サンマ
「ねえ辻くんが帰ってきてないんだけど」
花枝先生は大量の漢字プリントを置いて、職員会議か何かに出掛けた。学級委員の明吉はそれを皆に配りながら、その光一の問いかけがあるまで貴絋の不在に気が付かなかった。
「ほんとだ。誰か知らない?」
プリントを配る手を止め、明吉は聞いた。だが、誰も答える者はない。しばらくして、ようやく遠くから男子生徒の声が上がった。
「辻って体育係じゃなかった? まだ片付けてるんじゃないの」
誰かがそう言ったのを聞いて、光一はすぐに言った。
「辻くんケガしてたの、みんな知ってるでしょ? 誰も手伝ってあげなかったの?」
明吉は光一の言葉に驚き、そこまで気が回らなかった自分を反省する。
「そっか、そうだったよな。気が付かなかった。悪いことしたな……ってか、体育係もう一人いただろ? 女子。知らないの?」
明吉の言葉におずおずと手を上げたのは、文美だった。
「それ私。でも私先帰っちゃった、ごめん。だって、彼いつも休んでるでしょ? その間はいつも一人でしてるんだもん。それに辻くん、ちょっとコワいし……」
「だよね、文美ちゃんのこと責めないで」
「たまに来てる時くらい一人でやってもらったっていいじゃん」
一瞬で"文美ちゃんを守る女子の会"が出来上がり、明吉はそれ以上追求することができなくなる。
「ってかケガしたのとかアイツの都合じゃね? なんで俺達が手伝わなきゃならないの?」
「そもそもなんでケガしたの?」
「中学生とケンカしたって聞いたよ」
「こわい」
「俺はサンマを9枚に手刀でおろしたときに出来た傷だって聞いた」
「もっとこわい」
徐々に騒がしくなる教室に不穏な空気が満ち始める。光一が反論しようとしたとき、いつも彼がよく行動を共にする友人が突き放すように言った。
「またサボって帰っちゃったんじゃないの? だって辻くんって……不良みたいだし」
光一は思わず眉をしかめる。
そもそも着替えを置いたまま帰るはずがない。そんなことがあったとしたらそれは異常事態だ。確かに彼は休みがちだけど、別に不良ってわけじゃない。もちろん、近寄りがたい雰囲気がないと言えば嘘になる。だけど何も知らない人達に、こんな風に言われるのは嫌だった。
「父親がいないからって甘やかされ過ぎなんじゃないの」
「おい! それ言い過ぎだから」
明吉が反射的に叫ぶと、教室は一気に静まり返った。
一方光一は今にも泣きそうな顔で、静かに立ち上がる。
「クラスメイトのことをこんな風に心配できないってことが、僕は寂しい。確かに辻くんは皆と仲良くしようって感じじゃないけど、彼は皆のこと悪く言ったりしないよ。ちゃんと係もやってる。皆に、辻くんと仲良くしてくれなんて言わないけど、だけど」
光一の震える声に、クラス全員が注目した。
「僕の前で、僕の友達を悪く言わないで」
光一はそれだけ言うと、椅子を引いてドアを目指した。明吉は慌てて光一を呼び止める。
「辻くんを探してきます。体育館へ」
そう言うと、静かにドアを閉めた。
「オレも行く、みんなは漢字やってて!」
手に持っていたプリントの束を教壇に押し付けて、明吉は光一を追い掛けた。教室はそのまま静けさを守った。
明吉が教室を出て走ると、すぐに光一に追い付いた。
「松葉、待ってよ。オレも行くから」
光一の顔を盗み見るともうそこに悲しみの色はなく、普段のあどけない表情に戻っていた。それでも、明吉に気付いた光一は途端に不安そうな顔になった。
「僕さっき激情に駆られて何言ったか覚えてない……どうしよう」
「普段おとなしい奴がキレると怖いってマジなんだな」
爽やかに笑った明吉が眩しい。学級委員としての責任感もあり、とても頼れる男だ。
「えっ どうしよう僕キレてたの?」
「ウソウソ、変なことなんて言ってない。松葉、かっこよかったよ。たぶん皆反省してるから許してやってよ」
二人はそのまま歩きながら、体育館の鍵をもらいに職員室に向かった。
明吉は光一と特別仲が良い方ではなかったが、先ほどの件で彼をひどく気に入ってしまった。普段あまり目立つ方ではない光一が大勢の前で意見を主張するということは、彼にとっては勇気のいる事だったに違いない。
明吉はあまりクラスに馴染めていない貴絋の事を少し気にしていた。休憩時間になると気だるそうに外を眺めている彼を一緒に遊ぼうと誘うも、きまって乗ってこない。どうしたものかと考えていたとき、最近光一と楽しそうに会話している貴紘を目にして、少し安心していた。
「でもさ、松葉がこんなに貴絋と仲良かったなんて意外だよな、タイプ全然違うのに」
「仲良いっていうか……僕はそうしたいけど辻くんはそう思ってない感じがする」
「そんなことねーだろ。お前と居るときあいつ楽しそうだもん」
「そうかな。そうだといいけど。でも辻くんは怖そうに見えて意外と普通だよね」
「だな。オレ一年からずっと同じクラスでよく遊んでたよ。でも三年になった頃かなぁ、なーんか急に壁作るようになったって言うか付き合い悪くなったって言うか。前はもっと明るかったんだけどな」
明吉は少し声のトーンを落として続ける。
「あいつ、五年に上がる前までは、萬って名字だったんだ。たぶん、親が離婚したんじゃないかと思うんだけど……聞いてる?」
「本人からは家族の話聞いたことないよ。でも、噂で聞いたことあるし、僕……そういうのなんとなくわかるんだよね。オーラで」
「そーなの?」
「うん、僕んちも母子家庭だから」
「……そっか。……オレ、そういうのよくわかんないけど、想像したら割ときついんじゃないかと思ってて。もちろん、人それぞれだとはわかってるけど。貴絋が元気ないのってそういうのもあるのかなって……」
明吉がゆっくりとぎこちなく話すのは、言葉を選んで最大限の気を使ってくれているからだというのが伝わってきた。光一はそれを嬉しく思った。
「そういう風に思ってくれる人が周りにいるってことが、きっと助けになってると思うよ」
「そかな。……貴絋ってテキトーそうだけど、実は繊細っていう結構面倒な性格なんだよなぁ」
「繊細なんだ。アハハ」
「オレもだけど」
「アハハ」
「笑うとこ違う」
体育館の扉を開けると、中は静まり返っている。
「いないね、ここじゃないのかな」
「いや、倉庫も一応見てみようぜ。よく漫画であるじゃん? 中にまだいるのに閉じ込められて一晩明かすみたいなの」
「花枝先生ならやりかねないもんね」
「案外抜けてるからな」
明吉が倉庫の鍵を開け重たいドアを引く。一見誰もいないように見えた。がっかりしてまたドアに手をかけたとき、静かな呼吸音が聞こえた気がしてもう一度中をよく見る。
「辻くん!」
先に声を上げたのは光一だった。彼が駆け寄った先は、隅に捏ねてあったマットの塊だ。その上に貴絋が仰向けになって転がっている。
「おい! 貴絋、大丈夫か!?」
慌てて様子を確認するも、よく寝ているだけだった。
「なんだ、寝てるだけか。びっくりした」
「辻くん! 起きてよ」
二人は貴絋の体を揺らして起こした。貴絋は素直に目を覚まして体を起こすと、二人の顔を見るなり笑う。今まで見たこともないような笑顔だった。言葉も出ず、固まる二人に貴絋は言った。
「少し体調悪いみたいだから先に帰るね。二人とも探しに来てくれたんだ、ありがとう」
そのまま振り返ることもなくさっさと体育館を出ていく貴絋を見て、二人はようやく意識を取り戻すと、お互いの顔を見合った。
「なに、さっきの」
「……わかんねぇ。けど、なんか……」
「可愛かったね」
「ああ、別人だった」
急いで倉庫の鍵を閉めて貴絋を追いかけるも彼の姿はもうなく、二人が教室に戻っても貴絋は着替えを置いたまま、戻ってこなかった。
「先に帰るって、家に帰るってことだったんかい」
明吉がそう言って肩を落とした。
「でも、なんだか辻くん変じゃなかった?」
「あそこでなんかとびきり怖い思いでもしたんじゃ……そのショックで?」
「そういったのは僕の管轄です」
光一は中指でメガネの位置を直す。
「いやお前メガネしてねーじゃん……」
あとで、花枝先生に報告しないとな。
明吉はぼんやりと考えながら、皆のプリントを集めて教壇に置いた。
教室を見渡してみる。全員漢字をやり終えて友達同士でお喋りしたり、騒いでみたりと楽しそうな笑い声があちこちから沸いている。
この中に、さっきの松葉の言葉に動かされた奴はどれくらいいるんだろう?
明吉はそんなことを思いながら、光一と、貴絋の空席を眺めた。