お弁当
「おい、今変な声聞こえたろ」
「え? 何も聞こえないけど」
「嘘つけ! したじゃん変な女の声が!」
「幻聴じゃないの? やめてよ自分だけ特別な存在ぶるの……」
「いやそれお前が言うな!」
静かな図書室に貴絋の声が響いた。注目を浴びた貴絋は我に返って椅子に座り直すと、もう一度よく耳を澄ませる。
さっき、確かに聞いた。絶対に空耳でも幻聴でもない。あんなにはっきり聞こえたんだから。
しかし、しばらくその声は聞こえてこなかった。そうこうしている間に休憩時間は終わってしまう。
□
「いよいよ来週だからね、今日は隣の人とペアを組んで計画を立てて~。帰ってきたら模造紙にまとめて発表します」
担任の花枝が嬉しそうに手を叩く。教室はがやがやといろんなところから楽しそうな児童の声で賑やかだった。
「は? 来週どっか行くんか?」
貴絋の口から思わず疑問が漏れる。独り言だった。
「社会科見学で自動車工場行くじゃない。プリントに書いてあったでしょ」
すかさず光一が答える。プリントは確かにもらったけど見てないし、そういった類いのものは一切真織にも渡していなかった。
「めんどくせ……」
「いまサボろうって思った?」
鋭い。光一は困ったような顔で貴絋を見つめている。
行かないと言ったら光一は怒るだろうか? しかし、面倒だという言葉だけで済ませられないような、さらに面倒な問題を貴絋は抱えているのだ。
「そしたら僕、一人で新聞作んなきゃ。困ったなぁ」
――そうか。それはさすがに悪いな。
「じゃ俺が一人でテキトーに新聞作るから、お前は写真だけ撮ってきてよ。それならいいだろ」
「塗装、組立、エンジンって三つコースがあるんだね。どこ見に行く?」
「……。(却下?)」
……弁当だ。それさえあれば、面倒だけど百歩譲って行ってもいいんだ、そう貴絋は強く思った。
給食が出ない特別授業の日は弁当を持参しなければならない。それが多くの子供たちには嬉しいことに思えるだろう。貴絋にとっては喜ばしくない問題であった。
まず、真織に頼むのが癪だ。今の時点で頼むとしたら、急すぎてまずプリントを渡していないのがバレるだろう。恐らく彼女は怒りはしないが、貴絋はそれで自分が後ろめたい気持ちになるのが嫌だった。
最悪自分で作らなければならない。絶対に嫌だった。貴紘は料理が出来ない。しかしそれは自分の都合で、光一に迷惑をかけるのも違う気がした。貴絋は取り合えず腹をくくり、「行く」とだけ言った。弁当のことは、後で考えよう……。そう言い聞かせて。
憂鬱な気分を抱えたまま、適当に光一の話に相槌を打つ。突然耳鳴りがして、また頭の中にあの声が響いた。
『私がお弁当作ってあげるよ』
貴絋は思わず立ち上がってしまった。クラスメイト達は思い思いに話し合いをしていて、貴絋のおかしな様子に気が付くものはいない。それに、この変な声が聞こえている様子もない。貴絋の相手の光一だけが、彼の突然の奇行に驚いた。
「何、どうしたの」
貴絋の顔は真っ青だった。
「顔色悪いんじゃない? 辻くん大丈夫?」
貴絋は信じられないという気持ちを押さえながら、何とか座り直した。
「え……、ああ、平気」
――怖い。
自分にだけ聞こえているこの声が、空耳や幻聴じゃなかったら、一体なんなのだろう。空耳であって欲しい。だけど、そう言い聞かせるのには無理があるほどに、はっきりと聞こえたのだ。
もしかしたら、ヤバい病気になったのかもしれない。そうなると説明がつく。知らないうちにガラスや食器を割ったり、記憶がなくなっていたり。
俺はどうしたら? 誰かに相談する? 誰に? そんな奴いない。
「……くん、辻くん!」
気が付くと瞼を落としていた。光一が心配そうに覗きこんでくる。
「……悪い。何だっけ」
「ほんとに大丈夫? 調子悪そうだよ」
「気にすんな」
気のせいだ。そうだ、寝たら治る。もう考えるのはよそう。考えたって解決策が浮かばないし。
頭を振ってもう考えないことにした。
今は自動車工場のことを考えないと。
『聞こえてるんでしょ?』
またあの声が聞こえる。瞬時に鳥肌がたった。
……うるせぇ。
貴絋は心の中でそう思った。
『そんなに怒らないで? お弁当なに入れて欲しい?』
心の中で言った言葉にその声が反応する。会話ができることが恐ろしくも興味深くもあった。
「知らん奴の作った弁当とか無理!!」
「えっ何の話」
光一が目を丸くして貴絋を見つめた。貴絋は、思わず声に出してしまった事に自分自身も驚く。
「あ、いや、いまのは……」
「なんだ~。深刻な顔してると思ったらもうお弁当のこと考えてたの?」
光一は肩を震わせて笑った。そんな光一とは対照的に、貴絋はどんどん苛立ち始める。得体の知れない声がますます鮮明に聞こえてくる、自分の意思とは関係なしに。
「他人の弁当無理ってどういうこと? お母さんのがよっぽどおいしいんだね」
「……やめろ」
だめだ、こいつに当たるのは。
「でもちゃんとお母さんにプリント渡してるの? 来週見学って知らなかったってことはプリント見てなかったってことだよね? 僕、君がランドセルに何か入れてるの見たことないんだけど。その日の朝にお弁当とか言っても怒られちゃうよ」
ダメだと頭ではわかっているのに苛立ちが治まらず、ブレーキが効かない。
「……黙れよ。お前に関係ねーだろ。皆が皆お前んちみたいに仲良し家族ってワケじゃねーんだよ」
こんなことを言ったところで少しもスッキリしないし気は晴れない。なのになぜ言った? 罪悪感だけが心臓に残る。余計にイライラした。光一の方を見ることができない。
「ごめん僕、何か気に障ること言った……?」
素直な反応を見せる光一が、余計に貴絋の罪悪感を煽る。
「……違う。お前、悪くない」
最低な気分だった。回りの楽しそうな喧騒が余計に気に入らない。
「やっぱり、今朝から少し変だよ。調子悪いなら保健室に行こうよ。僕、ついてくし」
「……ほっとけよ」
やばい、と貴絋の僅かな理性が直感した。絶対に開いてはならないフタが今にも解き放たれようとしているのを、まるで他人事のように眺めている自分がいる。
「でも、友達がそんな青い顔してたらほっとけないよ!」
「うるさい! お前なんか友達じゃねーよ!! 俺に構うな!」
しまったと思った。光一の悲しそうな顔を見た瞬間、貴絋は死にたくなった。反面、遅かれ早かれいつかこうして傷付けただろう、などとどこか冷静に見ている事にも気が付く。自分のそういう面が大嫌いだった。
教室が一気にシンとして、視線が集まるのをいやというほど感じる。
「どうしたの!?」
担任の花枝が立ち上がってこちらに歩み寄ろうとしている気配を感じた。
光一は目に涙をためると、小さく「ごめん」と謝って逃げるように教室から出ていった。
主のいなくなった椅子を見て、貴絋の手は震えた。何年も前から空いていた心の隙間に新しく冷たい別の風が吹き込んだのを感じ、取り返しのつかないことをしてしまったんだと思った。
「松葉くんどこへ……!? 辻くん、なにがあったの? 」
花枝があたふたしながら問いかけるも、貴絋は俯いたまま口を開かない。
どこかでガタと椅子を引く音がして、誰かが近付いてくるのがわかった。その影が貴絋の顔にかかりようやく顔を上げると、明吉が不機嫌そうな顔で貴絋を見下ろしている。
「おまえ……バカじゃん?」
怒声と共にパチンと乾いた音と鋭い痛みが、貴絋の左頬に走った。教室の所々から、か弱い悲鳴がいくらか聞こえる。明吉は貴絋の腕を引っ張りあげて席を立たせようとしていた。
「ちょっと顔貸して」
反論する気持ちも起こらず、貴絋は従順に席を立った。殴られたい気分だ、丁度いい。
「ちょっ、ちょっと槙くんまでどうしたの!?」
学級委員の槙 明吉はクラスの人気者、素行も良好な生徒だった。そんな明吉の乱暴な行動に、花枝は驚きを禁じ得ない。
「先生、すぐ帰るから授業続けてて。松葉も絶対連れて帰るから」
「だめよ、席について! 二人とも落ち着いて、ケンカしないで」
先に貴絋をドアから出させたあと、明吉は歩みを止めずに花枝に言った。
「今しなきゃならないことなんだ。先生信じてよオレ達のこと」
静かにドアがしまった後、教室がざわめいた。
□
屋上へ繋がる階段、普段は立ち入り禁止になっているため人通りはない。そこへ明吉は腰掛けた。
「昨日、お前のこと探しに行く前に松葉がクラスの皆に言ったこと、教えてやろっか?」
明吉は貴絋を真っ直ぐに見てそう言った。
貴絋は余裕のない頭で一生懸命考えた。
――探しに行く? もしかして、倉庫から出してくれたのはこいつと光一だったのか?
「六時間目は自習だった、着替えを置いたままなかなか帰ってこないお前を心配した松葉が、みんなに言ったんだ」
記憶がないのがもどかしい。貴絋は明吉の瞳を見つめ返すと、話の続きを待った。