減塩味噌汁
鼻先を冷たいものが掠めた気がして反射的に空を見上げた。思ったよりもどんよりと曇っていた空は、貴絋が顔を上げるのを待っていたかのように雫を落とし始める。濡れた顔を肩でぬぐって下を向くと、雨の日特有の草の濡れたような匂いが香り始めた。
「降っちゃったねー。傘持ってきた?」
「ない」
せっかく遊べると思ったのに、外がこれじゃどこにもいけないじゃないか。貴絋はつまらなそうにパーカーのフードを被った。
「じゃーな」と言おうとしたとき、先に光一が口を開く。
「そうだ! 宿題一緒にしない? 図書館とかで」
そう言われてすぐに、しぼんだ心が膨らみ始めるのがわかった。なぜか勝手に、公園でキャッチボールをしようと思っていた。しかしよく考えたら、光一はそういう遊びをするタイプではなかったのだ。
「……そこまで行くなら俺んちの方が近いけど」
「行ってもいいの?」
「いいだろ」
あの家に友達を連れていくのは初めてだった。むしろ、前に住んでいたマンションですら、ここ二年以上友達を連れて帰ったことがない。
こう言うとき、親に了承を得ないといけなかったんだっけ? 前までどうしてたっけ。
貴絋はふと疑問に感じたが、どうせ帰っても誰もいないことを思い出した。
□
二人でひとつの傘を差し、貴絋の家に向かっている途中、あるバス停を通りすぎようとしたとき光一が突然歩みを止める。
そんな光一の様子に気が付かない貴絋はそのまま歩みを進め、彼の持っていた傘の内側に思い切り顔をひっかけてしまった。
「おいっ! 急に止まんなって……」
反応のない光一の視線の先には、屋根の付いたバス停のベンチに座っている女性の姿があった。眠っているのか、じっと俯いている。
「あの人……大丈夫なのかな」
「……バス待つのに寝てるだけじゃん?」
光一は訝しむように女性を見つめた。
「でも……ちょっと行ってくる」
「オイ、ほっとけって!」
貴絋の言葉も聞かず、光一は半ば強引に傘を貴絋に押し付けると駆け出してしまった。
「まじかよ」
思わず舌打ちをして、貴絋もその後を追った。
近付いて見るとその女性は青い顔をして、こめかみにはうっすらと汗がにじんでいた。眠っているように見えたのは、目を閉じて苦しさに耐えていたのだった。
「大丈夫ですか?」
光一が声を掛けると、女性は辛そうにまぶたを開く。
「……大丈夫」
全くそうは見えない、彼女に余裕がないことが、初対面でもありありと伝わってきた。
「救急車呼びますけど」
「……病気じゃないから」
「でも、その様子じゃバス乗れないですよね」
「しばらく休んだら……乗れると思う」
「でも……、」
「もうタクシー呼ぶぜ?」
押し問答を続ける二人を見て埒があかないと判断した貴絋がやっと口を開く。
二人は同時に貴絋を見上げた。初めてその女性と目が合った貴絋は、思わず視線を反らす。女性は思ったよりも随分若く、美人だった。
「そうだね……じゃあ、お願いしようかしら……ごめんなさい。今日に限って携帯電話を忘れてきたみたいで……」
「僕電話あるとこ知ってる! 行ってくるね、君はついててあげて」
すべて言い終わらないうちに光一は走っていってしまった。貴絋は一人分の距離をあけてから、彼女の隣に座った。
――気まず……。俺が行けば良かった……。
何か元気が出るような言葉をかけてやればいいのだろうか? しばらく考えたが、気の利いた文句が思い浮かばない。
居たたまれなくなった貴絋は思わず立ち上がり、自販機で水を買った。くるりと向きを変えてベンチに戻ると、一呼吸置いて女性に声を掛ける。
「大丈夫? これ飲めば」
あまり着飾っていない地味な格好の割には華やかな顔の女だった。それでも顔色が悪いのは、化粧品を塗っていないからなのだとわかる。
「ありがとう……」
女性は貴絋からペットボトルを受けとると蓋を開けようとしたのだが、一向に開く気配がない。
「どんだけ力ないの」
「すみません……」
貴絋が代わりに開けてやると、飲んだのか飲んでないのかわからない程度に口をつけた。
「少し気分がよくなったみたい……」
青い顔でつく見え透いた嘘が痛々しい。よっぽど苦しいのか、目に涙まで浮かべているのを見て、貴絋はぎょっとした。
「……なんでこんなとこに居んの」
何か話さなければと咄嗟に出て来た言葉はなんともぶっきらぼうなものだった。
女性はパン屋の紙袋をぶら下げている。ここらで有名な店の袋で、貴絋も何度か食べたことがある。午後にはもう売り切れてしまう店なので、もしかしたらしばらくここで苦しんでいたのではと思った。
「今日ね、夫の誕生日なの……。ここの近くに彼の好きな食べ物のお店があって……。テイクアウトの予約をしていたんだけど、ここで動けなくなっちゃって」
「へぇ。なんて店」
「あの、あそこのデリカテッセンのお店……オレンジ色の壁の……名前がわからない」
「あーわかった、そこなら知ってる。俺取ってきてやるよ。予約してんだろ? 名前は」
女性は一瞬目を丸くしてから、首を横に振った。貴絋は自分でも驚いた。どうやらお人好しの光一のそばにいると、こちらまで感化されてしまうらしい。
「いえ、そこまでしてもらうわけには」
「すぐそこじゃん。早く名前、あと代金な」
「……ごめんね。本当に助かる。」
女性はためらいもなく財布をまるごと貴絋に渡した。
「名前は萬です」
その声に一瞬思考が止まってしまう。貴絋の旧姓と同じだった。割と珍しい名前らしく、今までに同じ名前の人に会ったことがない。
思わず女の顔を凝視した。貴絋の視線に気付いた女は顔を上げる。また目が合うと気まずく、貴絋は財布を握りしめたまま駆け出した。
――まさか親戚、じゃないよな。
財布が雨に濡れるのを見て、光一の傘を借りてくるべきだったと思った。帰りには商品を持つというのに、このまはまでは濡れてしまう。
その反面、なぜ自分がそこまで気遣ってやらねばならないのだろうという、僅かな憤りも感じた。
□
タクシーがそこを去るのを見届けてから、二人はようやく歩き始める。光一の頭はもう随分濡れてしまっていた。それを見た貴絋からは思わずため息とともに心配という意味も含まれた文句がこぼれてしまう。
「お前、いつか変な壺とか買わされそう」
「え? どういう事?」
曇りのない眼から発せられた純粋な疑問が、貴絋の居心地を少しだけ悪くさせた。光一といると、たまにこんな気持ちになることがある。そんなとき決まって貴絋は、ひねくれた自分の事を嫌いだと思うのだった。
□
「そこ座って、これで頭拭けよ」
貴絋からタオルを受け取った光一は、礼を言ってから頭を拭き始めた。貴絋のよりも随分短くカットしてあるその髪は、ドライヤーを使わなくてもすぐに乾いた。
「僕の父さんがさ」
おもむろに口を開いた光一の言葉に耳をそばだてる。「父さん」、今の貴絋にとっては、それが善悪関係なく特別な言葉だった。これから光一が何を話そうとしているのか知らないが、きっと重要な話なのだと感じる。
「医者なんだよね、それでよく他人の体調の心配をしてた。僕、父さんみたいな医者になりたいって、ずっと思ってるんだ」
「お前、親父さんに似たんだ」
貴絋が率直に述べた感想に光一は照れたように笑った。
思えば、初めて話した日も光一に心配をされていた。きっと素でそういう素質を持った優しいやつなんだと思った。そしてそれは父親だけでなく、母親からもきっと受け継がれている。
「さっきの人が二人で食べろって」
貴絋はパンが入った紙袋を光一の前に置いた。
「あっ! ここのパン知ってる。すぐ売り切れるやつだよね。僕現物初めて見たぁ」
「断ったんだけど無理矢理渡された。自分には食べられなくなったって」
「そうなの? どうして?」
「あの人お腹ん中に子供がいるんだって。よくわかんねーけど、今食べたいと思ったものが買った瞬間に大嫌いな物へと変わったり、吐き気したり、体液をあらゆる所から噴出したり、眠くなったりとそれはもう毎日が拷問のようだって言ってた」
光一は目を丸くして、黙ってそれを聞いた。
「ツワリ? って言うんだって」
「それなんか聞いたことある」
貴絋は、自分が一生味わうことのないであろう現象のナマエを聞いたとき、それが彼女の本当に疲れはてた様子と合わさって、軽く目眩がした。
続いて、そのような状態でもあるに関わらず夫のために出掛ける覚悟を持った彼女の精神にも怯えた。
「俺にはわかんねーな」
「僕たちもそうやって産まれてきたのかな」
光一のその言葉を聞いて、すぐに真織の顔が浮かび、次の瞬間には消えた。今まで不思議と考えたこともなかった、初めて浮かんだその疑問が、貴絋の胸の内を少しだけ暗くする。
――俺は誰から産まれてきたんだろ?
しかしその疑問は光一の腹から発せられた奇怪な音によって瞬時に打ち消された。
「プッ……! スゲー音。腹で妖怪でも育ててんのかい?」
「走ったからお腹すいちゃった」
光一は恥ずかしそうに笑った。
「せっかくだからそのパン食べれば? 食べたことないなら母さんにも持って帰ってやれよ。あ、牛乳でいい?」
貴絋はグラスを2つ持ってテーブルに置いた。続いて冷蔵庫から出した牛乳パックから、並々と注ぐ。
「ありがとう! 辻くんはここのパン食べたことあるの?」
「ああ、俺ここらのテイクアウトはほとんど網羅してるから」
「へえ! そうなんだ、グルメな趣味なの?」
「生きるため」
「どういう事!?」
パンを袋から取り出すと、驚いたことに10個以上あった。デザート系からおかずパンまで、バリエーションは様々だ。これはいくら二人でも多すぎる、あの人は一人で食べるつもりだったのか? そう思うと戦慄した。
「僕これ食べていい?」
光一が選んだのは、リンゴとさつまいもが入った可愛いパンだった。貴絋なら絶対にしないチョイスである。
「……遠慮してる?」
貴絋は言った。
「何が? 僕、これが一番おいしそうだと思って」
「普通ハンバーグとかウィンナーのやつ選ぶじゃん! お前それでも金玉ついてんの?」
「ついてるよ! 2つも!」
「いや俺もだけど」
理不尽な言いがかりを付けられた光一だったが、幸せそうにそのパンを頬張ると叫んだ。
「超おいしー! ああ、でももうひと味つけたすなら、クリームチーズだな」
「お前、減塩味噌汁に塩入れて飲むタイプだろ」
貴絋の言葉を受けて光一はきょとんと首をかしげて尋ねる。
「何それ?」
「そっか。減塩味噌汁知らないって、幸せなことだぜ。お前の母さん料理上手だもんな」
腑に落ちないような表情を浮かべつつ、光一はさらに尋ねた。
「お母さんて言えばさ、辻くんのお母さんってどんな人なの?」
貴紘は嫌悪丸出しの顔で答える。
「飯がクソまずい。俺以外なら耐えられない、多分お前なんかが食べたら即座に死を覚悟するレベル。飲み込む前に舌を噛んだ方がましだと思えるほどに」
即答だった。光一はただただ驚いて、返す言葉を捜しているように見える。
つかの間の沈黙のあと、玄関の方でカチャリと鍵の開く音がして、真織の声が聞こえた。
「ただいま! 貴くん、お友達?」
リビングのドアから真織が顔を覗かせた。その顔は、いかにも嬉しそうな笑顔である。
「……貴くんって呼ぶな」
こんなに早く帰ってくるとは思いもしなかった貴絋は、勝手に友達を連れ込んだことに嫌な顔をされるのではないかと勘ぐったが、実際にはその逆だった。
「こんにちはー! お邪魔してます。僕は貴絋君と同じクラスの松葉光一です」
「光一くんね! いつもお世話になっています。そうだ、なにか飲む?」
嬉しそうにキッチンへ急ぐ真織に、貴絋は言った。
「もういいから。部屋で宿題する。行こーぜ、光一」
「えっ? あ、……うん、じゃあ、失礼します」
「ゆっくりしていってね!!!」
リビングのドアを閉める瞬間まで、真織は笑顔だった。
貴絋の部屋に入るなり光一が目を輝かせて捲し立てる。
「辻くんのお母さんめちゃ美人じゃん! 若いし、綺麗なお母さん羨ましいなぁ。何歳なの?」
「別にフツーだろ……何歳とか知らね。それに俺からしたら美人より飯が作れる方が羨ましい。ま、適当に座って。ゲームする?」
そう言って貴絋は、床に座った光一にゲームのコントローラーを渡した。
「辻くんってお母さん似?」
「……いや全然」
「そうかなあ。でも似てるよ、目の感じとか」
光一は、この話題を嫌がる貴絋の空気と陰る瞳を察知できなかったことを、次の一言を聞いてからとても後悔した。
「似てねーよ。血繋がってねーんだから」
光一の体温は一気に下がった。そっぽを向いたまま目を合わせてくれなくなった貴絋の様子で、これはいつもの冗談ではないということを理解する。重い空気だけが二人の間を蠢いた。
「……ごめん僕、余計なことを」
「別にいい。よくある話だろ。でもあの人……母さんは、俺が知ってること気付いてないから、誰にも言わないでくれると助かる」
光一は、貴絋が母親に接するときの態度を見てどこか違和感を覚えていた。今この瞬間になって、貴絋の日常に散りばめられた寂しさの感情をやっと理解することができる。
「君の、お父さんは……?」
「顔も性格も親父譲りだってよ。でも離婚したとき親父は俺を引き取らなかった。これどういう意味かわかるか?」
真顔でそう言った貴絋の顔を見て凍りつく。
光一は返す言葉を失った。
「まったく、笑えるよな。そんなことよりゲームやろうぜ」
自ら放った重たい空気を消し去ろうと努めて明るく振る舞う貴紘を見て、らしくないと思った。
光一は、ゲームをしている間もずっと貴絋の言葉が頭から離れない。どれほどの因子がこの人の心を不安に染めているのだろうと、思わずにはいられなかった。




