している。
だが、リュシアンはあまり反省はしていない。エミールがそれを喜んでくれていることをわかっていたからだ。
「どうして。ぼくはあなたの話を聞くのが好きだよ。ほら、この前の酒場での……」
「あ、あれは……俺もつい手が出てしまったのです。お恥ずかしい話です」
体を動かしたあとは、いつも会話が弾む。堅苦しい王宮の空気を忘れられるひと時だった。
「すごく面白かった。誰もそんな話、教えてくれないから……」
「ええ。そうね」
涼やかな声が流れ込んで来た。
「アデル様」
いつの間にか、侍女達を従えた王女アデリーヌ……アデルがすぐ近くにいた。
エミールとリュシアンが二人でいると、アデルはいつもそこに加わりたがった。
すらりとしたその姿は、まるで絵画の中から抜け出して来たかのようで、リュシアンは無意識に見惚れている自分に気付いて内心冷や汗をかくことがよくあった。
「リュシアン、わたしからもお礼を言うわ。外に出ることさえ嫌がっていたエミールが、自分から剣の稽古に出向くようになったのも、あなたのおかげよ」
「……い、いえ」
リュシアンは未だに、アデルが目の前で気さくに話しかけてくることに慣れずにいた。
エミールとは、身分や性分は違えど、男同士で共通するものがある。だが彼女とはどうしても、ある程度の距離を保っておかなければならない。
「もったいないお言葉です」
だからリュシアンは、アデルに対してはいつも、なるべく視線を合わせないように気を付けていた。それも、不自然にならないように。生真面目にを装い、リュシアンは応えるのだった。
「エミール様はもともと素質がおありなのです。だから上達も早かった」
アデルはそれでも、楽しげに笑った。
「いいえ。あなたのおかげです。あなたはわたし達が王族だからといって、お世辞やごまかしなど言わないから……エミールもすぐに懐いたし、お父様だってあなたのこと気に入っているわ」
「それは……ご無礼がありましたら申し訳ありません。決して……」
「ち、違うの、誤解しないでね」
少し、かしこまりすぎてしまったのだろうか。アデルは表情を変えると、慌てたように言った。
「そうだよ、リュシアン」
エミールが割って入る。
「ぼくも姉上も、あなたにすごく感謝してる。これからもこうして稽古をつけてくれるよね」
無邪気な笑顔。胸がちくりと痛んだ。
「……エミール様」
躊躇う気持ちを吹っ切れずにいた。だがこの期に及んで、もう言わないわけにはいかなかった。
「リュシアン、どうしたの」
覚悟を決め、リュシアンは顔を上げた。
「アデル様にも、お話しなければならないことがあります」
「え……」
アデルの顔に、不安の色が浮かぶ。それが辛かった。
「俺は……近々、王宮を離れることになりました」
姉弟は目を見開き、狼狽えた。特にアデルの動揺は、目を逸らしていてもはっきりとわかるほどだった。
「そ、そんな……でも、どうして急に」
「俺はこの王国の騎士として、遠く貧しい土地に住む人々のために、力を尽くしたいのです」
穏やかに、伝わるように、言葉を選ぶ。
「だって……だってまだ、いろいろ教えて欲しいのに」
「申し訳ありません、エミール様。今まで言えずにいたこと、お許しください」
エミールは不安そうな表情で、リュシアンを見上げた。
「騎士団はどうするの。ぼくは誰に剣を教えてもらえばいいの」
「俺でなくとも、優秀な騎士は他にもおります。エミール様のことはよく言っておきますので」
「そ、そうじゃなくて……姉上、何か言ってよ」
エミールにつられてリュシアンも振り返る。
静かに微笑む王女がいた。
寂しさと諦めを讃えた微笑。
リュシアンは石を飲み込んだような胸苦しさを覚えた。
「……気をつけてね、リュシアン」
それだけを、彼女は呟くように言った。
「ありがとうございます。傭兵だった俺を引き立ててくださったご恩は決して忘れません」
交わった視線を刹那の間、辿った。
胸に焼き付いた微笑。
「あ、姉上、待って……っ」
王女は身を翻して去って行った。
その、何か頑なな態度に侍女達は少し戸惑うが、皆すぐに王女の後を追った。
真っ直ぐに伸ばした背筋と、少しだけ俯いた首筋から流れるような肩の曲線を、リュシアンは目で追った。
「……アデル様……」
不意に、じわじわと込み上げて来る寂寥感に、リュシアンは今更ながらたじろいだ。
「ごめんね、リュシアン。あなたにはあなたの使命があるんだよね……うん、ぼくも強くなるよ。この国の誰よりも強くなって、いつか立派な王になってみせるよ」
幼い王子の健気さが、いくらかリュシアンの心を救ってくれた。
「だから約束して。必ず帰って来るって」
「……はい。騎士の名に賭けて……この国に何かあった時には、必ずお二人の元へ帰ると誓います」
――そして、あなたとあなたの姉上に、生涯変わらぬ忠誠を――。
あの日も、こんな風に夏の陽射しが照りつけていた。
そして今も色褪せず、リュシアンの奥底で木漏れ日のように揺れ、水面の波紋のように広がり、胸を締め付けるのだった。