チキン南蛮
真織から電話があった。
どうしても今日中に終わらせなければならない突発の仕事ができたから、今日は帰りが遅くなると。
以前はこういうことがよくあった。そんな日は、貴絋は気ままに一人で外食をしたり出前をとったりと、非日常的な夕食を楽しむ。
しかし最近になって真織は夜勤も止め、帰りも随分早くなった。貴絋が窓ガラスを割ったあの日から、真織との距離が近くなったように感じる。
受話器の奥から、真織の心底すまなそうな声の謝罪が聞こえる。しかし彼にとってはなんの問題もないことだった。明日は休みだし、真織がいなければ遅くまでゲームもできる。
貴絋は受話器を置いた足で早速夕食を買いに出掛けた。
――なんか無性にチキン南蛮が食べたい気分だ。
ファミレスでもいこうと近道の公園を抜けていく。そう言えば、ララはダイアナの家で変なことをしていないだろうな? 今更ながらにそんなことを思い出す。
まあ、どうでもいいか。
聞こえてくる波の音が、頭の中にある色んなことを打ち消していくように、耳に触れては消えていった。
前方のベンチに誰かが座っている。日常ではよく見る光景だ。ただそれが貴絋の目をひいた理由は、そこに座っている人物が見覚えのある少年だったからだ。
「何してんの」
貴紘はベンチに座っていた直也に声をかけた。直也は俯いていた顔を上げると、びっくりしたまま体を硬直させた。
「こんな所で。こんな時間に」
今日の貴絋は攻める。眼鏡をなくしたなどと恐らく嘘だろう。直也の顔を見るたびに思い出される体のアザ、こいつはおかしい。何かを隠している。ここで会ったということは、俺がコイツの何かを暴かなければならないということだ。
「変質者が出るかもしれないって、先生が言ってたろ。一人で出歩くなって」
時刻は18:50。恐らく一般的には、10歳の門限はとうに過ぎている。
「きみだって……人のこと言えないじゃない」
貴絋は直也の右隣に座った。直也は右に傾けていた顔を、瞬時に左側へ向ける。
「俺には家庭の事情ってモンがあんだよ」
「……おれだってそうだよ」
直也が、ぎゅっと拳をにぎりしめるのを貴絋は見ていた。何を抱えて、何を守っているのか。その細い肩が僅かに震えている。
「お前んちどこ? もう帰れば?」
「……帰らないよ、辻くん先に帰ってよ」
直也が貴絋から逃げようとベンチを立ち上がった瞬間に、彼のお腹がぐうと鳴った。
「夕飯まだなのか? 俺もだけど」
直也は眉をしかめたまま、ウンと頷いた。核心に迫らないところではムダな嘘をつかない所が、かえって直也らしい。つけない、と言った方が的確かもしれないが。
「何か食べに行く?」
貴絋も立ち上がった。直也は気まずそうな顔で、恐る恐る貴絋に告げる。
「おれお金ない……」
「俺が持ってる、行こ」
貴絋はファミレスを目指して歩くが、三歩ほど歩いてもまだ直也はついてこなかった。
「おれ、行かない……」
「なんで。どーすんの? ずっとここにいんのか? 夜になるよ? 変質者に拐われて外国に売り飛ばされてもいいのか?」
「うん……その方が、いいかも……」
直也は泣きだした。それでも貴紘は驚かなかった。ベンチに座っていた直也を見つけたときから涙こそ見えなかったものの、彼がとても悲しそうな顔をしていたから。
「……お前、料理できる?」
脈絡のない質問に、直也は真面目に泣きながらも答えた。
「卵焼き、なら……」
チキン南蛮は諦めた。
「じゃ俺がお前のこと誘拐するけど」
貴絋は泣き止まない直也の手を引いて、自宅の方角に向きを変えた。なかば無理やり引っ張るような形で歩いていく。でもその方がきっと誘拐らしい。
しばらく歩いてやっと公園を抜けたとき、視線を感じて思わず振り向く。後ろから女性が鋭い目線でこちらを見ているのがわかった。
五十代位の、お婆さんと呼ぶには少し躊躇われるような見た目の女性だった。品のある雰囲気にも関わらず、それにはとてもそぐわない攻撃的な威圧感を放っている。
「……ばーさん何か用? 殺気出しすぎ」
貴絋は躊躇なく女性に声をかけた。もしかすると直也の知り合いかもしれないと思ったから。しかしそれにしては好意的な空気でないと肌で感じる。
「坊や達、お名前は?」
はっきりとした物言いに、この人の性格を垣間見た。気の強そうな、厳しそうな声だ。
「僕の名前は宮地……」
素直に答えようとしている直也に割り込んで貴絋は警告した。
「不審者に個人情報与えるな」
女性は貴絋に少し近付いてから彼の顔をじっと眺めると、あなたが貴絋くん、と呟く。
貴絋は吃驚して思わず後ずさった。
なんだこのババアは。気味悪い。なんで俺の名前を知ってるんだろう。
「お前誰なんだよ」
貴絋の無礼な言葉を聞くと女性は、やっぱりな、という風な顔で笑った。それが貴絋には、とても意地悪な顔に見えた。
「父親によく似ているからすぐにわかった。その、人をバカにしたような目。傲慢な態度、あの男にそっくりだ」
恐怖のあまり喉が詰まる。思わず再び退くと、後ろにいた直也の肩にぶつかった。
自分が生意気な父親によく似ていることは自覚していた。だけど、こんな見ず知らずのババアになぜそんな風に言われなければいけない? わずかな怒りの炎がくすぶるのを感じたことで、父親に対する情がまだ自分の中にあったことを思い出す。情けない、でもどこか少し安心したような、不思議な気持ちだった。
だけど、そもそもこの他人が自分のことを知っていることが怖かった。こいつは一体誰なんだ。
一方直也は、自分の肩に触れた貴絋の腕が震えていることに気が付く。
「真織は? 真織はどこ? 聞けば離婚してわざわざあなたを引き取ったと言うじゃない。悪いことは言わないから、父親のところに行きなさい。なぜ真織があなたの世話をしなくちゃならないの」
貴絋はまた一歩後ずさった。心臓がどきどきしてきて、体の真ん中がジワジワと熱くなってくる。胸に眠る不安とおそれがそれ以上先を聞きたくないと、必要以上に暴れていた。
「あなたがいなければまだ真織はやり直せるんです」
『ダメッ!!』
貴絋の意識はそこで途切れた。ララが体の権利を得た瞬間、頬に一筋の水滴が流れた。貴絋の残したものか、ララの感情が溢れたものなのか、彼女には判断する暇もない。
突然響き渡る高音に、一瞬場の空気が止まった。今までに見たことのない貴絋のあからさまな動揺と、目の前のとてもおそろしい剣幕の女性を敵だと判断した直也が、防犯ブザーを鳴らしたのだった。
「ナイス防犯ブザー!」
貴絋の体を借りたララは小さく呟いたあと、大きく息を吸い込む。それを思い切り、悲鳴と共に吐き出した。
「誰か助けてェ!! この人が友達を連れていこうとしています!!」
鳴り響くブザーの音と少年の悲鳴、たちどころに事態は急転する。辺りに集まる大人たちは子供を守るため、不審者を一気に囲いこんだ。思いの外大勢の人間が集まってしまった。
「行こう!」
ララは直也の手を取り、もうすぐそこに見えていた貴絋のマンションに駆け込む。急いでエレベーターに乗ると、閉めるボタンを何度も押した。
玄関のドアを開けて直也を招き入れる。靴を脱ごうとしたところで、まだ彼の手を握っていたことに気がついたララは、やっと自分の心がここになかったことを知った。
「ごめんごめん、さあ上がって」
手を離し、直也の背後に回ると彼の背中を軽く押した。
「おじゃまします……」
直也は自然と廊下の先のリビングを見た。部屋は暗くて、とても静かだ。
「お家の人、いないの……?」
直也はおずおずと聞いた。
「うん、遅くなるみたい。それよりご飯作ろうよ! お腹すいたでしょ?」
ララはキッチンへ向かうと、冷蔵庫の中身を調べた。鶏もも肉あり、玉子あり。
「オレ、チキン南蛮作るから、直也はごはん炊いて卵焼き作ってよ。出来る?」
「……頑張る」
直也は、貴絋のいつもと少し違う雰囲気に少し驚いた。家だとこんな風に刺々しさがなくなるのかも知れない。
それに、さっきのお婆さんとの事がとても気になった。貴絋は何も話さない。あんなに狼狽えた貴絋を見るのは初めてのことで、心ないことを叫んでいたあのお婆さんがとても怖いと思った。
辻くんも、何かフクザツな問題を抱えているのかもしれない。直也はそう感じると、少し胸が痛くなった。
「だーめ、ごはん炊くのが先」
卵を割ろうとした直也を、貴紘が優しく止めた。花の咲いたような彼の笑顔に、直也は顔を赤らめる。こんな風に笑う貴紘を見たことがなかった。なぜか耐え難い恥ずかしさを感じ、思わず視線を反らした。
丁寧に使われているのだろう、炊飯器には傷ひとつない。キッチンは綺麗に片付いていて、汚れた皿が貯まっていることもなかった。直也は自分の家との違いを実感して悲しくなった。
米を洗い終えた直也は、炊飯器の「早炊き」スイッチを押すと、卵焼きに取りかかる。
作れると言ってみたものの、前回作ったのはいつだったか。貴紘の方を見ると、慣れた手つきで豆腐を切っている。手の上で包丁を入れる様子は、料理上級者だと思った。調理実習ではあれほど手際が悪かったのに、家だと慣れているから上手にできるのかな、と感心する。
直也は卵を割ろうとしたが、緊張のあまりそれを床に落としてしまった。ライトグリーンの清潔なキッチンマットに、潰れた卵が残酷に飛び散る。
「ご……ごめんなさいっ!!」
今度はキュウリを切っていたララが、直也の突然の大声に驚いて包丁を止めた。見ると彼は今にも泣きそうな顔で散り散りになった卵の殻を拾っている。
「気にしないで」
ララは素早く卵を拭き取ると、マットを洗濯機の方へ持っていった。直也は今にも土下座しそうな勢いで頭を下げる。
「ごめんなさい……!」
ララは驚いて直也を見た。怯えた表情で自分を見つめる直也に、ララの抱えていた疑惑が確信に変わる。
「大丈夫だよ。大したことじゃない。オレなんか毎日卵を人に投げつけてるよ」
確かゲームのなかで。
元気付けるつもりで直也の肩を軽く叩いたのに、彼は肩に触れるとすっとんきょうな声をだして床に座り込んだ。
「ごめん、ほら」
差し出した手を直也は遠慮がちに掴む。立ち上がった直也を改めて見つめたララは、彼を抱き締めてやりたい衝動に駈られた。
なんて細くてちっぽけなんだろう。そんな直也に付けられたキズを思うと、何もできない自分をもどかしく感じた。
□
「ちょっとトイレに行ってくるね」
そう言ってリビングを出ていった貴絋が帰ってきたのは数分後、さっきまでの雰囲気とは一変した、彼の眉間には深いシワが刻まれていた。
――記憶がない……。気付いたらトイレの中だった。
またララに助けられた。
貴絋は、先ほど絡まれた不審な女性のことを思った。話から察したのは、彼女が真織の母親である可能性だった。死んだと聞いたとき、恐らく嘘だろうとは薄々思っていたが、実際につかれた嘘だったと感じたとき、応えた。結局何一つ本当のことを話してもらえないのだ。
それでも、ドアを開けた瞬間の美味しそうな香りに少しばかりの安らぎを感じた。
直也はテーブルの席にちょこんと座って、貴紘の顔を心配そうに見つめている。
そのテーブルの上には貴絋が食べたかったチキン南蛮、お味噌汁、卵焼きが並んでいた。
「どーしたのこれ? お前作ったの? スゲーな」
貴紘は驚いて直也の顔を見た。
「どうしたのって、さっきまで一緒に作ってたでしょ……?」
直也も不思議そうな顔で貴紘に答える。
ああ、またララが。
貴絋は、薄々勘づき始めていたララの真意に心を打たれた。
いつもあいつは俺に迷惑をかけるフリをして、俺を助ける。
今、落ち込んでいなければ、きっとこんな気持ちにはならなかったのに。
――おせっかいな女。
その料理はとても美味しくて、食べた瞬間に泣きたくなった。いつかララが言っていた、『食べる人の事を想って作った味』というのがわかった気がした。自分の、自惚れでなければ。
「……おいしいね」
直也の震える声を聞き、顔を見ると涙をこぼしていた。
「……泣くほどうまいのかよ」
「……人の事言えないよね」
泣きながら笑う彼を変に思う間もなく、貴紘の頬にも涙がポロポロと流れた。




