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カレーライス

 貴絋は母親と二人で暮らすようになってからも、何不自由のない生活を送ることができた。もちろん生活水準が下がることもなく、毎月のお小遣いもきちんと与えられている。ただ母親の仕事は忙しく、あまり家にはいない。食事の用意がされていることは週に数えるほどしかなく、それも大抵一人で食べた。

 だが最近になって、ふと気付いた事があった。皿の種類が変わる頻度が高い事だ。

 すでにテーブルに用意されていたカレー皿には、可愛いとは言い難い熊の絵が描いてあった。初めて見る皿だ。今までなら、ただの白い皿だった。


 ――なんでこんな皿引っ張り出してきてんだ?


 不思議に思い、前にもこんな違和感を覚えたことを思い出す。いつも使っていたグラスがある日突然来客用の物に変わっていたのだ。それからは、もうずっとそのグラスが普段使いのグラスになった。

 それが今、左側に置かれているグラス。なんとワイングラスだ。なんでわざわざこんなものを出しているのか。いつものあのグラスは?

 貴絋は思わず席を立ってキッチンの食器棚へ向かった。シンク下に備え付けてある木目調の棚、いつもの食器の定位置だ。貴絋はそこを見て首をかしげたあと、再度頭を上げてシンクを見た。使用済みの食器は何もない。母親が食事を用意してくれている時はいつもそうだ。キッチンは綺麗に片付けてある。

 なのに、食器棚はスカスカだった。



 □


 □


 肌寒さで目が覚めた。まだよく見えない目を何度も擦りながら、目覚まし時計のバックライトスイッチを手探りで探した。ようやくぼんやりと見えてきた視界には、青く光るデジタル数字『05:47』の表示が映る。アラームより早く目が覚めてしまったのだ。それにしても寒い。冷たい風を受けて、頭が冴えてくる。


 ――……風!?


 急いで身を起こすと、いつも閉めたきりのカーテンが少しだけ開いている。それにもっと変なのは、そのカーテンが風を取り込んで僅かにはためいていることだ。

 貴絋は飛び起きてベッドの上を走り、窓へ向かった。


 ――あれ? もしかして窓開いてる? なんで?


「おおッ!?」


 貴絋はカーテンを開けて唖然とした。

 窓ガラスには拳台の穴が開いている。割れているのだ。穴を中心に何本もの鋭い亀裂が走っている。

 思わず叫んだ口を手で押さえる。


 ――まさか……泥棒?


 気が動転した。寒いはずなのに一瞬で冷や汗が頬を伝う。心臓がドキンドキンと激しく主張しているのが、胸に手を当てなくてもわかった。

「……ないな、ここ7階だし」

 しかし動悸は治まらなかった。よじ登ってこようと思えば登れる泥棒もいるかもしれない。


 ――もし、この家の中にそいつがまだいたら? 警察か? 通報か……待てよ。警察は24時間営業なんだっけ?


 動揺しすぎて冷静になれない。

 貴絋は心を落ち着かせようと深呼吸を試みた。部屋のドアへ足音をたてないように近づき、耳を澄ませる。物音はない。人がいる気配も……たぶん、ない。


 ――でもこんなとき、母さんがちょうど仕事から帰ってきて、玄関から逃げる泥棒と鉢合わせて殺されるのが漫画とかの定石。さすがにそれは、マズイ。


 母が帰るまであと一時間はあるが、こんな日に限ってなんらかの奇跡が重なり、通常より早く帰ってくるのも漫画の定石だ。


「……なんとかしねーと」


 貴絋はドアに張り付くと、今まで生きてきた中で一番静かに、それでいて慎重に、ドアノブを落とした。その瞬間、自分の手を見て驚愕する。

 右手は傷だらけで血まみれだった。

「なんだよこれ」

 不思議なものでさっきまでは何も感じていなかったというのに、その痛ましい右手を目で認識したことにより、突然痛みを感じ始める。

 なぜこんなことになったのだろう。まるで何かが刺さったかのような切り傷が目立つ。一体いつ。どうやって。


「まさか」

 貴絋は泥棒のことなど忘れて再び窓に駆け寄った。どうしてこんなことに気づかなかったのか。ガラスの割れた破片はベランダへ。つまり、部屋の外に落ちている。要するに部屋の中から割ったということだ。

 そもそも泥棒だとしたら、ご丁寧に窓を閉めて鍵まできっちりかけてくれるハズがない。


「……俺が割った?」

 ズキズキと右手の痛みを感じながら、貴絋はリビングへ向かった。当然ながら誰もいない。

 貴絋はソファに浅く腰かけると、改めて右手を凝視した。

「まじかよ。痛えな」

 乾いた血が固まって、動かすとパリパリと剥がれる感触に鳥肌がたった。訳がわからなくて、痛いし、怖い。泣きそうになった。


 □


「貴くん! 貴くん!?」


 貴絋が気がつくと、血相を変えた母親の顔が目の前にあった。あのままソファで寝てしまったのだ。


「……今何時?」

「貴くん大丈夫!? ひどいけがよ。病院へいかなきゃ、着替えて」


 言われて思い出す。夢だと良かったのに、そう思って右手を見る。まだ痛かった。


「……一人で行ける、ババア寝とけよ。保険証貸して」

「だめだよ! 車で行くから支度して」

 窓ガラスを割ってしまったという罪悪感と、いまだに信じがたいこのケガのせいで、反抗する気力が失せている。右手をなるべく動かさないように服を着替えることは思ったよりも難しかった。



 車に乗ってすぐに母親が口を開く。

「痛いでしょう。急ぐからね、もう少し我慢して」

 貴絋は面食らった。どうしてケガした理由を聞かないのだろう。それが余計に罪悪感を膨らませる。

「……ごめん」

 この言葉を言うことがとてつもなく嫌いだった。ましてや自分が悪いと思っていないのに言わなくてはならないのが。

 それでも、夜勤明けの疲れきった母親に迷惑をかけてしまったこと、割れた窓の面倒を考えると、黙っていることも同じくらいにイヤなことに思えた。

 しかし母親はそれには答えず、貴絋の方をちらりと見たあと思い出したように言った。

「病院へ着いたら学校に電話しなきゃね」

「なんで」

「今日は学校行けないでしょ、休んだら? 病院も混んでるだろうし、行けても午後からね」

 貴絋の頭に、すぐに光一の顔が思い浮かんだ。

「俺行くよ」

「そう……お友だちと約束でもしてるの?」


 今日は水曜日。カレーとプリンの日だ。今週は全部登校すると光一に話した。

 貴絋は考える。

 あれは約束のうちに入るだろうか?

 それでも自分が休んだことで、がっかりする光一の姿は想像できない。別に友達でもない。休んだって何も変わらない。なら、別にいいか。

「……やっぱり、帰ったら寝る」


 プリンやカレーが食べたかった訳じゃない。正直に言って給食は全然美味しくない。

 貴絋は、光一と交わしたあやふやな約束と、彼が楽しみだと言ったその時間を少し共有してみたかった。それだけのことだ。



 □


「朝起きたら窓が割れてて、気が付いたらこうなってた。別に信じてくれなくてもいいけど自分で割った記憶はない。でも、たぶんこの手でガラスを殴った時にできた傷だと思う。覚えてねーけど」


 どうしたのかと医者に聞かれたので、貴絋は正直に話した。横でそれを聞いていた母親の真織まおりは途端にうろたえ始める。

「えっ……貴くんそれどういうこと……?」

「……貴くんって呼ぶな」

 貴絋はさも不機嫌そうに舌打ちをすると、真織から顔を背ける。

 整形外科の待合室で貴絋は待たされた。診察室で処置を終えたあと、先に出て待つように言われたからだ。ケガ自体はそこまで深い傷ではなかったらしい、見た目のわりには。

 母親はまだ診察室で薬や症状の説明を受けている。


「恐らく睡眠障害の一種だと思います。いや、私も専門外だから詳しいことは言えないんですけどね。たまにこういう子がいるみたいですよ。今年になって五回目ですか。食器や窓ガラスを割ったから気付けたものの、ひょっとするともっと多い可能性もある。玄関の鍵を開けて外に出たという例もありますからね。家庭の事情があるのはわかります。だけど用心しておかないと、手遅れになってからでは遅い」


 真織はただ呆然としながらその説明を受けた。

 夜勤明けで家に帰る朝、まだ7時過ぎなのに決まって貴絋は家にいなかった。キッチンへ行くと時々割れた食器がフローリングに散らばっている。貴絋がやったのだとすぐにわかった。他に誰もいないのだから、そういう答えに行き着くのはごく自然な流れだ。

 しかし貴紘を怒る気にはなれなかった。自分達の都合で別れた。それが貴紘にとっては不安でありストレスであり辛いことなのだと始めからわかっていたからだ。


 今朝真織が仕事から帰ると貴絋の靴がそこにあったので、まだ出掛けていないのだと思ったのもつかの間、玄関に一番近い貴絋の部屋のドアが大きく開いていることに気が付く。そこから吹き込む冷たい空気が、顔に張り付いた前髪を撫でていった。部屋の中を覗くと、カーテンが珍しく開かれている。その奥に見える窓ガラスは割れており、ベッドのシーツには何ヵ所も血の跡が見られた。

「貴くん!」

 リビングへの開かれたままのドアを押し開けると、ソファで眠る息子がいる。右手は負傷しているがそれ以外は問題なさそうだ。

 すぐに起こそうと、貴絋の顔を見て驚く。普段の目付きの悪い不機嫌そうな顔ではない、気の抜けた年相応の無垢な寝顔だった。その顔を見た途端、自分のふがいなさを思い知った。


「過度なストレス、原因にはそういうものもあげられます。できれば夜はお母さんも家に居てあげた方がいいかもしれません」



 真織はつい先程まで、食器やガラスを割ったのは貴絋の意思だと思っていた。自分へのあてつけなのだと。それで少しでも貴絋の気が晴れるのなら好きにさせてやろうと。そう思ったから何も聞かなかった。

 だがそうではなかった。もっと早くに気がついてやれば、こんなケガをさせずに済んだかもしれなかったのだ。

 真織はもう随分、貴紘と本音で向き合っていないことを思い出した。


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