水羊羹
「じーちゃんってさ、なんでこんなに料理うまいの?」
眠りに落ちてから約10分後、間もなく竜に起こされる。起き上がるとすぐそこにあったちゃぶ台の上には、できあがったばかりのエビフライやマカロニサラダが美味しそうに貴紘を待っていた。
「そりゃ作ってくれる人おらんし……長年作ってりゃ人並みにはなるだろ」
「誰に教わるの」
「そりゃパソコンよ。便利な世の中になった。ま、元々何でも出来るワシだけど」
「じーちゃんインターネットできるんだ……」
「エロサイトで変なもん踏んで……架空請求と戦いの日々だわ」
「やめろ……」
まるで教科書から飛び出てきたような美しいエビフライを食べながら、しかし一方で貴紘はどこか物足りなさを感じていた。たとえば、焦げ足りなさとか、生焼け感とか。第一見た目が綺麗すぎる。
「で、なんの病気なの」
とても病気には見えない日に焼けてつやつやとした祖父の顔を見ながら、貴紘は率直に聞いた。
「それはな」
竜は湯飲みのお茶を一気に飲み干してから言う。
「孫に会いたい病。孫に会わないと死んでしまう病じゃ。孫に会った途端に完治してしまう恐ろしい病気じゃ……」
貴紘はあまりの馬鹿馬鹿しい言い訳に、開いた口が塞がらなかった。
「は? なにそれ……俺のこと騙したってこと?」
瞬時に貴紘の周りの気温が上がったのを感知した竜は、その大きな体に似合わぬ態度で身を縮めてしまう。
「すまん……デザートの水羊羹やるから許して……だって貴紘が全然電話とかくれなくなったんだもん」
伏せた顔で上目使いに貴紘を見つめる。
「だもん」とか言うな。その祖父の様子が貴紘には惨めに感じられて仕方がない。
「俺がどれだけ心配したと思ってんの? 寿命三年くらい縮んだし……いくらなんでも言っていい嘘とそうじゃないのの区別くらいつくだろ!」
貴紘がそこまで言うと、竜は本当に悲しそうにうつむいた。それを見ると貴紘は可哀想になって、許してしまうのだ。
「まあでもじーちゃんが元気なら、……もうそれでいいよ」
大きなため息をついた貴紘の呆れ顔を見ると、竜は親指を立ててウインクをした。
「孫最高」
貴紘は竜に甘い。それは、竜が貴紘を溺愛しすぎているせいでもあった。こうも露に愛情を表現されては悪い気は起きない。それに竜は貴紘に隠し事などいっさいしなかった。
「そー言えば、俺が来ることなんでわかったの?」
「真織ちゃんが泣きながら電話掛けてきたから。貴紘、真織ちゃんとケンカして家出してきたんだろ? でなけりゃあんなに泣くはずがねぇ」
貴紘は一瞬呼吸をするのを忘れるほど、その言葉に驚いてしまった。
「ワシに電話するの、かなり気まずかったと思うぞ? 母親泣かせたら駄目だろお前」
その真織の姿を想像すると、罪悪感が大きくなった。胸がチクチクと痛む。
「……だって、母さんが悪いんだ。じーちゃんの手紙、理由もなく隠すから。俺にくれた手紙って二通だけ? 俺、母さんが来た手紙封も切らずにシュレッダーかけてんの、何度か見たことあるんだけど……まさかじーちゃんの手紙じゃないよな」
「安心しろ、二通だけだ。そのシュレッダー行きの封筒って、たぶん真織ちゃんのお袋さんからの手紙じゃないか? 知らんけど。だってうちにも来たもん。二人が離婚してからさ。ワシに言われたって知らねーっつうのよ」
「……そうなんだ。でも中も見ねーで捨てるなんて……」
「まぁ……正人と結婚するときそりゃぁ反対されたもんよ。もう勘当されたって聞いてたが……やっぱり親だから、娘が心配なんだな」
貴紘の心臓がまたぎゅうっとなった。自分がいなければ、そんな事にはならなかったかもしれないから。
「それ、俺のせいだろ。俺がいたから結婚反対された。二人が離婚したのも、俺のことが原因で上手く行かなくなったんじゃ……」
「貴紘、そりゃ違うぞ!」
いつの間に近くに来ていたのか、うつむいた貴紘の肩を竜は力強く叩いた。
「全部あのバカ息子がわるいんじゃ。正人はしょうがねぇクズ男でな……。真織ちゃんが、ワシの手紙を渡さなかったのはお前を守るためじゃ」
貴紘は、今朝竜に怒鳴り付けられていた正人の姿を思い出した。それに、あの女の人。
「父さん、なんかしたの」
竜はしばらく考え込んでから、ゆっくりと口を開こうとするが、あまり気が進まないような顔をしている。
「なんなの。どういう意味」
貴紘はじれったくて早く答えを知りたい。母さんが俺を守るためにって、一体どういう意味なんだろう。
「だってこれ話したら真織ちゃんがお前に隠そうとした気持ちを無視することになるんじゃねーかと思って」
「俺、知りたい。悲しんだりしねーから教えてよ。もうそこまで聞いたら知らないふりすんの無理だろ。じーちゃん話してよ」
竜は深いため息をついて、急須からお茶を足した。
「あんまり深く考えんなよ、じゃ、軽く話すわ。お前のバカ親父のことな。あいつな、再婚しよったんじゃ。それもデキ婚」
貴紘の頭の中では宇宙が展開されていた。静かな暗い世界、その闇に浮かぶ青く美しい星。明々と燃え上がる彗星がその地球に飛び込んで大爆発が起き、平和に暮らす恐竜たちは逃げ惑う――所まで想像して、気を取り戻した。
「……は?」
貴紘の記憶が巻き戻る。
この家に入る前に見た、車の中にいた女。名は萬。初めて会った雨の日、あの時彼女は妊娠中。夫の誕生日だと言っていた……父さんの誕生日はもちろんあの日!! なんで気づかなかったんだろう。あのデリカの店のレンコン挟み揚げが親父の好物だったってこと、今思い出した……。
貴紘は頭痛を感じ、思わず額を手で押さえた。
「マジかよ正人最低だな」
「ワシも今日聞いて思わずぶん殴っちまったわ……すまんかったな、貴紘。本当に、すまんかった」
「じゃあ父さんは……母さんを裏切ったんだ」
貴紘は胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになった。まだ頭の整理がつかない。だけど真織の気持ちを思うと、どうしてそんなことをしてしまったんだという微かな怒りが心のどこかで燻るのを感じた。
「バカ息子がそんなことしでかしておったとは、今日までワシは知らんかったわけじゃが……。真織ちゃんは、ワシと貴紘が接触することで、その事をお前が知るのを恐れていたんじゃねーのか」
貴紘は泣きたくなった。自分がその事を知ってしまったら、きっと悲しむと思って真織は手紙を隠した。彼女の考えを知って初めて、別の悲しさが込み上げてくる。
「俺……母さんに酷いこと言った」
いつもそうだ。すぐにカッとなって、後先考えずに他人を傷つける。そして後から死ぬほど後悔するのだ。
竜はその大きな手のひらで貴紘の頭を撫でた。暖かくて、力強くて。それはとても気持ちいい。竜が貴紘を愛しく思う気持ちが伝わってくる様だった。貴紘は思わず逃げたくなった。
「母さんの事好きな奴がいるんだけど……。もし……そいつと母さんが再婚したら、俺ここで暮らしていい?」
すぐに「いいぞ」と返事をくれるものだと思っていた貴紘は、なかなか反応がない竜の顔を不安になって見上げた。すると竜は優しくて悲しい瞳で貴紘の目を見つめ返す。
「母さんと血が繋がっていないことを負い目に感じてるのか?」
貴紘はすぐに目を逸らした。
「お前は本当に分かりやすいな」
竜は愛しくてたまらない孫を見つめてはついに噴き出す。貴紘はばつが悪くなりさらに目を伏せた。竜はかいたあぐらの上に貴紘を座らせると、小さな背中を抱き締める。
「正人が一度だけ、ワシに不満をたれたことがあってな。正人は真織ちゃんとの子供が欲しかったらしいんだが、真織ちゃんはこう言ったそうだぞ」
――私の子供は貴紘だけだから。
不思議とその台詞を言った真織が容易に想像できてしまい、堪えきれず貴紘は泣いた。
「近くに居すぎて気付けないこともあるだろうさ。しかし少なくともワシから見れば、お前たちは親子に見える」
「全然、……似てないのに?」
冷めた態度で大人ぶる割には視野が狭い。そんなところが逆に子供らしい。涙目で見上げてくる孫にはまだ見えてない部分が多すぎる。それがもどかしくもあり、微笑ましくもあった。
「料理のセンスがない所そっくりじゃん。それにな、血が繋がってたってうまくいくとは限らねーんだよ」
貴紘は口を開こうとしたが、涙がつかえてうまく言葉が出てこない。
「貴紘、今日は帰れ。さっさと仲直りして、そしたらまたこっちに遊びに来ていいから。きっと真織ちゃん、死ぬほど心配してるぞ」
「でも、俺っ……」
「"でも"は禁止! 今日の晩は不味い飯を二人で食うこと! さあ早く立て、駅まで送ってやるから。疲れとるのはわかる。でもな、男には……例え死ぬ寸前でもやらなきゃならねぇ時があるのさ。とりあえず新幹線で寝ろ、あ、その前にすぐ電話しな」
貴紘は大人しく立ち上がると、まるで用をなさなかった旅行鞄を再び肩にかけた。ジーンズから携帯電話を取り出し、黒い画面を見つめる。情けない自分の顔がそこに映っていた。
「まだ話しづらいんか? ならワシがかけてやる」
竜は貴紘から電話を奪うと、勝手に電源を入れた。貴紘は奪い返す気力もなく、ただそれを決まり悪そうに許している。
「お?」
メッセージの着信音と共に竜の顔が明るくなった。
「すまん、見てしもうた」
一時携帯を返され、貴紘はその画面と祖父のにやけた表情を、怪訝な顔で見つめる。
開かれたメッセージはダイアナからで、彼女がクロコダイルと戯れている画像と共に、貴紘への愛が可愛らしく綴られてあった。
「彼女か? 可愛いな! いやぁ、血は争えん……正人もワシも面食いだからな……。そんな可愛いお嬢さんどこで見つけた? 混血か? いや本当に血筋ってのは恐ろしい」
「別に……俺は顔で好きになったんじゃねーし」
言ったあとすぐに後悔した。竜の顔が半端なく腹の立つ笑顔になっていたから。
数時間後、貴紘から画像つきのメッセージが送られてきたダイアナは喜んでそれを開いた。しかし画像はただの日に焼けた老人の笑顔の写真だった。
「このおじいさん誰!?」
□
結局竜がかけた電話に真織が出ることはなかった。そもそも仕事をしている時間だし、着信に気付かなかった可能性が高い。
仕方なく竜はそのまま、すっかり元気をなくした貴紘を軽トラの助手席に乗せた。メタリックレッドの塗装は遠くからでもよく目立つ。
「何をそんなにしょぼくれとる? なんにも心配する事はねえ。大丈夫だ、死にゃしねーよ」
貴紘は言われるままにシートベルトを締める。すぐにうるさいエンジン音が響き、どんどん緑の水田が遠くなっていった。




