ラムネ
「貴くん、そろそろ学校へ行かなきゃ遅刻しちゃうわよ……?」
ドアを控えめにノックする音と共に真織の声が聞こえた。貴絋はすぐさま起き上がって時計を見る。もう一息で8時になるところだ。思わず「え?」と驚きの声を上げてしまう。何よりおかしいのは、アラームが切られていること。
自分でアラームを切るとどんなに眠くても記憶に残っている。例えば切ったあと二度寝したとしても、絶対に覚えていた。だが今日は今真織に起こされるまで、目覚めた記憶もアラームを止めた覚えもなかった。
変だな、と思いながらも着替えようとしたが、パジャマのパンツに手をかけようとしてぎょっとする。何故かすでに着替えを終えていた。
また寝ぼけたんだろうか?
不思議に思いながらも、ランドセルを背負った。
「いってきます」
小さく呟きながら、真織の様子を盗み見る。おかしな所は見当たらないが、普段なら朝食を食べる余裕がある時間に起こしてくれるくらいの気遣いを見せるはずだった。
「気を付けてね」
パンツスーツ姿の真織はそう言っただけ。
走って学校に向かう途中、胃に充足感があることに気が付く。
――もしかして俺、朝たべてる?
だから母さんは何も言わなかったのか?
考えても思い出せないが、たぶんそういう事なんだろう。ただ、不思議とこれまでのように不安な気持ちにならないのは、だんだん感覚が麻痺してきているのか、もう気にしてないのか、気分が落ち着いているからなのか。貴紘は自分でもよくわからなかった。
教室のドアを開けて席につく。遅刻は免れた。光一が驚いた顔で貴絋を見つめながら何か言おうとしている。その前に貴絋は、光一が机の上に置いているリュックサックを目にして言った。
「何お前リュックなんか持ってきてんの? 遠足にでも行く気かよ」
「うん、行くよ、社会見学……辻くん、まさか」
貴絋はようやく周りを見た。みんな色とりどりのリュックサックを手に、楽しそうにはしゃいでいる。
「……詰んだ」
真っ黒のランドセルを持っているマヌケは自分だけだ。
「そろそろ帰る」
「今来たばっかり!!」
光一はそこから去ろうとする貴絋の腕をぎゅっと掴んだ。
「大丈夫! 荷物なんてお弁当とおやつとデジカメくらいだから! 僕の分けてあげるし、もしかしたら見学先に食堂があるかもだし! ランドセルも見ようによっては最新のリュックに見えなくもない!」
「見えねーよ! 定規刺さってんぞ」
「ちゃんと確認しないからだよ、もう」
プリント、連絡帳の存在意義をやっと理解した貴絋だった。
「貴絋……ッ! お前体張ったな!」
明吉が爆笑しながら近付いてくる。
「ボケじゃねーから」
「かっこつけてる……! ラ、ランドセルの癖に……ッ!」
「黙れ。あっちへ行け」
肩をパンチしようとた貴絋の拳を受け止めた明吉が、今度は正真正銘のさわやかな笑顔で言った。
「仲直りできて良かったな。もうケンカすんなよ?」
「……お前やりづれーよ」
明吉と言うクラスの中心人物が来たことで自然と注目がそこに集まる。そして、それをさらに盛り上げる事態が起ころうとしていた。
「た……、タカヒロ!」
鈴を転がしたような可憐な声が響く。貴絋は自分の席の目の前に立った人物を見上げた。
小柄だがやけに存在感の強い女子だった。名前は思い出せない。その眼差しは貴絋の名前を呼ぶ割には、窓の外を眺めている。
タカヒロ。ごく普通のよくある名前だ。
自分のことではないなと認識した貴絋は、何のリアクションも起こさず、光一の方を向く。
「……呼ばれてるんじゃない?」
光一は困り顔で彼女を指差した。
「? 誰、こいつ。初対面で呼び捨てされる謂れないんだけど」
「初対面じゃないわ! 先日カフェで会ったでしょ!? あなたはパンケーキを食べ、私はライブ配信してたじゃない!」
貴絋の机をバシバシと叩きながら、その少女は説明する。貴絋は彼女のあまりの剣幕に、目が点になった。
パンケーキ? カフェで? ライブ配信……?
身に覚えのない言葉たちばかりだ。貴絋はやっとのことで口を開く。
「……言ってることの意味が全くわかんない」
「さすがタカヒロ、Coolみが高い……だけど私だけが知るその素顔、プライスレス。……Sorry。わかったわ。あのときのことは他言無用ってことね、OK。良かったらこれを食べなさい」
そういって可愛くラッピングしてある謎の物体を貴絋の机に残し、自分の席へと去っていった。
光一に視線で訴えかけると、彼はこう答えてくれた。
「神森ダイアナ央子さんだよ。今をときめく大人気ユーチューバー。推定年収三億円、座右の銘は『神と和解せよ』。FBIと侍のハーフなんだ」
「ツッコミが追い付かねーよ」
その後しばらくの間、席に付いたダイアナは女子の群れに囲まれていた。キャーキャーと楽しそうな歓声が上がっている。
「君がよく休んでた時期に編入してきたよ。アメリカ帰りなんだって」
「……アメリカ? 病院の間違いだろ」
近くから、貴絋の言葉に噴き出す声がいくつか聞こえてきた。
貴絋は、ダイアナの置いていった包みをランドセルにしまおうとして、ギクリとする。
ランドセルの中に弁当箱が入っていたのだ。
□
校庭に停めてあるバスに乗るときに、後ろから声を掛けられる。
「辻くん何か落ちたよ」
振り向くと貴絋のポケットから落ちたらしい家の鍵を、クラスメイトが拾って渡してくれた。
「……どうも」
受けとると、拾ってくれた彼は少し恥ずかしそうに笑って見せた。こんな風に笑いかけられたのは初めての事で、貴絋は驚いてすぐに目線をそらす。そのまま急いで空いた席を探した。
座席に腰掛けると、窓側に既に座っていた光一が窓から地面を見下ろして喜んでいる。彼はテンションが上がるといかにも子供のようになる。
「ねー辻くん、高いところから下見るのって気分良くない?」
バカバカしくて返事をしなかった。それより貴紘にはさっきから物凄く気になることがある。ランドセルに入っていた弁当箱だ。ずっしりと重く、明らかに中身が入っている。一体誰が?
もちろん、弁当を包んであるバンダナは見覚えのある自分のものだった。誰かが間違えて入れたなんて事は万が一にもない。
真織が入れたのだろうかという考えが一瞬頭をよぎったが、彼女は今日が社会科見学であることすら知らないのだ。むしろ貴絋自身も知らなかったことである。真織が知りようもない。
ひとつの仮定が浮かぶ。
朝起きたときアラームが切られていたこと。
勝手に着替えていたこと。
朝食を食べたらしい痕跡があったこと。
全部記憶がないのに実際にはそれをしたことになっている。
もしかして、寝ぼけたままアラームを止め、弁当を作り、着替えて朝食をとったのではないか。
――俺、ヤバくね?
称賛の意味で。
しかも今日が社会科見学ということを忘れていたというのに、弁当をちゃんと作るとはもはや天才と言っても過言ではない。むしろ超能力者だった。
「辻くんこれあげるー」
呼ばれて顔を上げると、通路を挟んで向こう側に座った女子が、手を伸ばしてお菓子を渡そうとしている。
「松葉くんにも渡して?」
ほとんど話したこともない女子だった。貴絋はそれを受けとり礼を述べたが、表情は固いままだった。彼女も恥ずかしそうに笑った。
――なんで俺に。こいつら、さっきからヘンだ。
もらったのは黄色いラムネ菓子だった。それを光一に渡すと彼も「ありがとう」と礼を言った。
車内がだんだんと騒がしく盛り上がってきたところで、貴絋はなるべく小さな声で光一に話しかけた。
「……なんか今日やたらと知らん奴に話しかけられるんだけど」
光一は嬉しそうに笑って言った。
「君と仲良くなりたいんじゃないのかなぁ」
「なんで」
本当に「なんで」と聞くしかなかった。今まで挨拶すらしたことなかった奴らが、なぜ突然。目が合うと怯えたような顔つきですぐに顔を背けていたやつらが、どうして。
「そりゃぁスクールカーストのどの位置にも属さない気高き背反者の君が、かたや僕のような陰キャと仲良くしていたら、みんな興味を惹かれるんじゃない? それに元々君は一部の女子には人気あったよ」
朝、明吉が親しげに接していたのも要因のひとつだった。だが彼らは気が付いていない、先日の光一の叫びが一番クラスメイトたちの心を動かしたという事実に。
「何だよそれ……」
貴絋は素直に喜べなかった。
「これを機に色んな人と仲良くなってみたらいいんじゃない」
全然嬉しくない。煩わしい。
「別に、俺は……」
光一と楽しくやれてればそれでいいのに。
貴紘は、出かけたその言葉を口に出せるはずもなく、面白くない気分とともに一息で飲み込んだ。