レタス
何にも邪魔されずに気が済むまで眠った。なぜなら、今日から夏休みだから。アラームも鳴らない。31歳になった真織の出勤を見送ることも、それ以前に気づくこともできないまま、貴紘は眠り続けた。最悪な夏休みのスタートとなった。
昼もとうに過ぎた頃、携帯電話の着信でようやく目を覚ます。
「……もしもし」
まだ目がよく見えない。相手が誰かもわからずに出た。どうせ北丸だろう。
『もしかして寝てた? もう17時だよ? あーわかった、また遅くまでゲームしてたんでしょ?』
光一だった。貴紘は目を擦るとゆっくりと起き上がる。
「……胸に穴が開く夢見た」
『待って!! 僕そういうの得意だからッ!! えーとね……胸に穴が開くのは、自分の感情が制御できていない時に見る夢だよ!』
心当たりがありすぎて一瞬言葉につまる。しかし興奮した光一の言うことは、いつもうさんくさい。貴紘は無視して話を続けた。
「ところでなんか用事? お前が電話してくるなんて珍しいじゃん」
『うん、大阪の件、お母さんに承諾は得られたかなぁと思って』
すぐに昨日のやり取りを思い出した。もともとはこの為に思い付いた作戦だったはずだが、せっかく了承を得られたというのに嬉しさは全然込み上げてこない。
「……行ってもいいって」
『本当!? 良かった! じゃあさ、早速だけど都合のいい日教えてくれる? 君も色々予定入ってるだろうし。二泊三日ね。あー、もちろんお盆はダメだよ。激混みだし僕じーちゃんちのお墓参りとかあるから』
「俺、別にいつでもいい。お前らに合わせる。今んとこ予定なんかないし」
夏休みは毎年祖父の家に遊びに行っていたが、ここのところ連絡がない。貴紘は不思議に思っていたが、それはごく当たり前のことだった。父方の祖父が、離婚した真織に連絡を入れられるはずもない。
『そうなの? 神森さんと約束とかしてないの? それなら僕大阪の他にもたくさん君と遊びたいんだけど。ラジオ体操とか一緒にいかない?』
「ラジオ体操……絶対無理。外でるのは夕方からって親父の遺言だから」
『……ツッコミづらいよ!!』
一通り話してから、電話を切った。光一は大阪へ行く際に、保険証も持参するようにと言った。まるでしっかり者のお母さんだ。まだはっきりと日程は決定していないが、貴紘はじっとしていられなく、旅行の準備をすることにした。何もしないでいると余計なことまで考えてしまう。今は考えたくないことをたくさん抱え過ぎている。いっそ明日にでも直也の元へ向かいたかった。この家から逃げるために。
三日分の着替えを旅行鞄に詰め込んだ貴紘は、鞄がスカスカなのを少し不満に思った。実際、まだヒゲも生えない小学生男子からすれば、旅行の準備なんて着替えと歯ブラシくらいの物だ。帰りにはお土産でいっぱいになっているだろうけど。
あとは、保険証がいるんだっけ。貴紘はそれが真織の寝室に保管してあることを思い出した。彼女が帰ってから言えばきっと快く準備してくれるのだろうが、今は必要最低限の会話しかしたくない。そういう後ろめたい気持ちを持つのは、自分が腰抜けで子供だからだとわかっている。わかっているけど、体が勝手にそうしてしまうのだ。真織の寝室のドアに手をかけたとき、少しばかりの罪悪感が自分を責めた。
貴紘が無断でこの部屋に入ることなど滅多にない。用事がないからだ。特に入ることを禁じられているわけでもなかったが、やはり人の部屋に勝手に入るのは気が引けた。だけど、ただ必要なものを拝借するだけだ。貴紘は正当化する理由を掲げてそっとドアを開いた。自分の部屋と同じ家とは思えない、女性らしい香りがドアの隙間から流れて出た。貴紘はやはり躊躇してドアを閉めた。そこで少し考えてから気が付く、とてつもなくお腹が減っていたことに。
一度保険証のことは忘れることにしてキッチンへ向かう。冷蔵庫を開けてから、一番奥にしまったケーキの箱が目に入ると咄嗟に目を逸らした。もう見たくない。下の段の手前には徳重がプレゼントしたケーキもあった。これだって見たくなかった。けど、ケースの上側は透明になっている。恐る恐る目を細めて見た箱の中身は、焦げ茶の丸いケーキ。まだ手付かずのままだった。
その横に真織が貴紘の為に作ってくれた謎の料理がラップをかけられ鎮座している。もはや何の料理かわからない。貴紘はそれを取り出してよく見た。かろうじてレタスが使用してあることだけがわかった。
リビングはしんとしていて寂しい。いつもは一人でいることが特別嫌でもないが、今はとても寂しく感じる。ララはあれから出てこないし、貴紘の方からも話しかけていない。本当ならこちらから声をかけて謝るべきなのに、もし返事をしてくれなかったらと思うと怖くてそれすらできないでいる。
貴紘は気を紛らわせようとテレビの電源を入れた。外国のドラマが映っている。真織が好きで休みの日によく見ているチャンネルだ。
レタスの料理は例に漏れず不味い。真織からの説明がないと、料理名すら判別しがたい。
チャンネルを変えてもつまらない番組しか放送されておらず、真面目なニュースかくだらない情報番組。貴紘は元のチャンネルに戻した。アイドルの下手くそな食レポよりは、海外ドラマの方が味を忘れることができる。そもそも、美味しそうなものを見ながら不味いものを食べるなんて拷問だ。
そのドラマは、主婦が家族を旅行に行かせている間に不倫相手を自宅に招き入れるという恐ろしいストーリーだった。
貴紘はデジャヴを感じ、すぐにそれを思い出す。
おい、このシチュエーションは……。貴紘はあまりの衝撃に使用していたスプーンをフローリングに落としてしまった。それも、すぐに拾えず愕然とテレビを見つめ続けるまま。
「……そーいうことかよ」
大阪行きを渋っていた真織が突然OKを出した理由を、貴紘はここで悟った。
いつかそうなるかもしれないと、仄かな予感はあった。だけど、まさかこんなに早く。
――誕生日にプロポーズされたんだ。
貴紘の手は震えた。それを抑えようと左手を右手で無意識に掴むが、冷たい指先はまだ小刻みに震え続ける。
思い浮かべるのは徳重の爽やかな笑顔。背が高くて、清潔なスーツを着ていて、顔は正人には負けているけど――それでも普通に悪くない。性格だって優しそうで、何より虫を恐れない。おまけに貴紘にも友好的だ。
恐らく真織を幸せにしてくれる。自分はこの状況を受け入れるべきだった。反対する理由が見つからない。なのに、胸の中からは不安と拒絶が勝手に溢れかえっていた。目頭がぎゅんと熱くなって、重たい涙が目に滲み始める。
「なんで……」
泣きたくない、こんなことで。しかし泣き止もうとすればするほど苦しくなる。
それに一番ショックだったのは、真織がやはり自分のことを邪魔だと感じていたかもしれないことだ。
真織の母親の言葉が甦る。
――「あなたがいなければ」
それが悲しくてたまらない。心のどこかで覚悟はしていたつもりが、結局そんなものは何の役にも立たない。想像していた不安は現実になると、それはもはや絶望に近かった。
貴紘は複雑な気持ちを持った。母親の幸せをただ願う健気な息子になるには、自分はあまりにもひねくれすぎている。本当ならそうしたい。自分のことなんてどうでもいい、真織が幸せなら。そう思えたらどんなにいいだろう。でも、それが出来ないからこんなに苦しい。
両親が離婚したときもそうだった。ある日突然結果だけ告げられて、こちらの気持ちはお構いなし。真織が養母であることも、本当は二人の口から聞きたかった。いつも自分は蚊帳の外なのに、苦しみは一人前に与えられる。
今度もきっとそうなる。俺が大阪から帰ってきたら、この家には当たり前のようにあのオッサンが家族面して待っているんだ。そうなったら今度こそ俺は本気でいらねー子供だな。貴紘は食器を片付けながらこれからの事を考え始めた。全ては勝手な彼の妄想にすぎない。しかし彼の精神は、それがきっと真実なのだと思い込んだ。
流しを片付けて、テレビの電源を切った後、リモコンをソファの上に放り投げた。リモコンは一度だけ跳ねてからフローリングに落ち、その衝撃で蓋が外れて電池が飛び出る。可哀想なリモコンに貴紘は目もくれず、真織の部屋に向かった。
悲しさ、寂しさ、不安。それに付け加えて、多少の怒りもある。今貴紘は、その僅かな怒りに任せて一ミリの罪悪感もなく真織の部屋のドアを開いた。中は薄暗く、遮光カーテンの僅かな隙間から漏れる夕日が、その辺りだけをオレンジ色に染めている。一歩部屋に入ると、ベッドサイドテーブルを目指し、すぐにその引き出しを開けた。保険証はすぐに見つかったが、引き出しを大きく開けようとしたとき、奥の方で何かが引っ掛かっていることに気がつく。貴紘は手を突っ込んでそれを引っ張った。無理矢理奥にしまいこんであったのか、引き出しが噛んでいる。左右に何度か引っ張ってから、やっとそれを取ることに成功した。大きさと手触りからして封筒のようだ。引き出しから封筒を取り出して何気なくそれを見てから、貴紘は目を見開いた。宛名は自分宛。それも二枚もある。
すぐに裏返して差出人を確認した。
そこには、萬 竜、と祖父の名前があった。
「なんでこんなとこに……」
不思議に思いながら消印を見ると、一つは四月、もう一つは先月に届いていた。急いでもう一度ひっくり返すも、封はされたままだ。貴紘は何の迷いもなくそれを開けて、中の手紙を読んだ。
一通目、四月に届いた手紙には、貴紘のことを心配する祖父の想いが書かれてあった。何かあったら力になるから、いつでも連絡しろと記されてある。四月はまだここのマンションに越してきたばかりだった頃だ。あの頃はまだ気持ちも落ち着いていなくて、学校も休みがちだった。真織も仕事が忙しくて、あの時は……正直、寂しかった。これを届いたその日に読めていたら、どんなに勇気を貰えたことだろうと胸の奥が熱くなる。そんな祖父の優しい気持ちが今まで自分に知られることなくここに閉じ込められてあったのかと思うと、貴紘は真織に不信感と苛立ちを覚えた。一体どうして母さんはこれを俺に渡してくれなかったんだろう。わけもわからないまま、二通目の封筒を開く。
四月の手紙より明らかに弱々しい字で、貴紘にとってとても衝撃的なことがそこに書かれてあった。
自分は病気になりもう長くない。最後にせめて貴紘に会いたい、と。
貴紘は驚いて便箋の裏側まで確認した。どこかに『冗談です』と書かれているのではないかと、一生懸命さがした。しかしそれは見つからなかった。
――嘘だろ?
心臓がドキドキしはじめる。尋常でない汗が浮き出てくる手で、履いていたジーンズの硬いポケットを探った。指がまるで他人の物のようだ。うまく携帯電話が掴めない。
祖父の家の電話番号は登録していなかったが、貴紘はそれを空で覚えていた。痺れたような感覚の指先で、間違えないように慎重に番号を入れ、電話を掛ける。
――早く出て。
何度もそう念じながら、祖父の気だるげな声を待った。しかし待てど暮らせどコールは止まない。ついに10回目のコールを聞いた後、留守番電話に切り替わってしまった。貴紘の頭はいよいよ回らなくなる。落ち着け、落ち着けと心に言い聞かせるのだが、まず何をどうしていいかわからない。
父さんに、連絡してもいいのだろうか。――でも……。
父親が自分の元を去ったことを思い出すと、指先にさらに制限がかかる。
――だけど、俺のじーちゃんだ。
貴紘はすぐに祖父の家へ向かう決意をした。手紙をかき集めて立ち上がろうとしたとき、ドアの外で自分を見つけた真織と目が合った。




