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ハンバーグ

 貴絋たかひろが三年生の時、父方の祖父の家に一人で遊びに行き、夏休みを二週間そこで過ごした。すでに両親は不仲で顔を合わせれば言い合いばかり、自分の部屋にこもっていても二人の穏やかでない声が暇なく耳に届く。貴絋は逃げるように祖父の家へ向かった。


 新幹線で四時間、予想以上の解放感が貴絋の歩みを弾ませた。駅の改札口で迎えてくれた祖父の笑顔を見ると、さらに心は軽くなる。しかし貴絋はそこへ滞在中、自分と母親(真織)の血が繋がってないことを知った。


 祖父は父と同じに適当な性格だ。その血を貴絋自身も受け継いでいることを自覚している。面と向かって言われたならつまらない冗談だと受け流すことができたのに、聞いたのは自然な会話の流れからだった。違和感の点が日を追うごとに繋がっていく夏休み、それは最終的に一本の線になった。

 祖父は、貴絋はすでに知っているものと思っていた。貴紘は動揺したが、顔には出さなかった。元々、感情表現が豊かな方ではない。

 最終日の夜、祖父の家のベランダで一人で泣いた。

 翌朝鏡で自分の顔を改めてよく観察してみると、真織に似ているところはひとつもなかった。まっすぐな形の眉も、柔らかなくせ毛も父親似。勝手にカールしている睫毛が気持ち悪くて本当に嫌いだった。真織の面影はどこにもなく、いつだって似ていると言われるのは父親の方だけだった。今ではそれも彼女の遺伝子が関与してないという証拠に思える。気を使った他人が、目元は母親に似ていると言ったことがあるが、目の形はどの人間だって大抵こんなものだ。

 思い返せば、「貴紘」と呼ばれたことも怒られた記憶もない。それまで、何度か友達の家で"お母さん"を見たことがある。それに友達が愚痴をこぼす、母親は決まってよく怒る生き物らしかった。うちの母さんは優しくて良かったなと常々思っていたが、どうやら彼女は本当の"お母さん"ではなかったらしい。

 これまで気にも留めていなかった些細なことが、突然ものすごく残酷なことに思えた。両親の仲が悪いのも、もしかしたら自分が原因なのかもしれない。

 ここへ来るときはあんなに楽しみでしかたがなかった列車の旅路が、帰る頃には刑務所への道かと思うほど憂鬱に感じた。帰りたくない。帰ればまた両親の険悪な雰囲気のなかで生活しなければならない、まるであの家の中だけ重力が余分にかかっているみたいだ。それに、どんな顔をして真織と顔を合わせればいいのか。家に帰ってからしばらく真織の顔を見られなくなった。以後、真織のことを面と向かって『母さん』と呼べなくなった。

 真織の態度は祖父の家に行く前と何も変わっていないのに、自分の内側だけが暗く冷たく凍っていった。



「俺と母さん、どっちと暮らしたい」


 父の正人まさとが、貴絋の目をじっと見つめてそう言った。いつもふざけてばかりで、父親というより友達みたいな人だった。こんなときだけ真面目な顔をするんだなと思ったら、正人の視線を受ける事にとてつもなく嫌悪感を覚えた。真織の方を見る気も起きない。彼女の鼻をすする音だけが時々聞こえた。何に対して悲しみを感じているのか知らない。

 こんな風に子供に重大な選択を迫ることが、どれほどの負荷を与えているか本人たちは気付いていないのだろうか? 一見子供の意見を尊重しているように思えるが、そんなことを聞かれた側はたまらない。ランチのメニューを決めるのとはワケが違うのだ。

 大体、真織と自分は血の繋がりがない。それなのになんでそんなことを自分に決めさせるのか。


 ――俺が知らないふり続けたら、いつまで隠すつもりなんだろう。


 胸がどきどきして、悲しくなった、腹が立つ気持ちもあった。とにかくもう真っ暗だ。

 ついに泣いて謝ろうかとすら思った。


 いままでごめんなさい。これからは、いい子にするから、どうか僕を捨てないで。みんな仲直りして、昔みたいに三人で仲良く暮らしたい。もう二度とワガママ言わないから。


 そう言えてたら、少しくらいいい方向に進んでいたのかと今でも思う。だけど貴絋は、そんな風にしおらしく言えるほど素直な子供でもなかった。父親に似たからだ。

 それに何を後悔したって、今さらもう遅い。



 □



 息苦しさを感じて、思わず目を開けた。咄嗟に顔に手をやると、汗をびっしょりかいている。辺りは真っ暗で何も見えない。

「あ……、夢か」

 思わず深いため息が漏れた。いまだに心臓がどきどきしている。いつまでこんな夢を見続けるんだろう。

 起き上がると体がだるかった。汗で湿ったTシャツを脱ぎながら、ふと思い出す。

 そういえば、いつから寝てたんだろう。


 学校から帰った記憶がない。最新の記憶を手繰りよせるも、体育館の倉庫に閉じ込められた部分までしか思い出せない。

「あれ……? どうやってあそこから出たんだっけ」

 どんなに思い出そうとしても、電源を抜かれたプレステみたいに、貴絋の頭の中はうんともすんとも言わなくなった。


 ベッドから降りて照明のスイッチに手を伸ばすと、すぐにさっき脱ぎ捨てたTシャツが目に入る。見覚えのあるその服は下着用のTシャツではなく、学校指定の体操着だった。

「おい、……おかしいだろ」

 体育のあと、着替えずに学校から帰ったことになる。体育が五時間目だったから、昨日はあと一時間授業があるはずだった。

 しかしどんなに思い返しても、やはり記憶は戻らない。



 □



「辻くんおはよう」


 ドアを開けると、ガランとした教室に光一が一人だけ座っている。

「大丈夫だった? 昨日調子悪そうにしてたけど」

 貴絋が挨拶を返す間もなく光一が言った。

 貴絋は目を伏せた。昨日の記憶がない、なんて話したら、こいつはどんな顔をするだろうか。危ないやつだと思われるだろうか。


 朝、真織と顔を合わせたとき、様子が変だった。「昨日は晩御飯を食べてないからお腹すいたでしょう? そのまま寝ちゃってたからよっぽど疲れてたのね」そう言って朝からハンバーグを食べさせられた。

 真織に聞きたかったけど、出来なかった。


 ――最近俺はおかしい。


 寝ている間に窓を割った。病院で真織だけが医者に何か聞いていたのを見過ごすほど、呑気ではない。自分に何か起こっているのではないかと、心のどこかで疑惑が常にあった。

「母さんね、割っちゃった」

 真織がボケて割ったのではない。

 あの尋常でない食器の数を割ったのはたぶん俺だ。貴絋は夜中、そう確信した。


 返事のない貴紘を見て、光一は心配そうに眉を寄せる。


「あのさ、お前……覚えがないのに何かしてたってこと、ある?」

 やっと口を開いた貴絋から出た言葉は、要領を得ないものだった。

 これは何かあったなと光一は思った。目を合わせないように話す貴絋は、いつもの尊大な態度がなく、まるで迷子になった幼児のように心細そうな顔をしている。

「僕はないけど、よく母さんがコンタクトを外した記憶がないのに外れてる、目が見えないって騒いでる。あと、お菓子を食べた記憶がないのに無くなってるとか」

 貴絋はやっと光一の顔を見て、目を丸くする。

「お前の母さん、面白いな」

 小さく笑った貴絋の横顔を眺めながら光一は言った。

「何かあったの?」

 貴絋はあからさまに困ったような表情を浮かべて答える。

「……いや、べつに」


 嘘つき。光一はそう思った。


 □


 午前の20分休みの時、光一が言った。

「一緒に図書室行かない?」

 休み時間に光一に誘われるのは初めての事だった。

 貴絋は光一の顔をまじまじと見ると、少しだけ間を置いて答える。

「……俺と?」

「うん、行かない?」

 貴絋が即座に気まずそうな表情を浮かべたのを見て、光一は違和感を覚えた。貴絋は嫌な事ははっきりと「イヤだ」という性格だ。図書室に行きたくないのなら断ればいい。それなのに、どこかそれをしたくないという素振りを光一は垣間見たのであった。

「いいけど……お前の友達は?」

「今日は、いいんだ」

「……ふーん」

 のろのろと席を立つ貴紘を見ると、本当に今日は様子がいつもと違うと改めて感じる。いつもの様子が海底にゴロゴロと転がっている新鮮なウニなら、今日の貴絋はスーパーに売られて半額シールを貼られた詰め合わせパックの軍艦巻きだ。



 図書室に入ると光一はお気に入りの恐竜図鑑を手に取った。貴絋は本には目もくれず、壁際の席へとまっしぐら。貴絋が座ったのを確認すると、光一もその隣へ腰かけた。

「本読まないの?」

 光一は図鑑を開きながら声をかける。貴絋の虚ろな瞳が泳いだ。泳いだ先に行き着いた光一の図鑑を見て、その目に少しだけ光が宿る。

「委員長、恐竜好きなの?」

「うん! しはプテラノドン」

 貴絋のポケットから時折覗くキーホルダーに、恐竜の小さなフィギュアが付いているのを光一は知っていた。

「わかる! 俺も翼竜ではプテラが1番だな」

 途端に笑顔を見せる貴紘は、やっぱり自分と同じ小学生だと思った。

「翼竜じゃなかったら何推しなの」

「……プレシオサウルス」

 なぜか少しだけ恥ずかしそうに答える貴絋を見て、光一は嬉しくなった。素の貴紘を初めて見たような気がしたからだ。

「首が長いやつだね!」

「そ。超可愛いだろ。探そうぜ」

 二人は図鑑を捲りながら、恐竜談義に花を咲かせる。

 貴絋は光一を少し見直し始めた。ただの根暗なオカルト小僧ではなかった。

 俺の恐竜豆知識についてこられたのはコイツが初めてだぜ……。

 しかも好きな恐竜のセンスがいいし、ジュラ紀に産まれていたらどうやって生き延びるかの知識もあった。何より、なぜか知らないけど自分に臆面なく接してくる。正直に言うと光一のとなりは居心地が良かった。


「あ、博物館でいま恐竜展あるの知ってる?」

 突然思い出したように顔を上げた光一が言った。


「知らない。誰が来んの」

「ブラキオサウルスの模型に餌やり体験できるって」

「マジかよっ。それ最高じゃん」


 光一の瞳が、期待を込めた色で輝く。

「一緒に行かない?」


 貴絋は言葉に詰まった。どうやって断ろうかと、そればかりが頭を埋め尽くす。光一の顔を直視できず、視線がさ迷った。


「行こうよ! 僕ずっと行きたかったのに一緒に行く人いなくてさ~。姉ちゃんは恐竜嫌いだし、やっぱこういうのって趣味が合う人と行った方が楽しいでしょ? 絶対僕たちなら楽しめるよ」


 そんなことは分かっている。しかし貴絋は、踏み込むのを恐れた。踏み込めば踏み込んだ分、その先に待つものが重くなるのだと彼は知っていた。その考えが貴紘を必要以上に臆病にさせる。


「そーいえば辻くんの家ってどこなの?」

「……A駅のすぐ近く」

「じゃあ電車で行こうよ。土曜10時に駅で待ってるね」

「まだ行くって言ってな……」

「決定~!」


 貴絋のなかで、この光一の誘いを断ることが踏み込むのと同じくらい勇気がいることだというのを、このときまた感じた。

 その気持ちを自覚してから気付く、とうに自分は光一とそういう仲(ともだち)になってしまったのだと。


 目眩がした。一瞬回りの音がすべて消えて、頭の中がクリアになる。


『行けばいいじゃない! きっと楽しいよ』


 悩む貴絋の頭に突如響いたのは、そんな言葉だった。

 ただし、女の声で。

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