オムライス
背中を預けている壁は冷たく、貴絋の体温をどんどん奪っていった。光一が言ったという言葉が、態度が、とても嬉しいはずなのに、その嬉しい気持ちが大きなほど貴絋の心を苦しめる。
「ちゃんと松葉に謝れよ? 仲直りしろよ、ゼッタイ」
明吉が言った。
他人だからそんな風に気軽に言える。
あんなことを言ってしまったんだ。許してもらえるはずがない。自分で、突き放した。
「……俺もうアイツに合わす顔ねーよ」
思わず口をついて出た小さな声を、明吉は聞き逃さなかった。
「大丈夫だから!」
突然明吉が立ち上がって貴絋の肩を掴んだ。貴絋が驚いて明吉の顔を見ると、にっこりと笑って言った。
「貴絋、お前今泣きそうな顔してるもん。松葉のこと大切に思ってる証拠じゃん。絶対わかってくれるって」
その笑顔を見ながら貴絋は思った。
自分もこんな風に素直な性格なら良かったのに。
□
「えっ!? 帰った?」
最終的に保健室に立ち寄った貴絋と明吉は保健師に、光一は早退したと教えられた。
「担任の先生には内線で連絡しといたわよ。貴方たちも早く教室に戻らなきゃ」
よっぽど傷付いたらしい。貴絋はますます死にたくなった。
「……俺も帰ろうかな」
「アホ! そんなことしたらオレが先生に怒られるだろ。早く教室に戻るぞ」
そのあとの授業はまったく頭に入ってこなかった。自分のしてしまったことの重大さが、時を刻むごとに深刻に感じられた。
あのときの光一の表情が、脳裏に焼き付いて離れない。謝りたい。けど、その先にある未来を想像できない。自分が光一に関わることによって、彼に悪影響を与えてしまうのではないか、そもそももう嫌われてしまったかもしれない。こんな風になるなら近付かなければ良かった。
貴絋は給食も喉を通らず、ただ無駄に時間を過ごした。
□
家に帰ってからすぐにソファに倒れ込む。何も考えたくないのに、自分の言った最低な言葉と光一の悲しい顔ばかり思い出した。
あいつは今、どうしてるだろう? まだ泣いてるのかな。
考えれば考えるほど、罪悪感の重みで体がソファへ沈んでいく。
真織が帰ってきてご飯を作っても、喉を通らない。光一の事が気がかりで何もする気が起きない。どうして明日は学校が休みなんだろう? これじゃますます時間が開いて謝りづらくなる。そんなことを考えながら、貴紘は自分のベッドで眠りに落ちた。
□
『起きて!』
まどろみの中、女の声が頭に響いて飛び起きる。目に入ったのは、カーテンの隙間から入り込む白い光。もう朝だ。
『早く起きて』
またあの声が聞こえた。貴絋はつい声に出してその声に答える。
「いま気分サイアクだから話しかけてくんな」
『早く支度して駅に行かなきゃ。今日はあの子と約束してるんでしょ?』
それは、昨日の晩から貴絋もずっと考えていた事だった。結局うやむやになってしまったあの約束が、今でも有効なのかどうか。でもたぶんもう無効だ。そもそも自分は「行く」と了承していないし、二人の友情は昨日で終わった。
むしろ自分で踏みにじった。約束は無効だ。
『早く着替えて』
「お前に関係ない。ってかお前なんなの? 誰なんだよ! なんで俺の中にいるんだ」
『そんなの今問題じゃない。あんたがしなくちゃならないのは、今すぐ駅に行くこと』
「行かねーよ! もうアイツとは関わらない方がいいんだ。……てか俺もう嫌われてるし……」
『いい加減にしなさいッ!』
あまりの声量に思わず目を見開いてしまう。その声は確かに怒気をはらんでいた。
『あーもうイライラする』
なんでこいつはこんなに怒ってるんだ、こいつは一体誰なんだ、俺の何なんだ。俺は得体の知れないババアの霊にでも、とり憑かれてんのか?
心臓がドキドキして手に汗をかいたが、不思議と怖さはなかった。
謎の声はますます声を荒げる。
『結局あんたは自分が傷付きたくないだけなんだよ。卑怯者で臆病者。あの子から離れる事が罪滅ぼしなんかじゃないよ、あの子に正直な気持ちで向き合うのが、あんたが今しなきゃならないこと! そんなこともわからないって、どんだけ子供なの? さっさとしないとあんたの体でまた無銭飲食するわよッ! またママに迷惑かけちゃうよッ!』
「は!?」
この声の言っている事が正しいことなのかどうなのか貴絋にはわかりかねたが、自分でもそうしないときっと後悔すると強く感じた。とにかく、謝ろう。その後のことは、光一が許してくれてから考えればいい。
ってか無銭飲食ってナニ……?
時計を見ると、9時53分だった。貴絋は急いで着替えると、行き先も告げずに玄関を出る。「貴くんどこいくの? ご飯は?」遠くで真織の声が聞こえた気がした。
□
動悸が激しくなっているのはけして走ったからではない。こんなに緊張したのは初めてだった。光一は来るだろうか? 来ないかもしれない。それでも、最低でも一時間は待とうと決めた。
貴絋は待つことが嫌いだった。夕飯が入った電子レンジ、ゲームのローディング、コンビニのレジ。イライラして仕方がない。
しかし、来るかどうかわからないものを待つことがこんなに不安なことだとは知らなかった。
せわしなく行き交う人々の中に、待ち人はいっこうに現れない。時計はもうとうに11時を過ぎていた。
自分達と同じ年頃の子供を見かける度に心臓が跳ねた。直後、とてつもなくがっかりする。
もう無理かもしれないな。貴絋はそう思った。
元々来ると期待してはいなかったが、実際に待ち合わせの時間を二時間を過ぎようとしている時計を見ると、さすがに堪えた。それでも足がそこを動かない。
自分が素直に約束していれば。あのときあんな風にイライラしなければ。光一に酷いことを言わなければ。きっと今頃二人で楽しくブラキオサウルスに餌をやれていたのだ。
13時を過ぎようとしたとき、伏せた視線の先に見覚えのある靴のつま先が現れた。すぐに顔をあげるとそこには決まり悪そうな顔をした光一が立っていた。
「友達じゃないのにずっと待ってたんだ?」
開口一番にそう言った光一の冷たい顔を見て、貴絋の胸は少し痛んだ。その痛みで、まだ優しい言葉を期待していたのかとすぐに恥ずかしくなる。
「……お前って大人しそうに見えて結構言うよな」
「そっちこそ。尖ってるくせに本当は臆病じゃん」
その通りだった。そのせいで、どちらかといえばいつもは温厚な光一をこんな風に怒らせてしまったのだ。
「……悪かった」
「僕が聞きたいのは、そんなことじゃないよ」
貴絋は唇を固く結んでしばらく黙りこんだあと、覚悟を決めたように顔を上げた。
「心にもないこと言った。お前が初めて話しかけてきたとき、ほんとは嬉しかった。変なヤツだけど一緒にいると楽しい。許してくれるなら、だけど……」
そこまでいうとまた黙った。踏み越えなくてはいけないラインはすぐそこなのに、弱さが足を引っ張る。その弱さは貴絋自身が今まで背負ってきた物で、もし光一と先へ進むならここでいくらか捨てる必要があった。
光一は貴絋の言葉を静かに待っていた。貴絋は、光一がここに来てくれて、わざわざチャンスを自分にくれたんだということを思い出す。もう自分のことばかり守ってはいられない。
「……また、友達になって欲しい。勝手ばっかり言って悪いけど……俺の言うこと聞けよ、光一」
これだけのことを言うのに踏み出した一歩はとてつもなく重かったが、踏み越えた後からは、ずっと胸につっかえていたものがすっとなくなった気がした。
「初めて名前呼んでくれたね。ってかそれ許しを請う人の言い方じゃないから」
光一の声がやっと柔らかくなった。貴絋が恐る恐る彼と目を合わせると、光一は嬉しそうに笑った。
「泣きそうな顔しないでよ」
「……お前がクソ恥ずかしいこと言わせるから」
思わず袖で顔を拭う。涙は出てないはず。
「ごめんごめん、じゃ行こう」
光一は、貴絋のポケットに突っ込んだままの腕を引っ張る。歩き出した方向は、駅の外だ。
「おいっ……電車乗らないのかよ?」
許してもらえたんだろうか?
どんどん先を歩く光一を見ながら、貴絋はそう思った。
「……また友達になってなんておかしいよ。僕は君と友達やめたつもりないんだからさ」
振り返って笑う光一の瞳に涙が浮かんでいるのを見つけて、貴絋は自分の涙もこぼれないように、しかめっ面でうなずくしかなかった。
不安がないと言えば嘘になる。だけど、それ以上に嬉しさと、期待があった。そして彼の涙を見てものすごく安心した。
自分と同じ気持ちで居てくれる友達という存在が、こんなに心強いものだということをずっと忘れていた気がする。
ここに来て良かったと心底思った。背中を押してくれたあの女の声に少しだけ感謝をしなければならない。
□
貴絋は何故か光一の家に連れてこられた。博物館はお昼を食べてから行くことになったらしい。
「お前……いつもこんなうまいもん食ってんの」
貴絋はそのオムライスを一口食べた瞬間、頭がクラクラした。衝撃を受けたとき、目の前に星が飛ぶのって本当だったんだと感心する。
「え……大げさ過ぎでしょ」
光一は若干引いている。
料理を誉められた光一の母は嬉しそうに言った。
「ごめんねこんなものしかなくて……でもそんなに美味しそうに食べてくれると本当嬉しいわ」
「いえ……こちらこそ突然お邪魔した上にお昼までご馳走していただきまして、申し訳ありません」
「いいのよ! 光一が三時間も待たせたんだから。こっちこそごめんね」
「辻くん敬語使えるんだ……なんか衝撃」
ただし棒読みだった。
光一の部屋は、ゲームに出てくる恐竜のポスターがたくさん貼ってある。それを見てすぐに貴絋は言った。
「光一、ディノハンターワールド(ゲーム)やってんの? 俺も今やってる、オンラインで今度協力プレイする?」
「僕ディノハンター4までしかやってないんだ……プレステ4持ってないから。来年のお年玉まで待たなくちゃ」
「んなもんサンタのおっさんに貰えばいいじゃん。俺そうしたよ」
「えっ」
光一は目を丸くした。出ようとした夢のない台詞を慌てて飲み込み、慎重に言葉を選んだ。
「辻くんち、サンタさん来るの?」
「来るよ毎年……え? ここの家には来ねーの?」
「もう来てくれなくなったよ」
貴絋は驚いた後、居心地悪そうに謝った。
光一は笑いをこらえるのに必死である。まさかこの貴絋がサンタを信じているとは……。
光一の家ではサンタは来ないが母親がプレゼントを買ってくる。健気な光一はプレステ4を母親にねだれない。
「まぁでも……あのオッサンもちょっと変だから親御さんが心配する気持ちもわかるよ。たぶんお前の母さんが断ってんだよ」
「なんの話!?」
「これ言っていいのか? なんか無垢な子供に社会の汚い部分を教えるみたいで罪悪感あるな」
「君はサンタと何をしてるの」
「クリスマスの前の晩に、靴下置いとくだろ? その中に笑顔の俺の自撮り入れとくんだよ。それとプレゼント交換ってわけ」
「なんで!?」
「知らんけどそうしないとくれねーんだもん」
光一はまだ会わぬ貴絋の母親にそっとエールを送った。できればお母さんに笑いかけてあげてほしいなと思ったが、それはやはりどうしても言えなかった。